11 苺シフォン
床に置かれた旅行鞄の留め具を開くのを杏子は躊躇する。
けれど、しばらく旅行鞄を見つめてから、杏子は一つため息を吐いて留め具に手を伸ばした。
重々しい音を立てて開いた旅行鞄から、中身を取り出し始める。
機械的に手を動かしながら、杏子の心は重く沈んでいた。
今朝にはだいぶ前向きに新しい生活を受け入れようとしていたはずなのに、その気持ちがあっという間に萎んでしまう。
知らされていないことばかりが、目の前に次々と出される。ゆっくりと考える間もなく、杏子の周りが変わっていく。
自分の明確な返答は必要とされない。杏子には、決定権はなかったのだ。
いまの杏子には受け入れるしか術がない。どことも知れない場所で、誰とも知らぬものと暮らすことを。
気を抜くと手が止まりため息ばかり零れそうになるのを堪えて、黙々と杏子は荷物を片付ける。
しばらくして不意にその手が止まった。
杏子の手には、鞄の隅から取り出したばかりのインク瓶。瓶の中でゆらりと動く液体に、杏子の表情は陰る。
その色は冬凪の瞳を思い起こさせた。
明らかに杏子を歓迎していない態度と視線。それは十分に杏子を怯えさせる。
ただでさえ、彼らとの同居生活を受け入れ途中の杏子には、冬凪の存在は気掛かりを通り越した大きな問題にも思えた。
春潮や夏墨とは違い、冬凪だけが杏子をあからさまに拒絶する。杏子にはその理由は分からない。
ただ、自分のはっきりとしない態度や物言いに、彼が苛立つのは肌で感じる。けれど、いきなりそこを変えれるほどの器用さを杏子は持ち合わせていない。
そんな冬凪のことを思うだけで、重い胸中はさらに重くなっていくだけだ。
止まっていた手を無理やり動かして、インク壺を机の引き出しの奥へと仕舞う。
鞄の残りの荷物は、後は衣類ばかりだ。
丁寧に畳まれた洋服を、杏子はクロゼットへ移していく。
黒、紺、茶に深緑。と暗い色ばかり並んだクロゼットを眺めてから、杏子は部屋を見回した。そして、いま身につけている深緑のワンピースに目を落とす。
南向きの明るい部屋。薄い色の木の家具。淡い色の小花柄の窓布と寝具。
陽光溢れる緑の庭に、穏やかな雰囲気の屋敷。
ここでは、杏子の深く濃い色と硬い型の洋服は不似合いに映る。
帝都の屋敷では違和感など感じなかった自分の装いは、ここではあまりにも暗く硬かった。
改めてクローゼットの中を見返してみても、そこに薄い色も柔らかな型も見つけられずに杏子はため息を落とす。
心持どころか、それを包む外側すらも、ここに馴染むのには時間が必要そうだと思った。
旅行鞄をすっかり空にして、杏子が一息ついたところで扉が優しく叩かれた。
「は、はい!」
ただ扉をノックされただけなのに、杏子はびくりとうわずった声がでてしまう。
扉を叩いたのは夏墨だった。
「杏子さん。お茶を淹れますので、食堂にいらっしゃいませんか?」
少し間をおいて、扉を開けた夏墨が顔を見せる。
にこやかな夏墨に、杏子はぎこちなくも返事をした。
「では、お待ちしていますね」
夏墨が閉じた扉を見て、杏子は今更ながら気が付いた。
部屋の扉に鍵というものが無いことを。
食堂に冬凪の姿はなく、杏子はひとまず肩に入った力を少し抜くことができた。
夏墨は上座の椅子を引き、杏子を座らせる。食卓の上にはすでにお茶の支度がされていた。
スライスされた苺で飾られた皿に、三角に切り分けられたピンク色の苺シフォンケーキがのって杏子の前に置かれる。
春潮は慣れた手つきで、ティーカップに紅茶を注いだ。
カップもティーポットも春めいた水色と黄のパステルストライプで、春潮の大きな手にあるとそれはより可愛らしく見えてしまう。
紅茶が入り、杏子の斜め前の席へ夏墨と春潮が座った。
両方向からにこにこと見つめられる中、杏子は俯きがちに紅茶に手を伸ばす。
杏子に続いて、春潮と夏墨もティーカップを持ちあげた。もちろん二人の前にも、苺シフォンは置かれている。
柔らかなシフォンケーキを豪快に食べる春潮に、優雅に紅茶を飲む夏墨。
ちらちらと二人を見ながら、杏子も目の前のピンク色の三角を口に運ぶ。
ふわりとした苺の味が、口の中で瞬く間にほどけて消えていく。杏子はその美味しさに静かに喜んだ。
杏子が続けて苺シフォンを食べるのを、春潮は嬉しそうに見守る。彼の皿からは、すでにシフォンは消えていた。
「美味しい?」
ご機嫌な春潮に尋ねられて、杏子は素直に頷いた。
「はい。とっても、美味しいです」
「口に合ってよかった」
「これも、春潮さんが?」
「もちろん」
どことなく得意げに胸を張る春潮と、繊細に膨らんだケーキを見比べて杏子は心から驚き感心する。
「……すごいですね」
杏子の言葉に気をよくした春潮は、嬉しそうに紅茶を飲み干した。
「そうだ、夕食は? 杏子は何か食べたいものはあるかい?」
「え……。食べたいものですか?」
「杏子の好物を作るからさ」
「好物……」
杏子はそこで、考え込んでしまう。そんなことを尋ねられたのは、初めてだった。
好きな食べ物を問われて、なんの料理も食材も杏子の中には特に浮かびはしない。
杏子は気まずそうに首を振る。
「……とくにないんです。その……苦手な物もないので、おまかせします」
「……そうか」
なぜか春潮の表情が陰るのを、杏子は不思議そうに見る。
けれどそれ以上は春潮は何も言わずに、曖昧に微笑むばかりだった。
「杏子さん。お茶のお代わりはいかがですか?」
夏墨に言われて、杏子は春潮から視線を逸らす。
「いえ、もう」
二杯目の紅茶を断って、杏子は椅子から立つ。
「美味しかったです。ありがとうございました。わたし、部屋に戻りますね。もう少し、荷物を片付けたいので……」
そう言って、杏子は食堂を出た。
部屋に戻り、閉めた扉を背にして杏子は小さく息をはく。
紅茶もケーキも申し分ないほど美味しかった。
夏墨も春潮も優しかった。
けれど、だれかと食卓を囲むことに不慣れな杏子は、自分にいらぬ緊張を伴わせてしまうのだ。