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13 薄荷緑茶

 

 廊下の両側に並ぶ木の扉は北側に四枚。南側にも四枚。

 明かりが入るのが突き当りにある西向きの窓だけなので、昼下がりまでの廊下は灯りもなく少し暗い。

 その薄暗い廊下を、暗い面持ちで杏子は進んだ。

 黒い急須と湯呑を乗せた木のトレイを手に、杏子はかなりの低速で廊下を歩く。

 しかし幾らゆっくりと進んだところで、たいした時間も掛からずに目的の扉の前へ到着してしまい、小さくため息をつく。

 

 そこは北側三枚目の扉。冬凪の部屋だ。


 杏子は冬凪に魔力習得のための指導を、これから毎日受けることになっている。

 出来る事なら春潮がその役を担ってくれれば、こんなに気は重くなかったと思う。夏墨が教えてくれても良かったのに、とも思う。

 けれど彼らの言う「役割」では、代わりを務めることは二人には出来ないのだと告げられていた。


 意を決して、控え目に扉を叩く。

 程なくして開いた扉の向こうに現れたのは、予想していた通りの不機嫌そうな冬凪だった。

 長い前髪の隙間から、陰鬱そうな紺紫の瞳が杏子を見下ろした。 

 今すぐにでも部屋に戻りたくなるのを堪え、杏子はおずおずと口を開く。


「……お、おはようございます」

「入れ」


 挨拶は黙殺された。

 杏子の手から無造作にトレイを取りあげると、冬凪は背を向けて部屋に戻っていく。

 それに続いて杏子も部屋に入るしかなかった。


 濃色の厚い窓布の下がる部屋は暗く、夜は明けたというのに机の上には灯が燈され、それを取り囲むように高々と書物が積まれている。

 壁面を覆い隠す様に置かれる書棚と、そこへきちきちに詰め込まれた書物の様子に圧迫されて、杏子は思わず暗い部屋の中を後ずさった。


 その不意に一歩後ずさった杏子の靴底が、柔らかいものを捕らえてしまう。


「ひっっ!!」


 杏子の小さな悲鳴が部屋に響く。

 靴越しに、柔らかく弾力のある感触が足裏を伝わってくる。


「なにをしている!」


 苛々と言い捨てて、冬凪は杏子の足元からするりとなにかを抜き取った。


「いま、いま、なにかグニャっとしたものが床に……」

 

 うろたえる杏子に向けて、冬凪は大げさなため息を吐きだすと窓布を僅かに開く。

 暗かった部屋に外光が入り、杏子は冬凪の手の中のそれが何か目で見て確認することができた。


 白い蛇。


 白く細い蛇が、冬凪の手に巻きついている。

 それは冬凪の使い魔、「マシロ」に違いないと杏子はわかった。


「ご、ごめんなさい。その……マシロですよね?」

「そうだ。今、お前が踏み殺そうとしたのが、私の使い魔のマシロだ」


 刺々しくそう告げられて、杏子は返せる言葉も見つけられず口を閉じる。

 白蛇のマシロは特に怒った素振りも見せず、大人しく杏子を見つめていた。


「そこへ座れ」


 険のある声と視線で示されたのは、窓の前に置かれた冬凪のベッドだった。

 彼がそこで休むことがあるのか疑わしくなるほど、寝具は皺一つ無く整えられている。

 その上に座るのを杏子は躊躇したが、威圧的な雰囲気に逆らうことはできず無言のままそこへ掛けるしかなかった。

 冬凪は部屋に一脚しかない椅子に座り、杏子が運んだ急須を傾け湯呑に茶を注ぐ。

 湯呑に入った濃い緑をした薄荷緑茶はっかりょくちゃを、冬凪は硬く冷えた表情で飲み込んだ。


 微かな薄荷の香りと沈黙が、広くない部屋に満ちていく。


 夏墨と春潮が杏子に対して非常に好意的な分を裏返したかの様に、冬凪は杏子に対してあからさまに不機嫌な態度で接しその度に杏子を委縮させる。

 正に今もそうだった。

 杏子が所在なさげに床を見ていると、冬凪が何の前置きもなしに口を開く。


「お前がするべきことだが……」


 「お前」と呼ばれるのが気に掛かるが、気にするより慣れよと夏墨が言った言葉を思い出し、杏子はゆっくりと顔を上げる。


「まず、魔力を習得しなければ話にならない。それが出来なければ、お前は役割を担うことはできない」

 

