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2 ミルク珈琲

 

 四方を海に囲まれた帝国の、やや東寄りに位置する都。――帝都。

 帝国の伝統と文化を重んじながらも新進の文明を享受し、まばゆい発展をとげる都は、帝都の呼び名に相応しく綺羅の時代を織りなしていた。

 

 街は路面電車とオイル式自動車が賑やかに行き交い、道行く人々の装いはしっとりとした和装と軽やかな洋装が入り乱れる。

 夜にはガス灯が明るく燈り、色とりどりのネオンに飾り立てられ、帝都は赤々と華やいだ。

 



 その帝都の北地区。


 帝都の中では比較的落ち着いた雰囲気の地区に、装飾された鉄柵と煉瓦塀にぐるりと囲まれた大きな建物がある。

 初等科から高等科の良家の女子たちが集い学ぶ女学校だ。


 静まりかえっていた校舎が、終業の鐘が鳴ると途端に騒がしくなる。

 揃いの制服を着た無数の少女たちの囀りが、一日の中でもひときわ喧しく校舎をゆらす放課後。特に今日は週末で、その賑わいは一段と大きい。


 高等科の教室の隅、放課後の喧騒の外に一人その少女はいた。

 黒い学生鞄へ帰り支度を手早く済ませると、誰とも言葉を交わすことなく教室を、校舎を、するりと流れるように通り抜けていく。

 まだ冷たい三月の風が制服を揺らした。

 紺色のセーラー襟のワンピースには、ウエストに細い共布のベルト。網上げの黒革ブーツに黒い学生鞄。

 同じ装いの制服の女子の輪を、心もち足早な少女は静かに通り過ぎる。

 輪になる少女たちは皆、ゆるく編んだおさげ髪をしていた。長い髪を二つおさげにゆるく編む髪形は、帝都の女学生たちのいま一番の流行りの髪形だった。

 まるで校紀に則るかのごとく右も左も揺れるおさげ髪の中、一人歩く少女の髪だけが、ぱきりと肩上で切り揃えられていた。

 

 少女は一人、足早に通りに出た。

 

