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8 工房

「仲良くやっていけそうですね」


 キッチンで食器をクロスで拭いていた夏墨が、窓の外に目を留める。

 その視線の先には、杏子と春潮の姿があった。

 視線を和らげる夏墨の横で、冬凪は火に掛けた薬缶を見る。薬缶からは、十分な蒸気が上がっていた。

 茶筒から出した葉を茶碗へ落とすと、冬凪は横庭を一瞥して不愉快そうに鼻を鳴らす。


「気に入らないですか? 冬凪のその態度は改めてもらわないと、彼女が委縮してしまう」

「私は反対だった。なんの魔力も習得しないまま、あの歳まで過ごしていては、難しいと……。何度も言った」


 薬缶から沸きたての湯が茶碗へ注がれる。縮こまっていた茶葉が開き、さっぱりとした茶の香りが上がってきた。

 窓の外を努めて見ようとしない冬凪の様子に、夏墨は肩をすくめた。


「ここには主が必要で、彼女以上に適任な者はいませんよ。薔子さんも、自分の館を持つ身ですしね」


 夏墨は愛おしそうに、陽光の中を動く人影を見つめる。


「僕達にとって、ようやく戻られた主ですよ。魔力のことなど二の次になってしまいます。これからは、お傍で仕えることができる」

「魔力がなくては、役割を果たすことはできない」

「それはもちろん承知していますよ。でも、杏子さんに魔力が無い筈はありませんよ。彼女はあの桜子さんの娘ですし。それに……」


 夏墨は念を押す様に、含みを持たせた台詞を唱える。


「それに、これは桜子さんの意志でもあるんですから」

「……わかっている」


 ため息混じりに渋々頷き、眉間の皺を一層深くして、冬凪は自室へと戻って行った。

 その背中を見送り、夏墨は小さくため息を落す。


「わかっては、いるんですね……」






 そよ風が、アルカネットやサントリナの葉を揺らす。

 チコリ、アニス、セージ、エルダー。

 カモマイル、アルカネット、バーベイン。

 サントリナ、レモンバーム、ウォールジャーマンダー。

 春潮が片端から紹介する横庭の薬草の名は杏子には初めて聞く名ばかりで、その姿はどれも似通って見えてしまう。

 薬草で溢れた横庭を通り抜ける風は清涼感と微かな甘みを感じさせ、杏子の強張る気持ちを少しだけ解いた。


「春潮さん。この子はここで飼っているんですか?」


 春潮の足元には黒い犬が大人しく座っている。杏子の視線を受けて、その尾が楽しげに揺れた。


「ササタは、俺の使い魔なんだ」

「使い魔?」


 聞きなれない言葉に、杏子は身構える。

 一見は普通なこの犬も、杏子の知る犬という生き物とは違うのだろうか。 

 杏子の様子に、春潮は少しだけ寂しそうに呟いた。


「杏子は、俺達が嫌いか?」


 若草色の瞳がかげるのを見て、杏子は俯いたまま話す。


「ごめんなさい。そうじゃなくて……。薔子さんや母が魔女だなんて、思えなくて。だから……」


 だから、彼らを受け入れ難いと感じてしまう。杏子は、そのまま黙り込だ。

 春潮は用意していた言葉をかける。


「工房を見てみないか? 俺の仕事場なんだ。俺は作ることが役割だから、そこで色々なものを作っているんだ」


 杏子を先導するように、春潮は歩きだした。

 戸惑いを含む足取りが、自分に付いて来るのを背中で確かめながら。


 春潮は心から、杏子を歓迎していた。

 待ち侘びていた主の存在は、それだけで彼の気持ちを弾ませ満たす。

 ただ、気がかりなのは、すぐに伏せ目がちに沈んでしまい、自分自身を春潮の主だとまったく自覚していないことだ。


 屋敷の裏手に回ると、そこには建物が二つあった。

 少し離れた場所に、ひょろりと伸びた塔が一つ。そして屋敷に隣接して建つ、焼栗色の屋根に白塗りの壁の屋敷と同じ色合いの工房。

 両開きの扉を開き、春潮はその中へと杏子を招き入れる。ササタは工房の入り口に寝そべり、二人を見送った。


 工房は天井の高い広々とした空間になっていた。

 天窓からは十分な陽光が注がれ、工房は隅々まで明るく暖かな日なたに包まれている。

 杏子の鼻を、薬草の香りがくすぐる。

 横庭よりも数段濃く甘い薬草の香りが立ちこめる工房は、壁際にずらりと大きな木棚が幾つも並んでいた。

 草の香りを吸い込みながら、棚に並ぶ物々に杏子は視線を巡らせる。

 広口瓶の薬草の瓶詰めは、薬草を乾燥した状態で詰めたもの以外に、青々と摘みたての状態で瓶の中に収めたものと様々で。

 鉱石や金属の塊、様々な木肌の木片が並ぶ棚では、一際大きな石英の塊が薄白く光を放っている。


 整然と陳列される棚とは対照的に、工房の中央に置かれた大きな作業台の上は雑然としていた。

 無造作に転がる塊石、散らばった設計図、蓋が開いたままの瓶、それらの間に見え隠れする様々な工具。


