30 赤色
「杏子、どうかしたか?」
横を歩く春潮に顔を覗きこまれて、杏子は慌てて首を振った。
足もとのササタも心配そうに見上げてくる。なんでもないと、杏子はもう一度首を横に振る。
前日の桔梗との会話をつい何度も反芻しては考え込んでしまい、杏子の心は嫌な音を立てていた。
「そうか? あんまり顔色がよくない様に見えたからさ。疲れているのなら、無理をするなよ」
頷く杏子に、春潮は微笑んだ。
「今日の練習が終わったら、工房に来てくれないか? 杏子にいい物を作ったんだ」
「いいもの?」
「そ。楽しみにしててくれよ」
昼下がりの丘を上がり、いつもの練習場所には今日は春潮と夏墨が加わっていた。
細く息を吐き出し、杏子は杖を振る。
苦手だった風の魔法陣に小さな旋風が現れた。
いつもだったら手離しに喜ぶが、呼び寄せた風を見る杏子の瞳は暗い色をしていた。
隣に立つ、魔法陣の中を見つめる冬凪を盗み見ると、彼の紺紫の瞳に杏子の身の内をじわりと嫌な感触が広がる。
魔法陣の風が様相を変えたのは一瞬の事だった。
小さな旋風だったはずの風が、幾筋にも分かれて魔法陣の外へ飛び出した。
次の瞬間、あるはずのない色が杏子の視界に散る。
風が刃となって吹き抜け、その刃は杏子の前に立ちはだかった夏墨の左腕を切り裂き、赤色が散った。
「春潮!!」
冬凪の強張った声の方向に、上半身を赤く染めて倒れた春潮がいた。
杏子はその場にへたり込んだ。
すぐに夏墨が無傷の右手で杏子を支え起こす。
「杏子さん、怪我はしていませんね?」
返事を返すこともできずにいる杏子を、夏墨はそのまま抱きかかえて屋敷へと向かう。
杏子は、乾いた土に夏墨の腕から流れた血が滴るのを見た。
青褪め、目を閉じた春潮を運ぶ冬凪の後にも、赤い染みが続くのを見た。
全身が凍りついたように冷たくなり、耳の奥が強く痛む。
杏子はきつく目を閉じる。
これ以上、その色を見ていられなかった。
居間の長椅子に下ろされた杏子の視線は床に落とされていた。
映るのは、先刻の丘でみた風景。それが、繰り返し視界に赤色を散らし続けて杏子は震えた。
「わたしには、こんな力があるの? 人を傷つけてしまうような……」
呆然と呟く杏子の傍らに、夏墨は寄り添うように静かに座った。
「そうですね。時には何かを傷つける力にもなります」
「春潮は……」
「大丈夫です。冬凪が付いているので」
「春潮は、わたしのせいであんな……。夏墨にも……」
夏墨の傷を負った左腕を恐々と見て、杏子は目を伏せる。
杏子が身を震わせるのは、自分の力を恐ろしく感じているからだ。
「……いらない。こんな力欲しくない」
杏子の吐き出した言葉に、夏墨が悲しげに微笑んだ。
「僕の役割は、あなたを守ることだと言いましたよね」
夏墨の目配せを受けて、ルリテが翼を小さく羽ばたかせた。
黒い羽根が一枚、夏墨の手に落ちる。
それは姿を変え、柄も鞘も滑らかな黒色に包まれた刀が現れた。
刀身が引き抜かれ、白々と光る刃に杏子が映る。
「僕の役割は、主であるあなたを守ること。必要があればこれを使います。あなたに害をなすものは、躊躇わずに傷つけ排除します」
空色の瞳の温度が下がる。
「僕の役割は、そうやってなにかを傷つけて守ることでもあります。……嫌いになりましたか?」
冷えた瞳が悲しく揺れた。
刀を羽根に戻し消し、夏墨はルリテを撫でる。
杏子は無言で首を振った。
そんな事を言わせるつもりはなかった。そう夏墨に伝えたかったが、杏子は言葉を作れなかった。
沈黙に沈む居間に、冬凪が入ってきた。
険しい表情の冬凪は、夏墨の左腕を見ると更に眉を寄せる。
「夏墨、傷を洗って来い」
「ああ。そうですね」
夏墨は立ち上がると、洗面室へと向かう。
軽く拭っただけだった夏墨の傷からは、新しい血が滲み出していた。
「は、春潮は?」
杏子の声が上擦る。
見上げた冬凪の顔は、いつにも増して険しく見えた。
「大丈夫だ。そんなに深い傷ではない。お前は怪我をしなかったか?」
頷く杏子を冬凪の瞳が射竦める。
「魔法陣を敷いているときに何を考えた? あれは、お前の心が乱れた結果だ。お前の魔力は……」
きつい口調を遮って、杏子は声を震わせながら冬凪を見る。
「冬凪は……。桜子の……、ルールリアの術者でいたかった?」
明らかに冬凪の顔色が変わるのが杏子にもわかった。
それで充分だった。
杏子は立ち上がり、自室へ駆け込み扉を閉める。
そして見つけた。
夜に染まった黒い窓ガラスに歪んで映るもの。
黒く長い髪に赤い目の、悪い魔女がそこにいた。
それは杏子の姿。魔女として手に入れた形だった。
杏子は、途端に息が上手く吸えなくなる。
息苦しさが手足の先まで絡みつき、空洞の体の中で甲高い悲鳴が上がった。




