7 魔女
魔女。
人知の及ばない人外の理で生きる、人ならざる存在。
それはこの世界で、架空の産物ではなく、血と肉を持ち確かに実在している。
――数百年前、この世界は突然の災いに襲われる。
平穏だった大地が割れ、海は荒れ続けた。天空の恵みだった陽光が姿を消し、風雨は容赦なく人の営みを奪い流した。
治まらない天災は、更なる災いを呼ぶ。
灰色蟲。
どこからともなく現れたそれらは、形も大きさも様々だった。
だが、共通していたのは灰色の外骨格に覆われた醜悪な姿。人を標的とする、混沌とした獰猛さ。
天災に疲弊しきっていた世界に、灰色蟲の厄災に抗う力は残っていなかった。
ただ震え、世界が終わるのを待つばかりの絶望の日々。
そこに光が射す。
麗しい黒髪の五人の女たちが、今にも喰い尽くされようとする世界に降り立った。
大地を平らにし、海を鎮め、空をなだめ。はびこる灰色蟲を追いやり、消し去ったのだ。
世界には無数の裏側がある。と、彼女たちは言った。
それは隣り合い、時に背中合わせに存在する、数多の世界のことだと。その中の一つから、彼女たちはやって来た。
彼女たちが最初の魔女だった。
魔法を使いこの世界を救った彼女たちは、この世界が均等に安寧であるようにと、世界に散らばり、各地に自らの居城を築きそこに暮らした。
その後も新しい魔女たちの訪問は続き、災いは終息し世界は安寧を手に入れる。
これが、杏子の世界の魔女たちの物語だ。
杏子は勿論、帝国中の者が知る歴史の事実だ。それは海を渡った異国でも変わらない。
現在も、彼女たちは災いを遠ざけ世界の均衡を保つ尊い者として、一国の王にも比肩する身分をもち確かに存在する。
帝国の各地にも魔女とその館が点在している。
どの屋敷も小規模な森と高い堀で取り囲まれ、館に住まう者の姿はおろか建物の様子すら窺うことはできない。
魔女の姿を庶民階級の民が目にすることは皆無で、帝国内でも限られた、それもとりわけ高位な者たちのみが彼女たちに相見えるのだという。
一介の女学生である杏子に魔女は、関わりのない雲の上の存在でしかなかった。
わたしが、魔女?
眉を寄せた杏子は、疑わしそうに三人を見回す。
春潮の眼差しにも冬凪の眉間の皺にも、戯れの様子は見つけられない。
夏墨の語ることをすんなりと理解できないことに、杏子は混乱した。
「ごめんなさい。わたしには、夏墨さんの言っていることがわかりません」
つい謝ってしまう杏子に、夏墨の声は優しかった。
「戸惑われるのは無理もありません。杏子さんは、知らされずにいたのですから。……桜子さんは、力のある魔女でした。その妹の薔子さんも。そしてあなた、杏子さんも」
夏墨の優しい声に頑なな強さが加わり、杏子を見る目にも力が入る。
そして夏墨は一息に告げる。
「杏子さんは魔女として、この屋敷と私たちの主になるのです」
部屋はしんと静まり返り、誰も口を開かない。
真剣な面持ちで自分を見る三人の視線を外すように、杏子は弱々しく首を振った。
からかわれているとは思えなかったが、鵜呑みにできる話でもない。
もうここから帰してもらおう。そう決めて、杏はテーブルの下でぎゅっと拳をにぎる。
「――なるのです。って、そんなの無理です。信じられません。……母は、普通の人です。薔子さんも、私も。あの、もう結構です。帝都へ帰らせてくだ――」
言いたかったことは、最後まで告げられなかった。杏子は口をつぐむ。
それは目の前の三人に視線を奪われたからだった。
瞬く間に、三人の髪と瞳の色が変わった。
黒髪に黒い瞳だったはずの彼らは、そこにはもういなかった。
「これが、私たちの本来の姿です。最初からこれでは、驚かれると思いまして」
夏墨の銀縁眼鏡の向こうの瞳が冴えた空色に変わり、整えられたさらりとした髪は金色になっていた。