 冬凪はそう言い放ち、空になった湯呑を置いた。


 彼らは、「役割」という言葉をよく使う。

 杏子にも、彼らにも、それぞれ役割があるのだと。


「本来であれば、生を受けた瞬間から魔女は魔力を習得していくものだ。あちらでは、それが普通だ」


 「あちら」と冬凪が言うのが彼らの本来居る世界で、いま居るヒトの世界を彼らは「こちら」と呼んだ。

 魔力と魔法を持ってして、両の世界を行き来することが叶う。それ故に、遥か昔に魔女は近くて遠い隣り合う「こちら」の世界を救いに来ることができたのだ。

 そして、「あちら」に居れば、呼吸をするように己に宿る魔力は自然と目覚めるのが常だという。


「――だが、お前はこちらで生まれ育った。あちらに戻ること無く、その歳までこちらでだけ過ごしてきた。それに、その髪……」


 苛立った視線が、杏子の髪に注がれる。


「魔女の髪には魔力が宿る。そんなに短くては、何の役にもたたない。二度と髪を切るな」


 杏子は薔子の長い髪を思う。

 たしかに薔子は、常に美しい長い髪の姿だった。それが魔女だからとは、夢にも思っていなかった。

 けれど、自分の髪が薔子のように長くなった姿を想像してみて、杏子は顔をしかめる。

 自分の事ながら、お世辞にも似合うとは思えない。


「でも春潮も夏墨も短い髪なのに……」


 つい口を挟むと、すぐに鋭い口調で遮られる。


「俺たちは魔女ではない。術者だ。根本的な魔力の性質は全く違うものだ。混同するな」


 半ば怒鳴りつけるように言われて、杏子はすっかり小さくなる。

 どうしてこれほど自分が冬凪に厭われているのか、杏子には見当もつかず戸惑うばかりだった。

 そしてそれは冬凪も同じだった。

 自身が魔女だということを突然告げられ、それにまだ何の確信も持てずにいる杏子に、魔女と術者の違いや魔力の性質云々が分かるはずもないことなど十分承知している。自分の振る舞いが、見るからに臆病で気弱そうな少女に対する態度ではないということも。

 それなのに、何も知らずにそこに居る杏子に対して苛立ち、その苛立ちを抑えられぬ自身に苛立ち、冬凪の態度はますます刺々しくなる。

 この悪循環に冬凪はこめかみを押さえた。


「とにかく、頼りになるのはお前の血筋だけだ。桜子も薔子も、魔女の中でも力のある血筋だ。その血がお前にも流れているのだから、どうにかなるだろう」


 すっかり身を硬くして俯いていた杏子は、その言葉に自分の手のひらを見つめた。その皮膚の下を流れる赤い線を見つめた。

 記憶にない母の血を頼りにする事に、杏子は奇妙な感覚を覚える。


「付いて来い」


 銀の手提洋灯を手に、冬凪は部屋を出る。杏子は無言のまま、その後に続く。


 冬凪は北側四枚目の扉を開けた。

 開いた扉の向こうに部屋は無く、代わりに地下へと続く螺旋階段が現れる。

 冬凪が洋灯に手をかざすと、黄水晶が柔らかな灯りを発した。

 その灯りと冬凪を追って、杏子は階段を下り始める。

 背後で扉がぱたりと閉まると、黄水晶の灯りだけが頼りだった。

 灯りの届かない場所は、すぐに黒く塗りつぶされて闇に溶けてゆく。

 下りるそばから暗闇に消えていく階段と冬凪の背中を追って、ぐるりぐるりと回り下り続けると、不意に階段は終わり空間が現れた。


 冬凪が洋灯の灯りを強めると、辺りの様子が杏子にも見えてくる。

 そこは一面、天井まである書棚がずらりと並んだ書庫だった。

 広さは優に上部の屋敷の面積を超え、それは工房や屋敷を囲む庭の地下部分も書庫だと予想できる。

 どの書棚にも隙間なく書物が並び、そのどれもが杏子が両手で抱えなくてはならないほどの厚さ重さ、そして大きさを兼ね備えたものだった。


「ここが最初のフロアだ」

 

