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17 鍵魔女


「杏子さん?」


 洗面室の扉を優しく叩く音と、気遣わしげな夏墨の呼び声に杏子ははっとする。

 ずいぶん長い間、閉じこもっていたようだ。


「もう、大丈夫です。すぐに戻りますから……」

「……わかりました」


 慌ててした返事に、夏墨は何か言いたげな声で応じてからその場を離れていく。

 いつまでも、ここに籠っている訳にはいかない。

 大きく息を吐き鏡を覗きこみ、涙が止まっていることを確認すると、杏子はもう一度顔を流してから食堂へと戻った。




 杏子が食堂に戻ると、食卓はすでに片付けられ、続き間の居間のテーブルに食後茶の席が設けられていた。


「杏子、ここへ」


 一人掛けに座る薔子が自分の正面の長椅子へ杏子を促す。すでに皆、席に着いていた。

 ぽっかりと開けられた長椅子へ、杏子は黙って座る。

 テーブルに用意された茶器で、冬凪が茶を淹れる手元を意識して見つめた。

 小振りな茶器と湯気の合間を滑らかに動く冬凪の長い指は、杏子に見せる気難しい態度の彼とは別人のもののように見える。

 程なく、全員の前に小さな茶碗が置かれた。

 茶碗から、花の形の白い湯気がゆっくりと上がる。


 沈黙を破り、薔子が口を開いた。


「順調に進んでいるようね。皆とも仲良くやっているようだし、安心したわ」


 唐突なその言葉に、杏子は顔を上げる。

 先程の件を詮索されずに済むことに、幾分ほっとした。自分でも分からないことを、どう説明できるのか分からなかった。

 正面に座る薔子は、優しい笑みを湛えている。


「杏子に何も話さなかったのはね、桜子とそう約束していたからなの。杏子はね、ヒトとして育てると桜子が決めていたから……」

「ヒトとして?」


 小さくその言葉を呟き返す。

 つまり自分は、人ではないものとして生まれたのだ。


「薔子さんは……、魔女、なの?」


 杏子のか細い問いに、薔子は紅い口の端を上げる。


「そうよ」

「ずっと?」

「魔女は生まれた時から魔女よ」


 そう答えた薔子の黒い瞳と長い黒髪が、艶やかに光る気がして杏子は息を呑んだ。

 薔子の傍らに控える黒蜜を見て、杏子は教えられなくとも彼が薔子の術者なのだと理解する。

 ここにはいないが、小豆もそうなのだろう。

 術者たちは皆、黙ってそこにいた。彼女たちの会話を見守る様に。


 あの賑やかだった食卓の時間が、ずいぶん昔のことのように部屋は静かだった。

 テーブルに並んだ小さな茶碗から、花の香りが漂う。

 眉間に僅かな皺を寄せ、薔子は語り始める。


「こちらに住む魔女は役割を持っているわ。……鍵魔女キーウィッチ。それが、私たちがここで担う役割」


 鍵魔女キーウィッチ

 魔女、主、術者。

 ここへ来てから初めて聞く言葉や知ることばかりだったが、薔子の口にしたそれは、またしても杏子が初めて耳にする言葉だった。


「私たちの世界と、ヒトの世界は隣り合う世界。これは知っているわね?」


 戸惑いながらも頷く杏子に薔子は続ける。


「隣り合う世界はその近さ故に時折、隙間が生じてしまうわ。隙間はやがて、二つの世界を意図せず繋いでしまう……」

「繋ぐ? その隙間を通れば、あちらとこちらは行き来することができるの?」


 首を傾げる杏子に、薔子はゆるりと首を横に振った。


「隙間はとても不安定な繋がりなの。そこを通るのは、とても危険なことよ。魔女は隙間を使わずとも、あちらとこちらを行き来する術を持っているわ。隙間を使い、こちらにやって来るのは……わざわい。だから、隙間は塞がなくてはならない。それがこちらに居る魔女たちの役割。役割を果たす者だけが、こちらに居ることを許されているわ」


