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5 薄緋色

 

 目覚めた杏子が最初に見たものは、窓の外を流れる緑色だった。

 流れ過ぎさる、みどり、きみどり、ふかみどり。

 瞳に飛び込んでくる圧倒的な緑色の洪水は、まだぼんやりとする思考と視界に心地良く、杏子は再びまどろみに落ちていきそうになる。

 ゆっくりとまばたきを繰り返して、焦点を合わせて外を見る。車は森の中を走っていた。

 長く眠ってしまったようだ。すっかり高くなった太陽を見つけて、杏子は静かに身を起こす。

 運転席を窺い見ると、夏墨は疲れた様子も見せず機嫌良さげにハンドルを握っている。

 すっかり眠り込んでしまったことに気まずさを感じて、杏子は再び外を見た。

 車内は静かだった。

 おそらく夏墨は、杏子が眠っていたことも、今眠りから覚めたことも気が付いているのだろう。

 何か話しかけるべきかと杏子は口を開き、そして閉じた。

 こんな時に会話の糸口も、自分から話し掛ける方法も見つけられないことは知っている。

 小さく息をついて、杏子は視線を外に向けた。


 外は春の陽射しと緑の木々、その間を縫う白い道がゆるゆるといつまでも続いている。

 振り向いてみても、進行方向も、似たような景色が続いていた。

 いったいこの道はどこへ続いているのか。眠りこんでしまった杏子には、ここが帝都からどれほど離れた場所なのか見当もつかない。


「起きましたか?」


 夏墨の声に、外を見ていた視線が慌てて車内に戻ってくる。

 ミラー越しに微笑まれて、杏子は小さな声で答えた。


「すみません。すっかり眠ってしまって……」

「可愛い寝顔でした」

「……え?」


 夏墨の突飛な発言に、思わず杏子は聞き返した。


「可愛い寝顔でした」


 からかう様子はなく、夏墨は微笑んだまま繰り返した。

 杏子の頬が赤くなる。

 こんな時、気の利いた返事を返して会話を膨らませることができない。杏子は黙り込んでしまう。

 

「可愛い寝顔だったのに、起きたらまた不安そうな顔になってしまいましね。心細そうな顔に……」


 言い当てられたことに、杏子は少しだけ腹立たしかった。

 杏子が不安になるように取り計らったのは、彼女自身ではない。この状況に、心細さを感じずにいられないわけもないのだ。


「わたし、いまから行く場所のことを何も知らないんです。どこにあるのかも、それがどんな場所なのかも……」


 杏子の声は硬かった。

 どうしてこの車に乗っているのか、行き先に待っているものがなにか、何も知らない。

 帝都に、もといたあの屋敷に戻れるのかも分からない。

 

「大丈夫です。素敵なところですよ。杏子さんも、きっと気に入ります」


 優しく晴れやかな夏墨の言いぶりに、杏子はその背中を見る。

 夏墨の背中は、杏子とは対照的に楽しげな雰囲気を漂わせていた。


「もうすぐですよ。ああ、そうだ。鍵は持ってきていますよね」

「はい。ここに」


 鍵の入った手提鞄を膝に乗せ、杏子は頷いた。

 鍵はいま向かっている屋敷の物なのだと思うと、杏子はそれを使う時、つまり目的地へ着いた時のことを考えた。

 この先のことも、彼が案内してくれのだろうか? そうでないのなら、屋敷に着いて鍵を開けて、それから自分はどうしたらいいのだろう?

