16 木苺タルト
その日、昼食を取りに杏子が食堂へ入ると春潮の姿があった。
いつもならこの時間は無人のはずのキッチンに彼は立ち、杏子を迎える。
「今夜は、お客が来るんだ」
「お客様?」
春潮は夕食の下準備を始めていた。
「杏子の知っている人だよ」
「本当に!?」
杏子の声が思わず大きくなる。
自分が知っていて、ここを訪ねてくる人物の心当たりなど一人しかいない。
「薔子さんが、ここへ来るの?」
「さっき知らせがきた。今夜はここで、みんなで食事をしようって」
春潮は杏子のために手早くミルクティを淹れた。
杏子は、渡されたミルクティを上の空で飲み込む。
桔梗の館に来てから半月、薔子からは何の連絡もないまま。杏子は彼女が自分のことなど忘れてしまったのでは、と思うことすらあった。
すっかり日が暮れた頃、黒蜜の運転する黒い車で薔子はやって来た。
「元気そうね」
華やかな笑みを湛えた薔子を前にして、杏子は少なからず戸惑った。
彼女の正体を知った上で対峙すると妙な緊張感が生まれる。彼女が魔女だということに。
秘かな戸惑いを漂わせる杏子を見て、薔子は軽く息を吐いた。
「何も知らせずにこうしてしまったのは悪かったけれど、杏子にとってここは悪いところではないでしょう?」
悪びれなく薔子が言う。
そう言われてしまうと、杏子には返す言葉も見つからない。
微塵の後ろめたさもない薔子のいつも通りの様子に、杏子はふと安心し始めていた。
そこに居るのはやはりまぎれもなく自分の知る薔子で、それ以上でもそれ以下でもない気がした。
「でも……ちゃんと教えてくれたら、いろいろと心構えができたかもしれないのに……」
杏子の拗ねた様な言葉に薔子は微笑む。
「事前に教えていたら、杏子はここへ来てなかったでしょう? ――さあ、食事にしましょう」
黒蜜の引いた椅子へ薔子は座る。
杏子の前で姿を偽る必要がなくなった黒蜜は、深い茶の髪に濃い緑の瞳をしていた。
食卓には所狭しと春潮が腕を振るった料理が並び、客人二人分の椅子が追加され六人がテーブルを囲む。
空席続きだった冬凪の席にも、今夜ばかりは本人の姿があった。
黒蜜が持参した赤い木苺のタルトが食卓に加わり、夕食は始まる。
それは予想外に賑やかな食卓となった。
春潮や夏墨は、薔子はもちろん黒蜜とも知らない仲ではないようで、会話を弾ませる。
冬凪ですら口数は少ないものの、その輪へ自然に加わっていることに杏子は驚く。
賑やかな食卓というものに不慣れな杏子だったが、気後れすることなくこの場に自分が居ることが出来るのが不思議だった。
食器やグラスの行きかう音が、会話と共に弾むのが心地好く。
ほんの少し人数が増えただけで、食卓がこんなにも賑やかになるということを杏子は初めて知った。
食卓を囲むそれぞれが好きなものを好きなように食べるので、本来は食後料理の位置づけのはずの木苺のタルトは夏墨によって半分以上も片付けられてしまっている。
それに気がついた春潮が声を上げた。
「夏墨! タルトばかり食べるな」
「黒蜜のお手製タルトは久しぶりですからね」
タルトの味を称賛しつつ夏墨はさらにもう一切れ、赤く艶やかなタルトを自分の皿へと切り分ける。
その皿へ黒蜜がたっぷりと白いクリームを添えた。
「相変わらずね」
なみなみと注がれたワイングラスを片手に、薔子は面白そうにそれを見る。
「夏墨の前に並べたのが失敗だったな」
冬凪の呆れ声に、春潮が大げさに眉を寄せた。
「杏子! はやくしないとタルトがなくなるぞ。夏墨! 俺と杏子の分もきちんと取り分けろよ」
大人しく成り行きを見守っていた杏子に、夏墨は笑顔でタルトを取り分けようとする。
それは、何気ない一場面だった。
取り立てて深い意味もないその食卓の風景が、杏子に強い既視感を与えた。
……この、風景を知っている?
よく似た場面が一瞬だけ杏子の中に閃いたが、それはすぐに幾重にも重ねられた絹布が覆い隠してしまう。
……知っている。わたしは、この風景を知っている。
杏子は諦めずに、重なる絹布の向こうを手繰ろうとする。そんなふうに、覆われた記憶の向こう側を見ようとするのは初めてだった。
そして、白色の切れ間に杏子は見つけた。
それは幼いころの食卓の風景だった。
桜子に薔子、他にも幾人もの親しげな大人に囲まれて、幼い杏子はそこに居る。
杏子がテーブルの中央に置かれた甘いパイばかり欲しがるのを、周囲の大人たちは優しく笑う。
大きく切り分けられたパイに添えられたクリーム。
お湯で薄めた甘い紅茶。
優しいざわめき。
カトラリーの行き交う音。
それから……。
それから……。
……これは、いつのことなのだろう?
もう一歩、杏子がそこへ近づこうとした途端、幸福そうな記憶の風景は大きく揺らぎ、再び冷たく白い向こう側へと消えていく。
杏子の手に水滴が落ちた。
はたはたと大粒の涙が瞳から頬を伝い落ちて、杏子は我に返る。
それに一番驚いたのは、杏子自身だった。
いつの間にか静まり返った食卓の誰もが杏子を見つめていたが、杏子はなぜ涙が出るのか自分でも分からず、そしてそれを止めることも出来ずにいた。
「ご、ごめんなさい。顔を洗ってきます」
絞り出すようにかすれた声でそれだけ言うと、杏子は逃げるように食卓を離れ洗面室へと飛び込んだ。
冷えた空気の洗面室の鏡には、まだ泣き続ける杏子が映る。
杏子の知らない何かに、身体は反応して涙を流させた。
涙で濡れた顔を水で流しながら、杏子は繰り返し考える。
思いだせない。
思いだせない。
帝都の屋敷に住まうまでの、一切の物事を杏子は思い出せない。
分かっているはずのことだった。ずっとそうだったのだから。
でもそれは、今更ながらひどく異質な気がして、杏子は鏡の中の濡れた顔をぼんやりと見つめた。