 役割。そう、薔子も言う。

 この屋敷で杏子を囲む彼らも、幾度となくその言葉を繰り返す。

 杏子の知らないところで与えられた役割。

 それを杏子は、理解できていない。


「薔子さんも、鍵魔女なの?」

「こちらに居る魔女は皆、鍵魔女なのよ。もちろん私も。私は帝都の、伽羅の館の主でもあるわ」

「伽羅の館?」

「ええ、通称は南の館。杏子も知っているでしょう?」

「え? 南のって……」


 杏子が思い浮かべたのは、帝都の南地区にある魔女の屋敷だった。そこを知らぬ者など、帝都には居ないだろう。

 華やかな街の一角に突如として現れる深い緑の森。その奥に、魔女が住まう屋敷があるのことを誰もが知っていた。

 微笑むことで肯定の意を伝える薔子に、杏子はため息を返すことしか出来なかった。

 そして、ふとした疑問がよぎる。

 魔女といえば、どの方も杏子の生まれる前から帝都に帝国に、そして世界に変わらず存在し続けている。

 それは彼女たちがヒトとは違う理で存在しているからだ。それならば、今、杏子の目の前で微笑む薔子も。


「……薔子さんて、その、いま幾つなの?」

 

 改まって歳を尋ねたことなどなかった。

 尋ねながら、杏子は思い出せる一番古い記憶の中の薔子を思い浮かべる。

 彼女は杏子の記憶の中で少しも変わることなく今に至り、変わらぬ美しい姿のままだった。


「幾つって……幾つだったかしら?」


 薔子は少し考え込んでから、傍らの黒蜜に尋ねた。

 杏子は黒蜜を見て、彼もまた変わらぬ姿で存在し続けていたことを今更に理解した。

 その黒蜜の答えを待たずに、薔子はあっさりと言い放つ。


「あちらには年齢なんて概念、無いに等しいのよ。歳なんていつの間にか数えるのを止めてしまったわ」

「……薔子さんは、私が思っているよりも、すごく、すごく、……年上なの?」

「そうよ」


 悠然と微笑む薔子を見て、杏子は周りの術者たちを見回す。

 どう見ても青年と言った風の春潮や夏墨はまだ二十代半ば、その彼らよりやや年嵩であろう冬凪も三十代前半くらいではと杏子は思っていた。

 しかし、どうやらそれは違ったようだ。


「みなさんも……?」


 異を唱える者はなく、杏子は自分が幼子のようになってしまった気分になった。

 実際、杏子を取り巻く彼らは杏子より遥かに長く生きている。


「主の役割。魔女の役割。鍵魔女の役割。……わたしは知らないことばかりだし、まだなにも出来ないまま」


 杏子は疲れたように言って、長椅子の背に少しだけ身を預けた。

 薔子はそんな杏子をとりなすように、微笑みを深める。


「魔力が目覚めれば、やるべきことは自ずと解るわ。杏子は紛う片なき魔女なのよ。桜子の娘なのよ。役割を果たすだけの力は、間違いなく持っているわ」


 優しく宥める様に薔子が言い、杏子は視線を落としたままその声を聞く。


 桜子の娘。

 夏墨に春潮に、冬凪にも。桜子の娘と言うだけで、杏子は今ここで自分を取り巻く者たちから期待され認められている。

 実際には何の力も示せない杏子は、これを居心地悪く感じずにはいられない。

 母、桜子がどんな人だったのか、そもそもどんな魔女だったのか、杏子には思い出せないのに。


「簡単なことではない」


 不意に冬凪の声が部屋に強く響いた。その声は苛立ち、夏墨の制止を無視して続いた。


「桜子や薔子が鍵魔女になった頃と今では事情が違う。覚悟がなければ務まらぬ役割になったのを忘れたか」

「覚悟? 杏子にそれが無いというの? 杏子は桜子の娘。そして私の姪よ。何も不足はない筈」


 冬凪に返す薔子の声と表情が険しくなる。

 それに構わず、畳みかける様に冬凪は語気を強める。


「何も知らず、欠片も魔力を待たぬ者に、覚悟など持てるはずがない! わかっているのだろう?」

「冬凪! 口が過ぎる」


 割って入ったのは黒蜜だった。

 その眉間に、密かな怒りを見つけて杏子は驚く。

 そんな様子の彼を目にするのが初めてだった。黒蜜は常に冷静沈着な佇まいで薔子の傍らに居たのだ。


 突然に張りつめた部屋の空気に、杏子は居ずまいを正さずにいられなかった。

 束の間の沈黙と緊張の中、薔子の深いため息が落ちる。

 険しかった眼差しは解け、冬凪から杏子へと移された。



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