 視線を下げて考え込んだ杏子に、夏墨が声をかける。


「杏子さん。ここが入り口です」


 呼ばれて視線を上げると、視界が薄緋色に占領される。

 車は緑の木立ちの間から、唐突に始まった桜並木の中を走っていた。 


「……すごい」


 杏子は思わず息を飲むが、すぐに感嘆のため息がこぼれる。

 こんなに立派な桜並木を見るのは初めてだった。咲き誇る桜の花はどの木も満開で、両脇から大きく張り出した枝に陽光は遮られ、車は淡く緋色に光るトンネルを走る。

 振り返れば並木の入り口はすでに遠く、右も左も前も後も桜に囲まれていた。

 あまりにもたくさんの花が咲いているからだろうか、それとも杏子の知る桜とは少し種が違うのか、ここの桜の花色は赤味が強い。

 その花が作る仄明るい緋色の空間は、まるで永遠と続く朝焼けの中に迷い込んだように美しかった。


 目深に被った帽子を脱ぎ、杏子はしばらく車外の景色に見惚れ、ぼんやりとシートに身を預けていた。

 習慣にしていた母を想うことさえ忘れて、ただただ無数の桜を眺め続ける。


 桜並木が途切れたのは、それから暫らく経ってからだった。

 長い長い桜の並木道を抜けると、景色は急に開けたものに変わった。木立はまばらになり、緩やかな丘陵が重なる。

 緑色に覆われた丘には、シルバータイムが延々と群生していた。


「見えてきましたよ」


 夏墨が指差した方向に、小さな影が見えた。

 杏子は目を凝らし、注意深くその影と辺りを観察する。

 丘の端にポツリと見える屋敷と思われる影の周囲には、ほかに建物らしきものはまったく見当たらない。

 建物に囲まれた帝都で育った杏子には、この寄るべき物もなく広く開けた風景を心細く感じた。たった数時間で、世界の果てに連れてこられた気分になってしまう。

 萎む気持ちに反して、屋敷はみるみると近づいてきた。

 点だった影がやがて輪郭をもつ。

 尖がり屋根の塔が、ひょろりと伸びるのが見えた。その塔の前に平たい家が建っている。

 車がその建物の前に横付けに止まると、杏子はガラスを下ろした車窓からよくよくそれを眺めた。


 敷地を囲むのは腰の高さほどの木の柵で、気ままな間隔で張り巡らされていた。

 その中に、屋敷と呼ぶには大げさな、一階建ての家屋。その後方に細長い塔がある。

 家は焼栗色の屋根に白塗りの壁、壁の中央部分に位置する玄関扉は陽に褪せた黄色に塗られている。黄色い玄関扉を挟んで両側の壁の中程に、木枠の窓が左右に一つずつ付いていた。

 家の前には簡素な前庭があり、クローバーが緑色に庭を覆い、紛れ込んだ野草の小花が白く黄色く小さくあちこちに咲いている。

 そのクローバーグリーンの絨毯の中央を、アプローチの小道が道と玄関を結んでいた。


 人形の家みたいだ。

 可愛らしく、どことなく牧歌的な佇まいの家に杏子はせわしなく目をまばたかせる。


「お疲れ様でした。ここが桜子さんの残した屋敷、桔梗のききょうのやかたです」


 いつの間にか車を降りた夏墨が、窓の外に立っていた。


「桔梗の館……」


 繰り返す杏子の目には、館と呼ぶには気の引ける控え目な佇まいの家。


「さあ、中へ参りましょう」


 車の扉が開けられた。

 外へ出てみると、澄んだ春風が深緑のワンピースの裾を揺らして通り過ぎる。春先のまだ冷気を含む風は、連なる丘の向こうに駈けていく。

 旅行鞄を携えた夏墨が、前庭のアプローチを先に進んだ。その後に杏子が続き、二人は玄関扉の前に立った。

 厚い樫の玄関扉の前で、夏墨は杏子を見る。

 杏子は扉を開けるべく、慌てて手提鞄から封筒を取り出した。けれど、確かにその中にあったはずのあの黄金色の鍵が見当たらない。


「いやだ……。どこにいっちゃたんだろう。ゆうべ、そのまま封筒に戻しておいたのに」


 慌てた杏子が鞄を探ろうとしたのを、夏墨がやんわりと制止する。


「鍵はもう使いました。この扉に、鍵は必要ありません」

「使った? どこでそんな……」

「さあ、中に入りましょう」


 腑に落ちないまま、杏子は改めて扉を見る。

 確かに夏墨の言う通り、そこには鍵を使うべき鍵穴は見当たらなかった。


 鍵のない玄関なんて……。

 いくら人里離れた所だろうと、鍵も掛けずにいるなんて不用心すぎる。

 不安な面持ちで、杏子は真鍮の丸いドアノブを回した。

 ドアノブには花の模様が施されている。

 五つ花片の花は封筒の印と同じ。それが桔梗の花だということに、杏子はまだ気がつかない。


 重く古びた扉は、少しも軋むことなく開いた。



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