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29 桔梗


 杏子が濡れた髪から滴を落としながら螺旋階段を降りているのは、砂浜での成功に気を良くしたまま敷いた魔法陣を盛大なスコールにしてしまい、ずぶ濡れの冬凪から散々な叱責を受けたからだった。

 もう一度基本の魔法陣を叩き込み直せと、地下の書庫へと追いやられる羽目になったのだ。

 二番目のフロアに入り、書物を広げながら杏子はため息を落とす。

 昨日の成功が、今日の失敗により泡のように弾けてしまった気分だった。


 数冊目の書物を書棚へ戻した時、地下へと続く螺旋階段が杏子の目に留まった。

 ふと、その下へと降りてみたくなった。

 特に下のフロアへの立ち入りを禁じられているわけではなかったので、書物をめくるのに飽きた杏子は洋灯を持つと階段を下りはじめる。

 三番目のフロアに並ぶものを興味深げに観察して回ると、杏子はさらに下の最後のフロアへと下りた。

 あの日、桔梗の館との契約が済むとすぐに上へ戻ってしまったので、あの不思議な空間をもう一度見ておきたかった。


 壁の四隅のランプが弱く照らす石畳には浮かび上がった魔法陣の痕跡はない。

 杏子は持っていたランプを足元に置き、そろりと中心へ向かい踏み出してみたが変化は起こらなった。

 少し気抜けして、杏子はそのまま部屋の中心へと進む。

 その足が部屋の中心に踏み込むと、視界が光に占拠されて目を閉じさせられる。

 再び目を開くと、契約の時のあの仄暗い空間に杏子は立っていた。


「アンズ」


 声が響く。

 声の主は姿を現さなかったが、響く声に畏怖や恐怖を杏子は不思議と感じなかった。


「……ごめんなさい。ここへ入ってはいけなかった?」

「我の声を聞くのは主のみ。我の主はアンズ。この館に主の立ち入ってならぬところなどない」


 響く言葉に杏子は、ほっと身体の力を抜く。


「ここへ主が降りてくるのは久しいな」


 その口調に感情は読み取れなかったが、杏子はすぐに反応した。


「お母さん……。桜子もここで、あなたと話しをしていたの?」

「もちろん。ルールリアはここへよく下りたものだ。もう随分と前のことだが」


 杏子は自らの足もとを見下ろした。

 石畳の消えた仄暗いこの空間に、かつて立った桜子を想像してみる。


「どうした?」


 押し黙った杏子に、声が問いかける。


「桔梗。わたしは、あなたに聞きたいことがある。桜子……ルールリアのことを教えてほしいの」


 それを彼らに尋ねることが、杏子はずっと出来ずにいる。

 彼らの口から、その名前を聞きたくなかった。


「……我が知るのは、この館で起きたことだけ」


 それでもいい。そう呟いて、どこともなく響く声を見る様に杏子は空を見つめる。

 束の間の沈黙の後、桔梗の声が深々と杏子に落ちてきた。


「先々代の魔女が後継者を探し求めたころ、ルールリアがこの館に来た。まだ若い魔女だったが、力のある魔女だった。我の主となり、四人の術者とここで暮らした。ある日ルールリアはヒトに出会った。術者たちは随分と反対しておったな。魔女とヒトでは違い過ぎると、だいぶ揉めていたがルールリアは諦めず、ヒトは彼女を受け入れ共に街で暮らすようになった」

「桜子はここの主だったのに? 街で暮らすことなんてできたの?」

「そうその名も。あのヒトに会ってから桜子と名乗っておったな。街とこの館をルールリア忙しく行き来しておったが、己の役割は果たしておった故、我も異存はなかった。時折ここへ下りて、街での暮らしぶりを嬉しげに語っていたものだ。だが、一時しないうちにルールリアはこの館に戻って来た。……ヒトを連れてな」


 黙り込んだ杏子の様子を窺う様に、桔梗は沈黙した。


「その人がわたしの父親?」


 空気が頷く様に動き、杏子の髪を揺らした。


「この館に来た時、既にヒトは病に臥していた。ルールリアの手には負えずに、ここへ連れて戻ったのだろう。だが、ヒトはほどなくして死んだ。シアが随分と手を尽くしておったがのう」

「……シア?」

「今は違ったか? ……ああ、フユナギという名になったのだったな」


 告げられた名に、杏子は小さく息を呑む。そして出した声は、震えていた。


「……冬凪は、ルールリアの術者だったの?」

「然様。ルールリアが己との契約を切り、そなたの術者として契約を結ばせた。その時に名も変えておったな」


 杏子は身体から力が抜けていくような気がした。

 情けなく弱々しい声で、何処からか自分を見る桔梗に尋ねる。


「……冬凪は、わたしの術者になんか、なりたくなかったんじゃないかな?」

「心の内までは我にはわからぬ」


 そう。その通りだ。自分は桔梗に何を言わせたかったのだろう。

 わたしの半身を流れる魔女の血が、ルールリアの血が彼らにとって重要だったのだろうか。

 もしもわたしが、彼女の娘でなければ。

 わたしは彼らにとっては、何の価値もないのだ。


 そんなふうに卑屈に考えてしまう自分を必死で押しとどめ、杏子はひとり唇を噛む。

 言葉は発せずとも、そんな杏子を桔梗は静かに見つめていた。



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