「これは、もう少し磨いたら完成だ」


 混沌とした作業台から、鉄屑の山を掻き分けて春潮が取り上げたのは、金茶色の枠組みで作られた手提式の洋灯だった。

 はめ込まれたガラスの下方に、ヒナゲシがぐるりと一周彫り込まれている。灯りが燈るであろう場所に灯芯は無く、代わりに据えられていたのは黄水晶の小さな塊だった。

 作りかけの洋灯を見つめる春潮の表情が優しくなるのに気がつき、杏子は落ち着かなかった。

 改めて工房を見渡す。

 整然と並んだ棚にも、雑然と散らばる作業台の上にも、工房の隅々まで陽光と甘い香りが柔らかく満ちている。

 ここが彼の居場所だと、杏子にもはっきりとわかった。

 心地の良い空間は春潮と同じように杏子に好意的なのに、杏子はここに自分が居ることに気後れする。


「杏子! こっちにおいで」


 春潮の弾んだ声が杏子を呼ぶ。

 工房の一番奥の壁面は、炉になっていた。

 杏子は呼ばれるまま春潮の後ろに立ち、彼と火の気のない炉を見つめる。炉の傍らには、大小様々な鉄の抽斗が並んでいる。

 春潮は炉の前に進むと、その脇に立て掛けられていた細く長い銀の棒を一つ取り上げた。

 並んだ抽斗の一つを開けると、棒の先端を差し入れて静かに数回かき混ぜて引き抜く。棒の先に半透明の、水飴の様な者が纏わされている。

 春潮が炉に向って右手を軽く振った。

 暗く冷えていた炉の奥で、黄色い光が瞬く。光は数回瞬くと炎になる。

 炎は炉の中で揺らめく度に、その身の色を変えた。赤、白、黄、緑、青、紫、と一時もじっとせず色を変える炎に、杏子は目を奪われる。 

 春潮はその炎の中へ慎重に棒を差し入れ、手の中で静かに転がす。

 それは、杏子の知っている硝子工芸の手法に似ているようで、違っていた。

 青や緑の炎が確かな熱を発して、杏子の肌を刺激した。

 やがて、水の張られた桶に棒の先のものが落し込まれると、大げさな水蒸気が立ち昇った。


「手をだして」


 水蒸気の白いもやの向こうから、春潮の声がする。

 杏子がおずおずと両手を差し出すと、手の平に冷たいものが落ちてきた。


「きれい……」


 呟く杏子の手の平に、ひんやりと冷たい硝子の小鳥が乗っている。

 それは水のような滑らかな手触りで、丸々とした体は可愛らしい翼を行儀良くたたみ、小首を傾げた形で杏子を見上げていた。 

 透明な硝子の小鳥に、炉からの炎が映り込み十色にも輝く。


 春潮が小鳥に向かってふっと息を吹き掛ける。

 小鳥はチリリと震えると、硝子の翼を広げ杏子の手から飛び立った。

 硝子の身体に天窓から落ちてくる陽光を反射させながら、小鳥は器用に工房を飛び回る。

 ざらついた板張りの床に、透明な光の影がくるくると回った。


 そして小鳥は開かれたままだった杏子の手の平へ降り立つと、翼を畳み、動かぬ硝子細工へと戻る。

 杏子は言葉もなく、驚きの目で小鳥を見つめた。


「上手に出来て良かった。それ、初めての成功作なんだ。きちんとかたちが整わないと、飛ばないからな」


 春潮は、杏子とその手の中の小鳥を交互に見て満足げに笑った。


「それは、杏子にプレゼントするよ」


 小鳥を見つめたままだった杏子は、不意にそう告げられると更に驚いて視線を上げた。


「初めての成功作なんですよね。そんな大切なもの、頂けません」

「いいんだ。杏子のために作っていたんだから」

「でも……」

「俺があげたいんだ。迷惑じゃなかったら、貰ってほしい。それとも、魔法で作ったものは気味が悪くて嫌か?」


 杏子は慌てて首を振ると、そっと小鳥を包みこんだ。手に伝わる冷たさは、優しかった。


「……ありがとう、ございます」


 ぎこちなくもお礼を告げた杏子と、その手に納まった小鳥を見て、春潮は嬉しそうに目を細めた。






 横庭で春潮と別れた杏子は、窓から部屋へと戻った。

 手にしていた硝子の小鳥を机の中央に慎重に置き、椅子に座り真正面から小鳥をしばらく見つめる。

 硝子の小鳥が動き出す様子は微塵も窺えず、透明な翼を指先でそっと撫でてみる。硝子の冷えた感触。

 

 杏は目を閉じると、息を潜めて空気を手探る。

 同じ屋根の下にいる人の気配を探り、部屋のそばに誰もいないことを確認してから、杏子は工房での春潮の動作を真似て小鳥へそっと息を吹きかけてみる。


 硝子細工の小鳥は羽根一枚動かさず、透きとおる瞳で杏子を見つめ返していた。


 小鳥から離れ、杏子は寝台で膝を抱える。

 その胸の奥に苦い雫がぽたりと一滴、落ちて広がる。

 杏子は目を閉じた。

 誂えられた優しい部屋の風景から目を逸らすために。



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