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12 カフェチョコレート


 ベッドに横になったまま、杏子は部屋を見回した。

 夜明け前のまだ薄暗い部屋は、昨日の朝とはだいぶ雰囲気が違っている。

 クロゼットの前から旅行鞄は姿を消し、鞄に詰められていた荷物は部屋のあちこちへ収まっていた。


 屋敷は静かだったが、この静けさは杏子が知っている静寂とは違っていた。

 息を潜め目を閉じて、気配を手探る。

 そうすると杏子には分かるのだ、家の中の人の気配の在りかが。

 いつからそんなことが出来る様になったのか、杏子は覚えていない。いつの間にか出来るようになっていたのだ。

 広い帝都の屋敷で、杏子は自室に居ながら屋敷の隅々まで気配を探ることが出来ていた。

 これは杏子の唯一と言ってもいい、変わった特技だった。


 扉の向こうのそれぞれの部屋に、彼らの気配を感じる。

 まだみんな眠っているのだろう、気配に動きはない。

 寝ても覚めても、いつでも誰かの気配が共にあること。それは、杏子を不思議な気持ちにさせる。

 帝都の屋敷では眠りにつく時も目を覚ました時も、屋敷の中に誰かの気配があることなどなかったのだ。


 杏子は静かに起き上がると窓布をめくる。外は昨日と同じように、濃い霧が立ち込めていた。

 音を立てぬように身支度を済ませると、杏子は窓から庭へと下りる。

 柵をくぐり抜け庭を出ると、丘に群生するシルバータイムのしんとした香りのする霧の中を進む。

 この中では普段より呼吸がし易いような気さえして、杏子は霧を深く吸い込みながら丘を登り屋敷を見下ろせる場所でぼんやりと座る。

 眺める小さな家には自分の部屋があり、彼らが居る。

 陽が昇り、霧が何処に流れて消えていくまでの時間を、杏子はそこで静かに過ごした。


 これが、杏子の秘かな朝の日課になる。




 スカートが拾った朝露の雫を払うと、杏子は窓から部屋へと戻る。

 そのまま食堂に向かうと、春潮が食事の支度をしていた。

 すぐに杏子の足元にササタが駆け寄る。その頭を恐々と撫でてやってから、杏子は春潮の横へ並んでみた。


「杏子、おはよう。今朝は早いね」

「おはようございます。……あの、なにか手伝えることありますか?」


 幾分、躊躇しながら杏子は申し出る。

 もちろん料理は出来ないが、ここで何もせずに朝食が出てくるのを待つのは気が引けた。

 春潮は嬉しそうに微笑むと、小さな片手鍋を差し出す。


「じゃあ、夏墨が飲むアレを作ってもらおうかな。そろそろ起きてくる頃だし」


 そうして、春潮の指示のもと杏子が作ったのは、珈琲に溶かしチョコレートとオレンジシュガーを加えた物。

 片手鍋を木べらで混ぜる杏子の表情は真剣だった。

 なにしろ、薔子の屋敷では杏子は台所に立ったこともなかった。食事はすべて用意されていたし、お茶すらも作り置かれていた。

 ぎこちなくかき混ぜる鍋の中からは、甘い湯気が上がってくる。

 その横で、春潮はフライパンで鮮やかに黄色いオムレツを作った。

 ふかふかのオムレツが次々に出来上がるのが杏子には魔法のように見えたが、どうやら料理に魔法は使っていないようだ。


「魔法は使わないんですか?」

「え?」


 三つ目のオムレツが、皿にすとんと下りるのを見守ってから杏子は尋ねる。

 杏子は卵やフライパンがふわふわと浮かび、ひとりでにオムレツが出来上がる様子を想像した。

 春潮は困ったように笑う。

 

