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3 金平糖


「杏子さん。お洋服は、どれをお持ちになりますか?」


 杏子の部屋には大きな旅行鞄が運び込まれていた。

 革作りの旅行鞄は膝を曲げれば杏子もすっぽりと飲みこめる程の大きさで、使いこまれた皮の色はあの封筒に似ている。


 桜子からの封筒を、杏子は一先ず机の引出しの中へ納めた。

 中身は気になったが、明日の出発の準備に部屋中を嬉々と動き回る小豆と、大きすぎる旅行鞄に差し迫る危機を感じて後回しにせざるを得なかった。

 薔子に聞けなかったことを一つでも教えてもらおうと、杏子は小豆の後ろに付いてまわる。


「ねえ、小豆さん。どうしてこんなに大きな鞄に荷作りするの? 明日出かけて、帰りはいつになるの?」


 ブラシ、手鏡、置時計、お気に入りの紅茶の缶。読みかけの小説、硝子の小瓶、インク壺にペンが次々と旅行鞄へ詰められていく。 

 杏子が手を出す隙は、まったく無いままに。


「帰りですか? お帰りの予定は、あたしは知らないんです。ああ、明日のお召し物は別にしておかないとですねぇ……。なにを着ていきましょうか? あら、杏子さんたら、落ち着いた色みのお洋服ばかりなんですね」


 衣装箪笥に取り掛かった小豆は、手際よく掛けられていた洋服を取出しては畳み、鞄へと収めていく。

 その衣装箪笥の中身は年頃の女学生にしては少なく、黒や紺、深緑に焦茶と、色味も限りなく地味なものばかりで、杏子の人見知りがちな気質を表しているようだった。

 忙しく手を動かしながらも、小豆の口調は緩やかで楽しげだ。

 その横を、杏子はそわそわと落ち着けづに歩きまわる。


「帰りの予定がないってこと?……それって、ここから引越すということなの? こんなに急に? ……学校は?」


 あと数日しないうちに学校は春休暇が始まる。そして、その休暇が終われば、杏子は高等学校の学年を一つ進めて十七歳を迎えるのだ。

 衣装箪笥の隅には、制服だけが残されていた。

 通学鞄も本棚の教科書も旅行鞄には入れられず、そのままなのが杏子を不安にさせる。


「お勉強でしたら、あちらでもできますよ。明日のお召し物、どちらにしましょうか」


 小豆は右手に深緑、左手に黒のワンピースをそれぞれ持ち、見比べている。


「……緑の方にする。あちらって、小豆さんは行き先のこと知っているの?」

「知ってますよ。でも、お話はできません。薔子さまに叱られますからね。お帽子はどちらにします?」


 差し出された帽子はどちらも釣鐘型のクロッシェ帽で、右が黒、左が茶色だった。


「……黒。小豆さんも、なにも話してくれないってこと?」

「お帽子が黒なら、靴と鞄はこちらがいいですね。さあ、これで支度は整いました」


 カチャリ。と音を立てて旅行鞄の留め具が閉められる。


「鞄は玄関ホールに置いておきます。今夜は、早めにお休みになってくださいね。あと、これは旅路のお供にしてくださいまし」


 小豆はにこりと笑い、メイド服のエプロンから小瓶を取り出す。

 透明なガラスの小瓶の中には、水色の星粒が詰められていた。


「ソーダ星の金平糖です。さっぱりした甘味ですから、召し上がれば気分が晴れますわ」


 金平糖のガラス瓶を杏子に渡すと、小豆は旅行鞄を手にあっさりと部屋を出て行った。

 いつでも親切にしてくれる小豆だが、杏子がこれ以上いくら質問を重ねても答えてくれない事は知っている。彼女は杏子ではなく、薔子の忠実な従者なのだ。

 

 小豆の後を無駄に追うのを諦め、杏子は一人取り残された自分の部屋を見回す。

 鞄に詰められたのは部屋のほんの一部に過ぎないのに、部屋は妙にすかりと余所余所しくなっていた。

 引出しから封筒を取り出してみると、それはなぜか不思議と親しげに目に映る。


 飴色の封筒は秘かな重みを包んでいた。

 紫色の封蝋には、五つ花片の花の印璽が押されている。

 見覚えのない花の印璽。それは、桜ではなかった。



 春。帝国のそこかしこで桜の花が咲く。

 街中に咲いた桜を目にする度に、杏子はその花の名を持っていた母、桜子のことを思い出すことにしていた。

 正確に表現するのであれば、杏子は桜子を思い浮べる作業を行っていたのだ。


 杏子は、桜子について思い出すべきことを一つも持たない。


 杏子の持っている一番古い記憶は、この家に連れてこられた日から始まる。

 手をひかれて入った玄関ホールには悲しげな微笑みの薔子がいた。そこから、杏子は始まっている。

 それより前の記憶を、杏子は一片も所持しないままでいた。


 残されたアルバムを捲り、多くはない写真をたどってみても、桜子と自分にまつわる思い出を呼び起こすことは出来ない。

 母と娘として自分と桜子が並ぶ写真を見るたびに、杏子はコラージュを眺めているような感覚になった。


 辿るべき思い出が見当たらない。故に杏子は、桜子の事を想わずに日々を過ごす。

 薔子も、杏子の前で桜子の話をすることはなかった。

 そのかわり桜の花を見た時には、母のことを想うようにしてきた。

 それが、杏子なりの母への弔いめいた習慣だった。


 帝都で桜が咲き始めるのはもう少し先で、杏子は桜子の存在が不意に来訪したことに戸惑っていた。

 手の中の封筒に母親の感触を見つけられないまま、杏子はそっとその封を開く。


 中には封筒と同じ飴色の紙が四つ折りに入っていた。

 ゆっくりとその紙を開くと、黄金色の塊が手の中に滑り落ちてくる。


「鍵?」


 簡素な鍵が一つ、杏子の手の上で鈍く光る。

 その鍵を包んでいた紙にはなんの文字もなく、封筒にはもう何も入っていなかった。


「手紙じゃなかったんだ……」


 小さく呟いた杏子の声に、落胆の感情が薄っすらとこもる。

 貰ったばかりの金平糖の小瓶を開けて、杏子は小さな星粒を噛み砕いた。

 すっとした甘みと、ソーダの香りが瞬く間に広がり消えていく。


 母親からの、何らかのメッセージを期待して開いた紙は白紙だった。



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