6 ミント水
「誰!?」
杏子が驚きの声を上げてしまったのは、無人だと思い込んでいた家屋の中に人がいたからだ。
開いた扉の向こう側には、杏子を迎えるように二人の男が立っていた。
不機嫌そうに腕を組む顔色の悪い痩身の男は、長い前髪の向こうから杏子を見据えている。
その隣に立つ男は浅黒い肌の筋肉質な体つきで、口元に笑顔を浮かべて嬉しそうに杏子を迎えていた。
二人の背丈は杏子より頭ひとつ分以上は高い長身で、杏子は見下ろされるかたちになる。
じっと向けられた対照的な二つの視線に戸惑い、杏子は後にいる夏墨を振り返った。
二人に違わずやはり長身の夏墨は、扉を閉めるとにこりと笑い、杏子の向こうに立つ二人へ声をかける。
「二人とも、まずは挨拶ですよ」
すぐに笑顔の男が反応して、杏子の前に歩み出る。
少し癖のある柔らかそうな短い髪の男は夏墨と同じ年頃の青年で、人好きのする優しい目をしていた。
「こんにちは、杏子。俺は春潮。やっと会えて、すごく嬉しいよ」
屈託なく笑い、春潮は大きな両手で杏子の右手を優しく包んだ。
ぱりん!!
ああ、また。なにかが、壊れた音がした。
杏子の耳元で、今朝と同じ音が響く。
確かに聞こえたその音を、訝しがる人はいない。
そして、杏子はすぐに三度目の音を聞くことになる。
「おい! なんだ、その髪は!!」
突然の叱責の声に杏子は身を硬くする。
まさか、こんな直接的に髪の色を非難されるとは思いもしなかった。それも、初対面の者に。
苛立った声が近づき、杏子の肩上で切り揃えた暗褐色の髪を無造作に摘まみ上げる。
「こんなに短くしていたのか。薔子は、なにをしていたのだ!」
杏子は、呆然と声の主を見上げた。
どうやら彼は杏子の髪の色ではなく、その長さを不愉快に思っているようだ。
彼は苦々しく、その手の中の髪を睨む。
「冬凪。いきなりそれでは、杏子さんが驚きます」
たしなめる様に夏墨に言われて、冬凪は杏子の髪を離した。
前髪の向こうの切れ長の目が杏子を見て、そのまま無造作に杏子の右手を握る。
ぱりんっ!!
歓迎の意など全く含まないその握手をした途端、杏子は三度目の音を聞いた。
「ご心配なく。これは、契約再開の合図ですよ」
正体不明の音にうろたえる杏に、夏墨は平然と言いのける。彼らには、その音が聞こえ、その意味も分かっていた。
知らないのは、杏子だけだった。
ずらりと並んだ白パンと黒パンの間からは、瑞々しいグリーン、柔らかな黄、しなやかなピンク、艶やく赤。
ガラスの水差しに満たされた、白、オレンジ、紫。
大きな食卓の上には、色鮮やかに楽しげな昼食が並べられていた。だが、杏子の気分は浮かなかった。
ほとんど手を付けられないままの杏子の皿を見て、春潮は顔を曇らせ向かいの夏墨と隣席の冬凪に視線を送る。
夏墨は静かに苦笑するのにとどまり、冬凪は無感情に食事を続けた。
食卓の上座に座らされた杏子は、俯いたままだった。
素性を知らない人と囲む食卓はひどく気詰まりな上、杏子は自分の内に溜まっていく疑問符に息苦しさを感じる。
ここはどこなのか?
母は、どうしてこの家をわたしに残したのか?
あの鍵はどこへ行ってしまったんだろう?
帝都へ、薔子さんの屋敷へ戻れないのか?
一緒に食卓を囲む、彼らは何者なのか?
わたしは、何の為にここへ来たのだろう?
次々に浮かぶ疑問は、どれほど繰り返し考えても答えを見つけることは出来ない。
さんざん迷ってから、杏子は自ら口を開くことにした。
手元に置かれていたミント水を一口飲み込み、杏は三人へと視線を向ける。
「あの……。みなさんは、どんな方たちなのですか? どうしてここに?」
やっと口を開いた杏子に、食卓の三人の視線が集まる。杏はその視線たちから逃れる様に、視線を落としてしまう。
「私たちは術者です。この屋敷で、主が戻られるのを待っていたんです」
夏墨が穏やかな口調で答えると、杏はゆっくりと視線を彼に向けた。
術者。主。
聞き慣れない言葉に戸惑う杏子に、夏墨は続ける。
「この屋敷の前の主は、あなたのお母さんの桜子さんでした。桜子さんがいなくなり、この屋敷は主を失いました」
杏子は春潮が目を伏せ、冬霞が纏う雰囲気を強張るせるのに気がつく。
二人が、いなくなった桜子に思いを馳せているのが分かる。様子を変えずに語る夏墨からも、それが感じてとれた。
彼らから痛いほど感じる、桜子への強い思い。
娘である杏子だけが、桜子への思いを待たずにそこにいた。
杏子の中で、空白の部分が軋む。
「……母は、あなた達の雇い主だったということですか? わたしは、この家……この桔梗の屋敷を相続するということですか?」
杏の言葉に、夏墨は首を横に振る。
「いいえ。私たちの主は、杏子さんあなたです」
「わたしが? 主? あなた達の?」
夏墨はゆっくりと頷いた。
「先ほど、契約が再開されました。私たちは、あなたの術者です」
耳にあの音が甦る。
三人は、杏子を見つめていた。
「あなたは魔女です。そして私たちは、あなたの忠実な術者なのです」
夏墨の声は、凛と静かに杏子の耳に響いた。
それはまるで、先ほど飲み込んだ小さな若葉の浮かんだミント水のようだった。