2-31 世界の中心
突然だがコップに匙を入れクルクルとかき回したことはあるだろう。人によっては実験などでスターラーを用いる機会がある人間もいるだろう。何にせよ、水は渦を巻き、その中心は水位が下がる。この水の回る速度が速いほど顕著であり、中心が容器の底まで水位を下げることも不可能ではない。もっとも溶質を溶媒に溶かす際そこまで激しくかき混ぜるのは良くない、程々の回転数がいい。
―――嗚呼、目の前に見える光景を見れば現実逃避の1つでもしたくなるというものだ。
眼前に広がる大地に巨大な穴が開いている。
対岸が辛うじて見えるかどうか、その大穴はまるで渦潮の中心部、周囲の砂漠も中心に引き込まれるが如く波打ち、砂が中心の大穴へと流れ込んでいる。絶景、壮観、この世のものとは思えぬ風景だ。実際ここは地球ではないのだが、それを差し置いてもとんでもない光景だ。
地面に深く槍を差し込むと長い革紐をその槍と自分の腰に結び命綱代わりにする。穴の淵からは結晶質の砂漠の砂が間断なく流れ落ちていく。結晶砂漠の深層は樹脂のような性質を持つが表層は砂のような性質を持つ。実際の樹脂製品や金属も内側はともかく風雨にさらしておけば外側から劣化が進行しボロボロになっていく。
この穴がいつからあるかは分からないしどれだけ深いかは分からないが、その底が埋まるまでは際限なく、加速度的に成長し大地を削り取っていくのだろうか。
荷物を置き、重い防具をはずす。身軽になるとシャベルを杖代わりに、深く刺しつつ前進。穴の底には何があるのか。
淵に近づくほど流砂の勢いは増す。普通の人間ではあっという間に足をとられてしまうだろう。だが今の自分であれば辛うじて体勢を保つことができる。流れる砂の上をエスカレーターで後ろ向きに歩き同じ場所に留まるように何処か滑稽な姿でじりじりと淵まで向かう。そしてたどり着いたと思った瞬間。足元が大きく崩れた。
体が前に倒れ穴の底を覗き込むような形になる。深淵を覗く、この言葉。実際に体験した者はどれほどいるだろうか。絶句するしかない。
穴の底は深く、とても深く見通すことなどできない。砂漠の性質、暗い闇でも光を放つ性質がその穴を先の見えないトンネルのように逆に不気味に彩っていた。その明かりで辛うじて見えた、穴の壁にできた僅かに出っ張った部分には見たことも無いモンスターがひしめき合い、喰らい合っていた。偶然か、穴に落ちたのか牛角さんが1頭穴の出っ張りに落ちる―――次の瞬間には体の各部をもがれ、喰らわれ、消えてしまった。
だがその先、見えないはずなのだ。だが感じてしまう。見ることすらできない深遠の果て、地獄の底に凶悪な程のオーラのぶつかり合いを感じる。自分など、象の前のアリに等しいだろうそんな圧倒的な力を感じる。それも一匹ではない、いくつもの巨大なオーラの塊が互いに喰らい合っている。
アリジゴクの幼虫は餌を得るために穴を掘る。だが、それはアリジゴクが強者であるという前提だ。他に食料などないだろう、互いに喰らい合うだけの終わりなき闘争。蠱毒というものがある、それは器の中に多数の虫を入れて互いに食い合わせ、最後に生き残った最も生命力の強い一匹を用いて呪いをするというものだ。だがそれは悪意ある人の手で持って行われ初めて意味を持つ。偶然が引き起こした状況がコレであるとすればこの底はまさに地獄だろう。
穴に落ちる体を命綱が止める。簡単に繋いだ革紐に過ぎずいつまで持つかわからない。シャベルを思い切り壁につきたて流れる砂に抗い体勢を立て直すと紐を手につかみまさしく地獄の淵から這い上がった。
精神がひどい興奮状態にあるが、逆にそういう状況でこそ脳の一部が冷静な判断を下す。その指令は命綱の支柱となっている突き立った槍へと体を走らせた。
地面に座り込むと穴に背を向ける。世界の中心が穴であれば今向いている方向は世界の果てか。地平線をじっと眺める。地球は丸いから地平線も曲がって見えると聞いたこともあるが、たかだか2mに満たない人間の背と望遠鏡に劣る人間の目では真っ直ぐにしか見えないと思う。人間の目が平面レンズと仮定してのことなので実際に地球の丸みを見ているわけではないが地平線が丸く見えるということも魚眼風のレンスならあり得るが。
そんな取り留めの無いことを考えていたが、何か違和感を感じる。
太陽は常に一定の場所なのだ。自転などしているのか。この地が球状なのか。世界が違うのであれば疑うべきは常識ではないだろうか。
世界の中心が地獄であれば果ては天国なのか。
いいだろう、ならば目指すとしようか。世界の果てを。