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4 マシュマロ


 翌朝、杏子は早々にベッドから起き上がる。結局、寝付くことが出来ないまま朝を迎えてしまい、杏子の身体は重かった。

 身体と同じように重くなった気分が、なんども杏子の口からため息を落とさせる。

 寝間着のままぐずぐずと夜明け前の窓の外を覗いたりしてから、ようやく杏子はのろのろと身支度を始めた。


 小豆の用意した深緑のワンピースに着替え、黒いクロシェ帽を目深に被り、桜子からの鍵の入った封筒を手提鞄に入れた。

 静まり返った屋敷の階段を下り玄関ホールに入れば、あの大きな旅行鞄がどんと鎮座している。

 それを見て、杏子は再び憂鬱な息を吐き出す。


 ここへ、戻れないとは言われていない。

 けれど、大袈裟な旅行鞄や詳細を語らない薔子の態度に、杏子はここに戻ってこれない気がしてならなかった。

 

 薔子は大概の物事を杏子が望むようにしてくれていた。今までは。

 取り立てて我がままを言ったりする子供ではなかった杏子が、薔子に望んだことは少なかった。

 そして薔子も、杏子に何かを強制することはほとんどなかったのだ。

 そんな薔子が、半ば強引に進めたこの件に、杏子は不安を感じずにいられなかった。

 

 

 変わり映えしない日常。

 それが、杏子の毎日だった。

 決められた時間に起き、用意された食事を取り、学校へ通い、帰宅する。

 ほとんど判で押したような毎日でも、杏子には日々は平穏で凪いだ時間になる。

 杏子はこの屋敷で一人過ごした。ここが、杏子の最良の場所だった。

 それがこんなふうに突然に、知らない場所へと移される。

 たとえこれが母親の意向だとしても、時間が過ぎ、考えれば考えるほど、不安で憂鬱で堪らなかった。


 やっぱり、行きたくない。


 杏子は、旅行鞄の持ち手を握る。

 今すぐこの鞄を持って部屋に戻り、荷解きしてしまえば、明日からもいつもと同じ毎日を過ごせるだろうか。

 そう思い、杏は鞄を持つ手に力を入れる。

 ところが旅行鞄は、杏子の力では僅かにも持ち上げることが出来なかった。


「お、重い……。それもそうか、ゆうべあれだけ詰め込んでいたし」


 小豆が苦もなく運んでいった旅行鞄は、杏子には引きずることも出来ず、杏子は大きく息を吐いた。


「小豆さんは、普通に持ってたのに……」


 旅行鞄の尋常ではない重さに、杏子はそれを動かすのを諦めた。

 かわりに鞄の上に腰かけて、玄関ホールをぐるりと見回し目を閉じる。


 人の気配のしない建物。

 しんと静まるホールに響くのは、振子時計が時を刻む音。

 磨き上げられた赤御影石の床。塵ひとつない調度品たち。

 客間、食堂、厨房。黒檀の手摺の階段。

 杏子の部屋、薔子の部屋、浴室、書斎、客室、屋根裏。

 奥庭の薔薇の生垣。


 目で見なくとも、杏子の中にそれらは見るよりも鮮やかに浮かぶ。

 静かな屋敷。ここにいるのは、杏子だけだ。今も今までも。


 時計の針が動く。杏子は目を開ける。


 時刻を告げる鐘が鳴り、六時きっかりに玄関の扉は開かれた。

 開錠の音もなく開いた玄関扉に、杏子は驚き身を硬くする。


「おはようございます。杏子さん」


 青年が一人、澄んだ靴音とともに入ってきた。

 三つ揃えの外出着で中折帽を手に持ち、細い銀縁眼鏡の向こうで涼やかな瞳が親しげに細められる。


「私は、夏墨かすみと申します。本日、杏子さんを迎えに参りました」

 

 容姿にそぐう流麗な声。

 きりと上がった口角が、柔らかな笑みを作り杏子に向けられる。

 ごく自然な物腰で、青年はその右手を杏子に差し出した。

 旅行鞄に座ったままで、突然の訪問者に呆然としていた杏子は我に返り慌てて立ち上がる。


「お、おはようございます」

 