 冬凪の声が書庫に響く。

 それを聞いて、杏子は身構える。

 最初ということは次も、その次もあるのだろうかと。


「今日からここの書物を端からすべて読め」


 平淡な声が書庫にこだまする。

 ハシカラスベテヨメ。

 言葉通りのはずなのに、杏子は瞬時にその意味を理解できなかった。


「……端から全て?」


 膨大な書物を見回して、杏子は聞き返した。


「そうだ。全て読め」


 もちろんすぐに、冷やかな肯定を突きつけられる。けれど杏子も負けずに、すぐさま否定を返した。


「無理です!」

「なぜだ?」


 冬凪の眉間に一層深い皺が刻まれて、杏子は怯みそうになる自分をどうにか奮い立たせ言葉を続ける。


「こ、こんなにたくさんの本を読むなんて、何年かかるかも分かりませんし、それに……」

「それになんだ?」

「それに、わたしには、ここにある本の文字が読めない……」


 それが致命的に、杏子に否定を唱えさせる。

 慣れ親しんだ文字であっても、この夥しい書物の量には閉口を余儀なくされるのに、灯りに浮かび上がる書物の背表紙には杏子の知る文字は欠片も並んでいなかったのだ。

 むしろそれが、文字なのか記号なのか装飾なのかも杏子には判別が出来なかった。


「手にとれ」


 冬凪は手近な書棚から、書物を一つ引き抜き杏子に差し出す。

 青い布張りの書物は、表紙に金糸で刺繍が施されていた。

 杏子は差し出された書物を両手で受け取る。

 予想より重い書物から、古い紙とインクの匂いがした。


「読み上げてみろ」

「読めないって言っているのに……」


 そう小さく零しながら、杏子は青い表紙に視線を落とす。

 文字なのか記号なのかさえ判別の付かなかった模様の羅列は、もうそこには無かった。


「サークルフラワーと三角泉」


 それを読み上げた自分の声に、杏子は首を傾げた。

 読める?

 先程まで全く理解できなかった金糸の模様は、すんなりと意味を持って杏子の中へ入ってきた。

 慌てて、周囲の書棚に視線を巡らせる。

 ところが、書棚にあるのは一様に模様の群ればかりだ。やはり、杏子に読むことは出来ない。


「今のお前の力では、直に触れている物だけで限界だろう。力などと言うのもおこがましいがな。お前の持つ、魔女の血が文字を読んでいるのだ」

「魔女の……血」


 指先を書棚に収まる書物の一冊へあてがって、杏子は息を呑んだ。

 冬凪の言葉通り、指先が触れた書物の文字を理解する事が出来る。


「ここにあるのは、ただの書物ではない。魔力を帯びたあちらの書物だ。これを読んでいくことで、本来あるべき力は目覚めていくはずだ」


 冬凪は書庫を見回す。

 無数に並ぶ書棚が、暗闇のなかで幾重にも連なって立ち並んでいた。


「お前の空白の年月を埋めるには、相当な量が必要だ。とにかく端から全て読め。今、お前がすべき事はそれだけだ。難しくはないだろう?」


 確かに、文字が読めるのならば、異を唱える理由は見つからない。読破に何年掛ろうと、構わないということだろうか。

 黙ったままの杏子を連れて、冬凪は書庫の中心部へ進む。

 そこには机と椅子が一組ポツンと置かれていた。

 厚く大きな書物を広げても余裕のある大きな机の上に、卓上電灯が一つほわりと燈っている。


「ここで読め。俺は戻る」


 冬凪は机に洋灯を置くと、踵を返した。


「ここで一人で!? ふ、冬凪が、教えてくれるんじゃないんですか?」


 暗闇に怯える訳ではないが、書庫は暗く広く心細くないと言ったら嘘になるだろう。


「先程も言ったが、まずはこのフロアの書物を全て読め。俺が教えるのはその後だ」


 振り向きもせず素っ気なく言うと、冬凪は暗闇の中に消えた。


「そんな……」


 静まり返った書庫に一人取り残されてしまうと、書物の匂いと沈黙が暗闇を濃くするように感じて、杏子は洋灯を引き寄せた。

 銀枠に囲われた硝子の向こうに黄水晶が発光している。その灯りは柔らかく暖かそうだが、熱は発せず洋灯の硝子は冷たいままだ。

 杏子は洋灯を抱いて、革張りの回転椅子に座る。

 背もたれに深く身を寄せると、息を潜めて空気を辿り気配を探った。


「あれ、どうしたんだろう?」


 気配を探すことが出来ない。

 再び、更に集中して試みるが結果は変わらなかった。


「ここからだと、気配が探れないみたい……」


 ため息をついて、杏子は椅子をくるりと回して暗い天井を仰ぎ見る。

 確かに、階段をだいぶ下ってきた。きっと自分が思っているよりも、上部の屋敷との距離は離れてしまっているのだろう。

 しばらく椅子に座ったまま辺りを見回してから、杏子はようやく立ち上がった。

 手に洋灯を下げて書庫を巡る。

 恐る恐ると書庫をひと回りして杏子に分かったことは、このフロアの書物を読み終えるのが見当もつかないほど先になるだろうことと、更に下へと続く螺旋階段が存在していたことだ。



 洋灯を机に置き回転椅子に戻ると、杏子は背筋を伸ばし机にのせた青い表紙を捲った。


 頁から、澄んだ水の香がする。

 足先から青い水に包まれて、後から後からひたひたと満ちてくる水は杏子の全身をすっぽりと包みこむ。


 並んだ文字は、文字以上の意味を持って杏子の身の内に滑り入り広がる。

 身体という器だけをそこに残して意識は暗闇の書庫から遠ざかり、書物が与える青く澄んだ領域へ杏子はこぷりと沈み込んだ。



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