25 魔法陣
出来上がった杖をその手に握り、杏子は感嘆のため息をこぼした。
これが自分のために作られた、唯一無二の存在だと教えられなくともわかる。
杏子の背丈よりも長い白木は淡桃色に磨かれ、ごく緩やかな直線の杖はしっくりと杏子に収まる。
全体に繊細な装飾が彫り込まれ、上部には星屑を散らしたように小粒の石が幾種類もはめ込まれて杖を飾った。
杖を手に目を閉じれば、その中に集めた素を感じることも出来る。
柔らかな陽光と緑の薬草。
凛とした白の眩さ。
静謐な月の水の深い藍。
杏子を主とした、彼らの気配が杖の中で静かに息づいている。
その杖を持ち、杏子は工房から離れた裏庭の端に冬凪と立っていた。
昼下がりの陽の下で、杏子の頬は緊張を滲ませている。
不釣り合いな陽射しの下にいる冬凪が静かな声で告げた。
「初級程度から始める。――水を呼ぶ陣を」」
杏子は真剣な表情で頷き、出来上がったばかりの杖を握る両手に力が入る。
しっかりと杖を握り直して、杏子は円形の図形を敷きはじめた。
流線を交わらせ、杖を動かす。杖の軌跡は消えずに、地上数センチのところで薄く発光している。
一度読んだ魔法陣は杏子の内に刻み込まれているようで、呼び出すモノの像を浮かべれば杖は自然と動き魔法陣を敷くことができた。
直線と曲線が何度も交わり、最後の記号を入れると杖の軌跡は一段強く発光し、完成した魔法陣の中心から水球が現れた。
拳ほどの水の塊は球形を作るように静かに流れている。
「……できた!」
思わずそう呟くと、すぐに冷ややかな指摘を挟まれる。
「これは初級なのだから出来て当たり前だ。それになんだ、あの大きさは? 小さすぎる」
冬凪が指差すのは大きく敷かれた魔法陣に対して、だいぶ小さな水球。
それでも、陽を反射させて光る水球を見て、杏子は鼓動が高鳴るのを感じた。
嬉しいことは続いた。
裏庭から部屋に戻った杏子は、机の上に飾ったままの硝子の小鳥を見つめる。
二番目のフロアに入ってからは、すっかり息を吹きかけるのを辞めてしまっていたそれ。
もしかしたら……。
硝子の小鳥を手に取り、杏子はそっと息を吹きかける。
狭い部屋の中を小鳥が飛んだ。
手を差し伸べれば、舞い下りた小鳥は杏子の手の上で可愛らしい仕草を繰り返す。
杏子は飽きることなく小鳥を飛ばした。
「すごいな! 一回で成功するなんて!」
「さすが、杏子さんですね」
魔法陣の練習報告に春潮と夏墨は杏子に惜しみない賛辞を送り、杏子は頬を染めた。
すぐにそれを窘めるように、珍しく夕食の席に着いていた冬凪が口を挟む。
「あの程度で成功だなどと言っていては先が思いやられる。豆粒くらいの大きさでしか呼び寄せてないのだからな」
豆粒は言い過ぎだ。と杏子は反論しようと口を開きかけたが、あの後に敷いた魔法陣の結果を思い出して、大人しく口を閉じることにした。
手のひら大の水を呼び出した後、杏子は火と風の魔法陣を敷いた。
結果、呼び出せることが出来たのはどれも本当に少しの素で、火はマッチを擦った炎よりも小さく、風に関しては呼び出せているのかさえ定かではない微風だった。
「俺も見たかったなぁ、杏子が魔法陣を敷くところ……。明日もするんだろ? 俺も見ていていいかな?」
「わたしは構いませんが……」
杏子は冬凪を伺う。
「勝手にしろ」
「じゃあ、僕も見学させてもらいますね」
にっこりと笑った夏墨に、冬凪は息を吐いた。
魔法を使えたことは、その出来はともかく杏子を安堵させた。
気懸りだった橙色の瞳も、魔法が使える様になると気にならなくなっていく。
自分の魔力が目覚めて、形をなしたことが杏子に大きな安心感を与えた。
これで役割を果たせるようになる。彼らの期待を裏切らずに済むと、杏子は強く思った。
「では、始めますね」
そう言って杖を構え、杏子は火の魔法陣を敷いた。
