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14 書物

 

 杏子の頁を捲る手が止まったのは、その手にひんやりとした現実の感触が乗ったからだった。

 意識のほとんどを書物の中へと浸らせていた杏子は、その冷たい感触を認識する為に視線を書物から引き揚げる。

 右手には小さく平らな頭が乗り、丸い瞳で杏子を見上げていた。

 遅れて戻って来た意識が、驚きの悲鳴を上げる。


「ぅわぁぁああっ!!」


 予期せぬ訪問者に、杏子の右手が跳ね上がる。

 宙に跳ね上げられたそれは危うく厚い本に挿み込まれそうになったのを、器用に身をひるがえし机へ着地し再び杏子を見上げた。

 白く細い滑らかな身体に向き合って、杏子はその名前を思い出した。


「……マシロ?」


 呼びかけに頷くようにその首を動かした白蛇を見て、杏子は辺りを見回す。

 マシロの主人の姿は無く、書庫は暗く静かなままだった。


「驚かせてごめんね」


 改めてその小さな顔を見つめる。マシロの丸い瞳は菫色で、優しげな顔つきをしているように見えた。

 マシロは杏子を見て、それから天井を見上げる動きを繰り返す。


「上? ……上に戻るの?」


 杏子の問いにマシロは頷く素振りを見せると、しゅるりと床へ下り螺旋階段へ向かう。

 洋灯を手に、杏子はその後を追った。


 マシロに付いて階段を上がり扉を開くと、窓の向こうの陽に目が眩む。陽はすっかり空の真ん中へ上がっている。

 屋敷に物音は無く、静まりかえっていた。

 窓の外に見える裏庭の工房を見れば、扉が開いている。春潮は工房に居るようだ。

 マシロは廊下を進み食堂へと向かう。

 通り過ぎた冬凪と夏墨の部屋に彼らの気配はなく、屋敷の中は無人だった。

 マシロに続いて食堂に入ると、食卓の上に一人分の昼食の支度がされているのに気がつく。

 杏子の席に置かれた、白樺の蓋付きカゴと赤い琺瑯のポットとカップ。

 カゴを開くとほわりとした湯気があがった。

 中には出来たてのような温かな野菜シチューと茶色いパン。赤い琺瑯のポットには、熱い紅茶がたっぷりと入れられている。

 

 杏子が席に着くのを見届けると、マシロは静かに食堂から姿を消した。

 紅茶を一口飲んで、ようやく杏子は息をつく。


 青い書物。

 それを開く前は手にしたその厚さに、読了するのに数日以上かかると覚悟していた。

 それなのにあの書物は、もうあとほんの数頁で終わってしまう。

 読み終えた頁の厚さと、経過時間はあまりにもかけ離れていた。

 魔法が関わることならば、自分の常識では計ることはできないのだろうと杏子は考える。

 しかし、そもそもあれを「読む」と称する行為に括っていいのか疑問だった。

 ページを捲ると杏子は途端に、あの暗い書庫から書物の中へと入ってしまうのだから。

 身体だけをそこに残して、頁の中に入る。それはとても不思議な感覚だったが、杏子はそれを恐ろしいとも不快だとも思わなかった。


 昼食を済ませ、杏子は書庫へと下りた。

 そして再び夕食の時間をマシロが知らせに来るまで、書物の中へと沈み込む。

 夕食は、朝と同様に一席が空席のまま始まった。


「どうですか? 順調に進みそうですか?」

「順調……なのかな? 今日は一日ずっと、本を読んでいるだけで……。明日も明後日もすることは変わらなそうなんですけど……」


 夏墨に問われて、杏子は書庫に並んだ膨大な量の書物を思い出す。

 夕食までに、杏子が読み終えた書物は五冊。

 それは杏子の中では驚くべき早さだったが、それでも書庫の書物を読み尽すのは遥か先になるだろう。

 童話や伝記の様な物語。詩の様な散文的な不思議な文章。書物の中身はどれも、杏子には馴染みのない世界だった。


「不思議な本ばかりです。本の中身も不思議な話ばかりだけど、厚くて文字がぎっしりと書かれている本なのに、あっという間に読み終わってしまったり……」

「薄くて絵の多い、絵本みたいな本に驚くほど時間がかかる?」


 横から春潮が続きを言い当てた。

 杏は頷く。


「そうなんです。やっぱり、魔法の本だからなんですね」


 書物の外見はまったく当てにならず、杏子には書物を開いてから閉じるまでの時間を予想することはできなかった。


「書庫の書物は魔力を帯びています。その魔力を読むことで、杏子さんは力を目覚めさせていくのです。魔力を多く帯びる書物は、それを受け取るのに時間が掛るのでしょうね」


 夏墨の言葉に、杏子は曖昧にしか頷けなかった。

 書物を読むことで、魔力が目覚める。

 冬凪も最初にそう言っていたが、書物を一日中を読んでみても、杏子にはその目覚めの兆候を微塵も感じることが出来ない。

 本当に自分の中に彼らが言う魔力が目覚めるのか、杏子は書物を読み終わる度に様子の変わらない自分を不安に思っていた。

 その不安を察したように、夏墨が優しく言う。


「今日はまだ初日です。焦る必要はありません」





 それから数日。

 杏子は、同じ毎日を繰り返した。

 薄荷緑茶を冬凪の部屋に運ぶ。

 不機嫌な冬凪に対峙するのには慣れなかったが、暗闇の書庫にも、書物が持つ領域へ包まれ沈み込むことにも慣れ、杏子は書庫の半分ほどの書物を読み終えていた。


 それでも杏子に魔力の目覚めの自覚症状は現れず、毎日密かに息を吹きかけている硝子の小鳥が飛び立つ気配も全くなかった。



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