「うーん。俺たちの魔力は、杏子が思っているようなことは出来ないんだよな……」

「僕たちは魔法ではなく、術を使うんです」


 いつのまにか杏子の後ろに夏墨が立っていた。

 今朝も穏やかな微笑みを浮かべ、その肩にはルリテが居る。


「おはようございます。いい香りですね」

「あ、夏墨さん。おはようございます」


 杏子の返した挨拶に、夏墨は笑みを湛えたままで首を横に振る。

 昨日の話を思い出した杏子は、それを改めて言い直すしかなかった。


「……か、夏墨。おはようございます」


 彼らの名だけで呼ぶと約束したことを思い出して、杏子はその名をそのまま呼んだ。

 夏墨は満足そうに頷き、


「はい。おはようございます。今朝は、杏子さんが作ってくれているですね。いつもよりいい香りします」


 杏子の手から、春潮は鍋を受け取り夏墨のカップへ注ぐ。


「いつもと同じ分量だから、いつもと同じ匂いだと思うけどな」


 春潮がカップを差し出す。

 そのカップを夏墨が受け取る前に、ルリテは開いていた窓から外へと飛んで行ってしまった。


「ルリテはこれが苦手なんです。こんなに美味しいのに」


 目を細めてカップを傾ける夏墨は、本当にそれを美味しそうに飲む。

 それを見ていた杏子に、春潮はカップをもう一つ差し出した。


「杏子も飲んでみるか? せっかく自分で作ったんだからな」


 珈琲とチョコレート、そして微かにオレンジが香るカップを杏子は受け取った。


「いい匂い……」


 香ばしく甘い匂いに、杏子はそっと口を付ける。


「くっうぅぅぅぅぅぅ!!??」


 不可思議な声をだして、杏子は口元を押さえた。

 むせ込みそうになるのを、どうにか堪える。それを横目に、春潮がいそいそとテーブルに朝食を並べた。

 その肩が、笑いだしたいのを堪えて震えているのに杏子は気がつくことも出来ない。

 甘い香りの数十倍以上の甘味が、まったりとゆっくりと口中に広がり胃へ落ちていく。

 作った(と言っても、ただ混ぜただけだが)からには、大方の味が予想できそうなものだが、予想を遥かに上回る馬鹿げた甘さのそれは衝撃的だった。

 ある意味では、朝の目覚めに相応しい飲み物なのかもしれない。

 何とか飲み込んだ一口は、甘いものは決して嫌いでない杏子をこの先しばらくは甘味を遠慮したい気分にさせた。


 杏子の目の前で、夏墨は涼しい顔でそれを飲んでいる。


「やっぱり杏子さんが作ったからか、今朝のは特別に美味しいです」


 そう褒められて杏子は手元のカップを覗きこむが、やりすぎの甘さを放つそれに再び口を付ける気にはなれなかった。


「か、夏墨。さっき言っていた魔法のことだけど……」


 食卓の端にそっとカップを置くと、そこから意識を逸らす為にも杏子は自ら話題をふった。


「そうですね。では、食事をしながら話しましょうか」


 食卓の上にはすでに三人分の朝食が並んでいる。


「せっかくの料理が冷めるからな。ほら、杏子、座って座って」


 笑いをこらえた顔のままで、春潮は杏子の前にグラスを置いた。

 緑の双葉を浮かべた水はミント水で、杏子はすぐにグラスに手を伸ばす。

 食卓の上には、オムレツに正方形の厚切りパン。野菜のスープ。

 ミント水で落ち着きを取り戻した杏子は、夏墨を見て頬を引きつらせた。

 夏墨はパンにジャムを塗っている。

 赤いジャムが、パン本体の厚さと変わらないくらい施されていく。

 テーブルの上に置かれたジャムがどれも大瓶なのは、この使い方が理由のようだ。

 杏子はもう一度ミント水を飲み、ジャムから目を逸らす。


「さて、杏子さん。魔法のことなんですが、僕たちは、それぞれ使える力が違うんです」

「違う? 魔法には種類があるんですか?」

「僕たちは、役割に応じた力を持ち使います。それを術といい、僕らは術者となります」


 夏墨の言葉に頷きを返しながらも、杏子は彼の常軌を逸した甘党ぶりを目の当たりにし続けて落ち着けなかった。

 赤いジャムをのせたパンを上品に食べ終えた夏墨は、二枚目のパンに今度は黄色いジャムを塗り始めている。

 見ているだけで口の中が甘くなってくる気がして、杏子はパンには何ものせずに口に運ぶ。


「わたしが思っているような魔法とは違うんですね。こう、ポットが中に浮いてお茶を注いだりとか……」

「そうですね……。そういったことも、手順を踏めば出来ないこともないでしょうが、あまり効率的ではないですね」

「そうなんですか」


 杏子は少しだけ残念そうにテーブルの上の珈琲薬缶を見た。中には、熱い珈琲が入っている。


「そうそう。こうして手でやった方が早いな」


 春潮はそう言って、珈琲薬缶を傾けカップへと注いでみせた。


「杏子、砂糖とミルクは?」

「今日は、いりません……」


 いつもなら入れている砂糖とミルクは、今朝の杏子には不要だった。

 あの飲み物の余韻がまだ残っていることと、目の前で過剰に甘味を摂取する様を見続けているからだろうか。

 苦いままの珈琲を杏子は飲んだ。


 ジャムを食べるためのパンを食べ終えて、夏墨はナフキンを畳んだ。


「さて杏子さん。荷解きも終わりましたし、魔力に付いて興味も出てきたようですし、さっそく今日から始めましょうか」


 含みのある言い方に、杏子は少し嫌な予感がする。


「……始めるって、なにをでしょうか?」

「決まっています。魔力の習得ですよ」


 夏墨はにこりと眩しい笑顔を杏子に向けると、食後の珈琲に砂糖を入れ始めた。



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