10 桔梗の館
朝食は杏子の予想以上に美味しく、順調に食事をする杏子を見て春潮はとても喜んだ。
用意されていた料理は全て、春潮が作ったものだった。
食事を終えた杏子は、夏墨について屋敷を案内して貰う。
とはいっても、取り立てて広い建物ではない。案内事体はすぐに済んでしまうはずだった。
食事を取ったダイニングキッチンは、居間とひと続きになった広い部屋で、ここは玄関扉から入ってすぐの部屋でもある。
杏子がこの屋敷を訪れた際に、春潮と冬凪が待ち構えていた場所だ。
部屋の南側にはキッチンと大きな食卓。部屋の北側には、落ち着いた風合いの長椅子と揃いの応接机と椅子が揃えられている。
部屋は広く三面の壁に窓があり、この部屋は陽のある時間は常に明るい場所だった。
そして玄関となる扉の正面に、屋敷の奥へと続く扉がある。
夏墨に連れられて、杏子は扉の向こうの廊下へ進む。
廊下を挟んで北側に四枚、南側に四枚。飾り気のない同じ作りの扉が並んでいる。
その中の南側の一つは、昨日通された杏子の部屋だった。
「ここが、杏子さんのお部屋ですね。帝都の頃と比べてしまえば、だいぶ手狭で簡素で申し訳ないのですが。何か要望があれば言ってください。出来うる限り、お答えしますからね」
南側の二枚目の扉の前で、夏墨はにっこりと微笑んだ。
廊下は突き当たりに西向きの細長い窓があり、そこからは裏庭の緑が見える。
杏子は自分に与えられた部屋の扉を見て、それからその周りに並ぶ同じ扉をぐるりと見回した。
「あの……。この他の扉は……?」
「ええ、いまから案内しますね。まず杏子さんの隣、南の一番手前の扉は春潮」
「……」
「そして、その向かいが僕」
「……」
「僕の隣、北の、三つ目が冬凪で――」
「あの!!」
杏子は思い切って、夏墨の話しを遮った。
「その……。もしかして、ここに、みなさんはずっと? ……えぇと、その。……わたしの部屋がここで、それで、みなさんの部屋はここで……」
「ええ。その通りです」
「……これからも、ずっと、隣とか向かいにみなさんが?」
「もちろんです」
「そんな……。ここに? こんな近くに?」
「ええ。お傍に居ります。僕たちは、杏子さんの術者ですからね」
「それって、一緒に暮らすということですか? ……みなさんは、その、通いとかではなく? 常にこの家に?」
「もちろんです」
夏墨の返答に、杏子は呆然と立ちつくす。
そして自分がしていた思い違いに気が付き、顔を青くする。
てっきり……。そう、てっきりそうなのだと勝手に思い込んでいた。
今までの杏子は、帝都の屋敷で基本的には一人で暮らしていた。
時折、薔子が戻り滞在することもあったが、女中たちは全て通いの者ばかり。だからてっきり、自分を主と言う彼らもいずこからこの場所に通ってくるのだと思い込んでいたのだ。
只でさえ広くない家の、壁一枚隔てた隣や向かいの部屋に彼らが居て暮らす。
そう考えるだけで、杏子は目眩がしてくる。
しかも、同居の相手は男ばかり。これが女となれば、少しは気持ちも違っていたかもしれない。しかし彼らは、三人とも男だった。
他人と生活をした経験のない杏子は、これから始まる同居生活に拒絶反応を示してしまう。
「そんなの……。む、むりです。わたし、その……」
「不服そうだが、私たちはここに住んでいる。後から来たのはお前だ」
冷えびえとした声が、杏子の背中に投げられた。
北側の三枚目の扉から、冬凪が廊下へと出てきている。
不機嫌そうなその姿を見て、杏子は身をすくませた。
「冬凪。またそのような物言いをして」
夏墨が緩く眉を寄せても、冬凪は口を閉じなかった。
「それとも、ここで一人暮らすのを望むか? それとも別の者を所望か?」
じろりと睨まれて、杏子は俯いた。
冬凪はそんな杏子の様子を一瞥すると、わざとらしく大きく息を吐く。
「話にならぬな」
そう言い置くと、冬凪は杏子の横を通り過ぎ、居間と食堂へ続く扉の向こうに去る。
「冬凪! ……彼のことは気にしないでください。後で、僕から言っておきます」
ため息混じりに夏墨は眉を下げる。
俯いたままの杏子は、小さく首を横に振った。
「いえ、いいんです」
か細い声に、夏墨は優しく尋ねる。
「僕らが近くに住まうのは、お厭ですか?」
「……いいえ。大丈夫です。……よけいな事を言ってしまって、すみませんでした」
再び首を横に振ると、杏子はゆっくりと顔を上げる。
少し青ざめたその顔に、夏墨は静かに微笑んだ。
「そうですか……。では、案内の続きをしましょう」
それから手洗いや浴室、洗面室を案内されて屋敷の中はお終いだった。
浴室には外に出る扉があり、夏墨と杏子はそこから裏庭へと出る。
裏庭には春潮の工房。そして、古めかしい塔がある。夏墨はその塔については、とくに詳しく説明をしなかった。
最後に夏墨は、屋敷と庭を囲む柵の向こうを杏子に示す。西も東も、北も南も。似通った風景が屋敷を囲んでいる。
特別に目印になるような物の無いここでは、慣れないうちは迷子になりやすい。散歩をするのなら屋敷が見える場所までにしておくようにと夏墨が言うと、杏子は辺りをぼんやりと見渡してから小さく頷いた。
そうして桔梗の館の案内は終わり、夏墨は杏子を部屋へ送り届ける。
冬凪に会ってから、あからさまに元気をなくした杏子は静かに部屋へと入っていった。
笑顔で杏子を見送った夏墨は、その部屋の扉が閉まると浮かべていた笑みを片付ける。
そして足早に、居間へと入った。
居間の長椅子には冬凪が一人、茶碗を片手に掛けている。
夏墨は眉を寄せると、冬凪の前の椅子へと腰を下ろした。
「一体、どういうつもりです?」
冬凪は答える代わりに茶を啜る。
夏墨は、頭を振ると大きくため息を吐いた。
「冬凪。なぜあんな態度を? 彼女は主ですよ」
「知っている」
「それならば、少しは改めていただかなくては。あんなふうに威圧的にされては、彼女が委縮するばかりです」
「自分の意見もまともに言えぬのでは、先が思いやられる。おどおど、びくびくしてばかりではないか。あれでは――」
「それでも、彼女は僕たちの主です」
空色の瞳を細め、夏墨がきっぱりと告げた。
その顔には、杏子には決して見せないであろう冷たい厳しさが浮かんでいる。
それを見て、冬凪は息を吐いた。
「……わかっている」
苦々しく呟く冬凪に、夏墨はそれ以上はなにも言わなかった。