 表通りには別の制服姿の女学生や学帽姿の学生たちと、多くの若者が往来している。

 学府の集まる地区でもある北地区には、朝と夕には多くの学生たちが通りを往来した。

 少女はさらに足を速めて、学生たちの間をすり抜けていく。

 その背中に、そしてすれ違いざまに、行交う人が自分へちらりと視線を投げるのが少女は嫌で微かに眉を寄せる。


 人出の多いこの時間に表道りを通るのは久しぶりで、いつもなら朝は早めに夕時には少し遅めになるように人の少ない時間を選んでいた。

 しかし今日は、そうすることのできない事情があった。それゆえに、少女は口を一直線に結び、努めて足元に視線を落として帰路を急いだ。


 少女の着る制服は、帝都でも指折りの女学校のそれだった。

 その女学校の制服は、学生街であっても多少の人目は引き付けるのが常。

 だがそれ以上に、すれ違う人の視線にひっかかるのは少女の容姿だった。

 華奢といえば聞こえが良いが、少し痩せ気味の薄い体つきに繊細そうな目鼻立ちは取り立てて珍しくもない。

 少女が不本意ながらその身に視線を集めてしまうのは、その髪と瞳の所為だった。


 およそ黒とは言い難い、くすんだ暗褐色。


 それが、少女の髪と瞳の色。

 暗褐色の髪と瞳は、物心付いた時から少女の煩いの種だった。

 時折、港街で見かける異国人のように金や栗色の明るい髪色に青や緑の瞳ではないにしても、黒髪黒目の帝国の人々の中では明らかに違和感のある容姿。

 子供の頃には、ひどくからかわれた事もあった。

 成長し、あからさまに囃したてられることはなくなったが、好奇の視線が投げつけられることは変わらない。

 瞳の色は俯きがちに歩けば人目を引くことはないのだろうが、髪はそうもいかない。

 髪が長くなればなるほど、その色が悪目立ちするように感じられた。

 女子の髪は黒く長くが当然好ましいとされる中で、少女はその髪を常に肩上に切り揃え続ける。

 煩わしい髪の色が目立たぬようにするには、それが最良の手段だと少女は判断していたのだ。


 表通りから数本脇道へと入り、周囲の人けが無くなりようやく歩調を緩めると、少女は詰めていた息を小さく吐き出した。


 少女の住まいは、通う女学校からほどなく離れた北地区郊外の住宅街にある。この辺りは比較的大きな屋敷が多く、一軒の有する敷地も広く、通りはいつも閑静だった。

 その住宅街の中程にある、塔屋のついた三階建ての小振りな屋敷が少女の十年来の住まいだ。


 通用門を開けると、玄関前に磨き上げられた黒い自動車が停まっている。

 それを見た少女は慌てて屋敷へと駆け込んだ。


 客間の長椅子にゆったりと腰かけていた女が、部屋に入って来た少女を見て微笑んだ。

 艶やかな長い黒髪は優雅な夜会結び。はっきりした紅で彩られた口元。華やかな目元で、黒い瞳の色が濃く印象的に光る。

 完璧とも言える美貌の女の前に、少女は走り寄った。今日、こんなふうに少女が急いで帰宅したのは、彼女に会うためだったのだ。


薔子(しょうこ)さん、ごめんなさい。待たせてしまった?」

「いいえ、さっき着いたところよ」


 薔子は胸元を鋭角的に広く開けたシャンパンゴールドの夜会服を着ている。

 胸元には、ドレスに合わせた琥珀の首飾が煌めく。耳元でも同じ石が揺れていた。


杏子(あんず)。先に着替えていらっしゃい。お茶にしましょう」


 薔子にそう言われ、杏子は頷いた。

 するとそこへ、ティーワゴンを押した黒い燕尾服姿の男とメイド姿の女が客間に入って来る。

 二人は薔子の従者たちだ。

 男の方の名は黒蜜(くろみつ)。彼は、杏子に軽く目礼をするとお茶の準備を始める。


「杏子さん、お久しぶりです」


 親しげに杏子に声を掛けてきたメイド姿の者は小豆(あずき)という。

 ぱちりと大きな瞳に、耳の横で短く切りそろえた髪。レース編みのヘッドドレスに少々レース過多なメイド服を着ている。

 小豆の挨拶に小さく答えてから、杏子は二階に与えられた自室に向かった。


「すぐに着替えてくるから……」


 自室に入り制服から着替えて、鏡台を覗きこむと杏子の口からため息がこぼれた。

 鏡に映る、暗褐色の自分をしばし見つめる。


 ……髪や瞳が黒ければ。

 幾度、そう願ったことだろう。


 特に、薔子と会う度に強く願った。

 薔子も、従者の黒蜜も小豆もあたりまえのように、黒髪に黒眼なのだ。

 薔子は杏子の叔母であり、現在唯一の肉親だった。

 杏子が幼いころから完璧な美女だった薔子。その姉である自分の母も、雰囲気こそ違うが美しい人だったと知っている。

 流れる漆黒の髪と澄んだ黒い瞳を持つ母と叔母。

 二人は顔つきこそ違うものの、その見事な髪と瞳が姉妹の証の様に杏子には思えていた。

 そしてそう思う度に、自分のくすんだ髪と瞳の色に小さく絶望する。その繰り返しだ。


 鏡の中に見切りをつけて、杏子は部屋を出る。

 戻った客間には、薔子が好む濃い珈琲の香りが漂う。

 杏子の前にはミルク珈琲が、黒蜜の手によって置かれた。


「すごく久しぶり。薔子さんが戻ってくるの」


 ぬるめのミルクと二匙の砂糖で作られたミルク珈琲。