春潮の短い髪は深い茶色になり、穏やかな瞳は若草色に。冬凪は白銀の髪に紺紫の瞳に変わった。それは彼の雰囲気をより冷たく見せた。
杏子は無遠慮になるのも構わず、彼らを見つめた。
御伽話の世界に住まう者の様な髪や瞳が、不思議と彼らには違和感なく馴染んでいる。
空色の瞳が、杏子をまっすぐに見つめる。
「待っていたんです。ずっと。あなたが、ここへ戻るのを……」
ダイニングキッチンから奥の部屋に通された杏子は、すっかり疲れ切っていた。
食卓での三人の変貌に杏子はものも言えなくなり、一先ず事の返事は先送りにされる。
顔色の優れない杏子を気遣い、夏墨は少し休息するように言い部屋を出て言った。
一人になると張りつめていたものが解けて、力なく整えられたベッドに横たわる。
「ここが、わたしの部屋……」
杏子は身を横たえたまま、視線だけで部屋を見回す。
夏墨は、ここが杏子の部屋だと言った。
帝都の薔子の屋敷にあった以前の部屋より、一回りも二回りも縮んだこの空間が杏子に与えられた新しい部屋。
机に椅子。作り付けの扉付クロゼット。木枠の窓。天井から下がる硝子シェードの電灯。
どれも年月を感じさせたが、手入れが行き届き清潔な小部屋。
寝具や窓布が淡い色の小花柄なのは、自分を意識して彼等があつらえてくれたのかもしれない。
「……でも、屋敷の主人の部屋にしては、簡素というか、質素というか。そもそも、屋敷や館と呼ぶような建物ではないような……」
杏子は大きく息を吐いて、身を起こした。
南向きの窓からは、午後の陽光が入ってきている。その光に、クロゼットの前に置かれた飴色の旅行鞄が温められていた。
契約の再開?
わたしは一体いつ、彼らとそれを交わしたのだろう?
全く身に覚えがないことを、杏子は後ろめたく思ってしまい顔を曇らせる。
そして杏子は、頬にかかる自らの髪に触れた。
……わたしは、魔女ではない。
暗褐色のその存在を、杏子が忘れたことはなかった。
魔女の髪は黒い、その瞳も。
それは周知の事実で、幼子でも知っていることだ。もちろん杏子も。
だからこそこの帝国では、生まれ持った黒い髪に黒い瞳を脈々と受け継ぐことが良しとされていた。魔女と同じ色を持つことを誉れなことだとして。
それ故に、帝国人として生まれながら髪にも瞳にも黒を持たない杏子は、嫌な思いをすることが少なくはなかったのだ。
雲から出た太陽の光が、部屋の中へいっそう明るく入ってくる。
杏子は窓辺に立ち、外を覗いた。
ガラスの向こうの横庭で、無頓着に大小様々な草木が揺れている。
花の季節が遅いものが多いのか、春の横庭は花の姿の目立たない緑の庭だった。
跳ね上げ式の窓をそっと開けてみると、柔らかな風が杏子の髪を揺らした。
首筋を撫でる毛先に、先刻、不躾にもそれを摘み上げられたことを思い出す。
少し、不思議だった。
杏子の髪の色には全く拘らず、髪の長さを非難した冬凪。
冬凪だけでなく夏墨も春潮も、杏子の黒くない髪と瞳の色を気にとめる様子は微塵も感じられなかった。
彼ら自身の髪や瞳の色が、帝国の常規から外れているからなのかもしれない。
それは、それだけが、ここで過ごすことで得る利点に思えた。
帝都を離れ、人里からも離れたここでなら、杏子は自身の一部に煩わされることなく、蔑みの視線からも解放されて過ごせるのかもしれない。
杏子が再び視線を横庭へ巡らすと、庭の端に春潮が現れた。
その傍らに、大きな黒毛の犬がふさふさとした尾を振りながら付いて回る。
先に杏子に気が付いたのは、黒い犬だった。続けて春潮も杏子に気が付き、すぐに窓辺までやって来た。
「ねえ、庭に出てみない?」
朗らかな笑顔を向けられて、思わず杏子は小さく頷く。
春潮は嬉しそうに笑うと、窓辺に立つ杏子を軽々と抱えて部屋から庭へと下ろした。