裏庭の端には緊張した面持ちの杏子に、彼女を見守る三人の術者とその使い魔たちが揃っている。
意気込む気持ちとは裏腹に、杏子の敷いた魔法陣の中心に現れたのは冬凪いわく豆粒大の炎。昨日より小さくなってしまっていた。
ため息とともに、肩を落とす杏子の背中に春潮と夏墨の褒め言葉が寄せられる。
「うん。やっぱりすごい」
「ええ。初めてなのにちゃんと呼び出せていますからね」
手放しに褒める二人が、杏子を甘やかしているのは分かっていた。
だからこそ、きちんとしたものを見せたいと思っていた。
「おい。この程度で褒める必要はない。こんな線香程度の炎では、使えないだろうが」
線香程度の炎は、冬凪によって呆気なく消されてしまう。
杏子は気を取り直して、次の魔法陣を披露することにした。
「じゃあ、次は水を……」
期待に輝く二人の瞳を見て、杏子は大きく息を吸い込む。
水。水。水……。呟きながら、像を思い描く。
昨日、一番大きく出せたのは水だったから、今日はせめてそれより大きく出して二人の期待に応えたい。
杖を握る手に力を込めて、杏子は魔法陣を敷く。
そして完成した魔法陣の中央には、巨大な水柱が現れた。
「こ、これは、本当にすごいよな」
「さすが杏子さんですね」
「おい! 呼びすぎだ!」
冬凪の怒声に慌てた杏子は、とっさに魔法陣を解いてしまう。
魔法陣から解放された水柱はそのまま空をめがけて上昇し、次の瞬間には全員に降り注ぐ。
瞬間豪雨を受けて、その場の全員が頭からつま先まで文字通りずぶ濡れになった。
ササタのブルブルと身を振る音が、杏子を我に返らせた。
裏庭は浸水し、大粒の滴を落とす三人が立っている。
「ご、ごめんなさい!!」
「大丈夫ですよ。ねえ、冬凪?」
夏墨も春潮もすぐに笑顔になったが、杏子は無言の冬凪に恐れをなした。
濡れた前髪が顔に貼りつき、彼の表情は窺えない。
「タ、タオルを、取りに行ってきます!!」
「杏子。俺も行くよ」
杏子は大量の滴を落としながらタオルを取りに屋敷へ走った。それを追って、春潮とササタも走り出す。
その姿が見えなくなるのを確認してから夏墨は囁いた。
「……予想は、していたでしょう」
「……だが、これほどまでとはな」
「確かに……。目の当たりにして、僕も動揺しました。こんな初級の魔法陣であれだけ呼ぶことができるなんて……」
すっかり浸水した裏庭を夏墨は見回す。
冬凪は長い前髪を伝う滴を拭いもせず、苦々しげに眉を寄せる。
「さっきの火を見ただろう? 力の制御が出来ていない。本人も、分かっていないだろうが……」
「水で良かった、と言うべきですかね。火でこれだったら大惨事ですよ」
「そうだな……」
タオルを抱えた杏子たちが戻ってくるのを見て、二人は口を閉じた。
その日の午後、杏子は休息を余儀なくされる。
無計画に呼び寄せた大量の水は、力を目覚めさせたばかりの杏子の魔力を大量に消費させた。
その反動と言わんばかりに、強い眠気に襲われる。
午後のお茶を飲みながら座っていた長椅子に身を預けると杏子の目蓋は重くなり、食堂にいる三人の声と気配が意識から程良く遠ざかった。
茶器の立てる密かな音に混じり、オーブンで焼かれるマフィンの匂い。本をめくる音、ルリテの羽音、交わされる何気ない会話。
部屋中を満たす彼らの雰囲気のなにもかもが杏子には心地好く感じて、まどろみに身をゆだねる。
もしも……。もしもと考える。
桜子が生きていたら、この音を聞かずに過ごしたのだろうか?
違う音に違う場所が、用意されていたのかもしれない。
誰かのことを考えて過ごすこと。目覚めた時に一人でないこと。
そういうことを知らずに過ごしてきた。
これが母、桜子と引き換えに手に入れたものだとしたら、彼らは何かを手放してしまったのだろうか。
冷えていく紅茶を薄目に見ながら、杏子は眠りに落ちていった。