 適温で提供されたそれを一口飲むと、杏子の外気で冷えた体がゆるりと温まる。


「ここのところ、特に忙しくてね。今日も、あまり時間が取れないのだけど……」


 薔子がそう言うと、その後ろに控えていた小豆が不満げに口を挟んだ。


「前にこちらにお戻りなったのは、もう四か月も前ですよ。杏子さんがお一人で寂しがると、あたしは何度も言いましたのに。薔子様ったらお忙しすぎて――」

「小豆」


 黒蜜に窘めるように呼ばれ、小豆は頬を膨らませる。


「でも…」

「小豆さん、わたしは大丈夫。薔子さんが忙しいのは昔からだから……。それに学校もあるし。ここには毎日、女中さんも来てくれているから――」


 寂しくないと言いきる杏子に、小豆は小さくため息をついて黙り、薔子は微笑む。



 薔子は十年前から杏子の保護者で唯一の血縁者だ。

 杏子の母、桜子(さくらこ)が死んだのが十年前。杏子が六歳の時だった。

 船旅の途中で事故に遭い、そのまま帰らぬ人となった。その時すでに杏子には父もなく、親類縁者は桜子の妹の薔子ただ一人だった。

 それ以後、杏子は薔子の屋敷へ引き取られ、部屋を与えられ、そこで育てられる。

 当時から多忙だった薔子は、杏子のいる屋敷に戻るのは数か月に一度。長い時には、半年戻らないこともあった。

 杏子の身の回りを世話したのは通いの女中たちで、現在も初老の女中が一人通っている。

 朝に屋敷に入り夕暮れには屋敷から帰っていく女中たちと、年に数回だけ戻ってくる叔母。屋敷で一人過ごす夜の闇に脅えることもなく、杏子は自然と一人でいることに慣れて育った。



「今日戻ったのは、杏子に渡すものがあるの」


 唐突に薔子が切りだして、杏子は持っていたカップを置いた。

 ふいに客間の空気が緊張し、薔子の後ろに控えた黒蜜と小豆は一歩後へ下がる。


「渡すものって、なに?」


 杏子の問いに、薔子が取り出したのは飴色の封筒だった。

 差し出された封筒に宛名はなく、裏返すと紫色の蝋で封がされている。


「桜子から預かっていたものよ」

「お母さんから?」


 封筒を持つ杏子の手が、薔子の言葉に緊張する。

 薔子の口から桜子の名が出ることは滅多になく、杏子は久しぶりに聞く母の名に少しづつ鼓動が早まってくるのを感じた。


「明日、それを持ってここを発ちなさい。迎えは六時に来るわ」

 

 薔子の口調も表情も、杏子にはあまり見せたことのない強張ったものだった。

 杏子の前での薔子はいつも悠然としている。

 けれど今、微笑みの消えた美しい顔は、どこか苛立っているようにも見えた。


「え……。どういう、こと?」


 戸惑う杏子を置き去りにするように、薔子の声が静かに、そして一方的に客間に響いた。


「桜子はもし自分が杏子の傍にいられないような事になってしまったら、それを杏子へ渡すようにと私に残したの」

「そうなの? ……でも、どうして今になって?」


 桜子が死んで十年が経つ。

 なぜ今までこれを渡されなかったのかと、杏子は訝しげに手の中の封筒を見る。


「桜子が残した屋敷があるわ。杏子には、そこへ行ってもらいたいの」

「お母さんの屋敷?」

「そう。……昔、桜子が住んでいた屋敷よ」

「そんな話し、初めて聞く。突然どうして?」


 困惑する杏子に薔子は答えを返さなかった。代わりに、抑揚のない声が挟まれた。


「薔子様、お時間です」


 背後に控えていた黒蜜が、懐中時計を取り出していた。

 薔子は長椅子から立ち上がると、黒蜜を従えて客間を出ていく。


「出発は明日の朝よ。小豆を残していくから、荷作りをしてもらいなさい」

「ま、待って!」 


 客間に取り残された杏子は、慌てて二人の後を追いかけた。

 玄関ホールで薔子が振り返る。

 いつもの微笑みを浮かべて、薔子は杏子を優しげに見た。まるでさっきまでの一方的な会話などなかったかの様に。


「また切ったのね。少し、伸ばしてみてもいいんじゃないの?」


 薔子は、肩の上で切り揃えられた杏子の髪を見ていた。

 見当違いの話題が出たことに驚きながら、反射的に杏子は頭を振る。

 一昨日に切ったばかりの毛先は整然と揃い、肩に着くことを頑なに拒むかの様に揺れた。


「これでいいの。わたしには、長いのは似合わないから。そんなことより……。明日、出発って決まりなの? 薔子さんも一緒に行くの?」

「似合わないって、伸ばしたこと無いじゃないの」


 呆れたように言う薔子の傍らで、黒蜜が音もなく彼女の白い腕に長手袋を着ける。薔子の両腕を絹の手袋で包み終わると、黒蜜は玄関扉を開けた。


「……私は、行かないわ。ちゃんと迎えが来るから、心配はいらないわよ」

「迎えって誰? わたしの知らない人?」

「まあ、そうね。知らない人ね……」


 どこか濁したようにそう言うと、薔子は黒蜜と玄関を出た。

 追いかけようとした杏子の鼻先で、静かに扉が閉ざされる。

 すぐに、遠ざかる車の音が聞こえた。


「わたしはまだ、行くって言っていないのに……」


 杏子がぽつんと漏らした声は、玄関ホールにむなしく響いた。



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