 気後れしながらも、ぎこちなく差し出した杏子の右手を夏墨が取り、握手が交わされた。

 その瞬間、杏子の耳の後ろで、パリンと硝子が砕けるような音が響く。


「いま、なにかが……」


 驚いて振り返った杏子の目は、異変を見つけられなかった。

 屋敷は変わらず静まり返っている。

 だが杏子のすぐそばで響いた音は凛と鮮明で、確かに何かが壊れる音に聞こえた。

 それはとても空耳とは思えなかった。


 訝しげにする杏子をよそに、夏墨はまるで音など聞こえなかったように杏子の傍らの旅行鞄を事も無げに持ち、杏子を外へと促す。

 杏子は旅行鞄を軽々と提げた夏墨を思わずじっと見る。

 女性である小豆もそうだったが、目の前の細身の青年も鞄に重さなど感じていないように見えた。


 たしかに、すごく重いはずなのに……。


 じっと旅行鞄を見つめた杏子を、夏墨は再度促す。


「さあ、行きましょう」


 明け始めた玄関の外には、白い車が停まっていた。

 それは杏子も最近街でよく見かける、大衆向けの小型オイル式自動車だった。

 白い車の横に所在無く杏子は立ち、その背後で玄関扉が閉められる。

 先ほどまで居た場所は、途端に杏子から遠ざかっていく。

 もう、この扉の向こうに自分の居場所は無くなってしまったのだと、杏子はぼんやりと感じた。


「鞄は後ろに積みました。さあ、出発致しましょう」


 夏墨が後部座席の扉を開いたが、杏子は前に踏み出せなかった。

 行く先も分からないまま、見知らぬ男性と二人きりで車に乗らなければならない状況に杏子は躊躇する。


「あの、行く先はどこなんですか? それと、あなたは?」


 杏子の小さな声の問いかけに、夏墨は即座に返答した。


「行く先は、桜子さんの残した屋敷です。私はそこから来ました」


 淀みなく答えた夏墨の言葉は、杏子が知りたいことを満たすには足りなかった。が、昨夜の小豆とのやり取りを思い出して、杏子は口を閉じる。彼はこれ以上問いかけても、何も教えてくれないのだろう。

 肝心なことは何も知らされないまま、杏子は運ばれていくのだ。


「では、どうぞ中へ。目的地までは少し時間がかかります。寛いでください。……それとも、後ろの席よりもこちらが宜しかったですか?」


 夏墨はそう言って、笑顔で運転席の隣を示してみせる。慌てて首を横に振った杏子は、大人しく車に乗り込んだ。

 後部座席には柔らかな薄手の毛布に、淡い黄色やピンク、黄緑や薄紫のパステルカラーのクッションが幾つも用意されていた。ふんわりと良い香りまでしている。

 色とりどりな淡い色に埋もれて、杏子は自分の深緑のワンピースが異質に感じてしまう。

 馴染みのない色味のクッションをそっと端に押しやると、後部座席に薄茶の小箱を見つける。

 運転席に座った夏墨が杏子を振り返り、「お口に合えばいいのですが」と微笑まれて促され、杏子は箱を開く。

 箱の中には、先ほど座席の端に追いやったクッションと同じ色をした柔らかな四角が、ふんわりと寄りそっている。


「マシュマロです。色ごとに味が違うんですよ」


 夏墨の笑顔に杏子はぎこちなく頷き、小箱をそっと膝にのせた。

 それを見てから夏墨は前に向き直り、車のエンジンが静かに動き出し見慣れた風景が流れていく。

 杏子はガラス越しに外を見つめる。


 薔子の屋敷、前庭、いつも使っていた通用門。

 もうじき、通いの女中が来る時間だった。

 彼女は今日も来るのだろうか?

 杏子は無人になった屋敷をしばらく振り返り見る。

 屋敷に通った女中たちはみな寡黙で、杏子は彼女たちと必要以上の言葉を交わしたことがなかった。

 今日、彼女は自分が屋敷にいないことを気にかけてくれるだろうか?

 そんな思いが杏子の中に浮かんで消えるうちに、車は表通りを走り、杏子の通う女学校を通り過ぎた。

 人けのない校舎を見て、杏子の胸が小さく痛む。

 特別そこが好きだったわけではない。薔子に通うように告げられ、通っていた。友人と呼べる者もいなかった。それでも、なぜかその景色に別れを感じて胸が痛む。


 杏子の日常が、景色と共に後ろへ流れ去っていった。

 外が見慣れない街並みに変わっていく。

 北地区からほとんど出なかった杏子には、もう見慣れた景色は見つけることは出来ない。

 車の走る方向を考えると、帝都を出ることになるのが杏子にも分かった。

 

 そうして窓の外を眺めているうちに、杏子は目蓋が重くなるのを感じる。

 昨夜寝付けなかったことに加えて、車の振動と車内に優しく漂う香りが、杏子を眠りへと誘うのだ。

 それでも、よく知らない青年の運転する車中で、不用意にも眠ってしまうことに杏子は少なからず抵抗を覚える。

 それは女子のするべき行いではないと、杏子はなんとか落ちそうな目蓋を持ちあげようとした。

 眠気を紛らわそうと、膝の上の小箱に手を伸ばす。甘いものを取れば、少しは目が覚めるかもしれないと。


 ぷわりと柔らかいマシュマロを静かに摘み上げる。まずは黄色、それからピンク、黄緑、薄紫。

 夏墨の言った通り、マシュマロは色ごとに風味が異なり杏子の口を楽しませた。

 けれど五つ目のマシュマロを摘まむ前に、杏子の目蓋は落ちてしまう。


 程なくして、杏子はシートに身を預け目を閉じ眠った。

 それをミラー越しに確認した夏墨は静かに微笑み、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。



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