1-2 遭遇と戦闘
目が覚めた男は悪態をつきつつ陸地を目指して歩いていきますが・・・
酒をちびちびと口に運び喉の渇きと不安を誤魔化しつつ相応の時間を掛け男は直径5キロは優にありそうな島へとたどり着くことができた。この異常な場所で目覚めてほぼ半日はたっている、疲労や空腹により男もずいぶんと疲弊していた。目印となった岩は島の中央付近にあるようだ、高さは20メートルを下らないだろう。
男の目に映ったのは歩いてきた砂漠とは異なる日光を反射する水面、その周囲に広がる木々、まさしくオアシスと呼ぶべき光景であった。思わずオアシスへと走り出す男、やはり蒸留酒では喉の渇きは癒えなかったのだ。いざ上陸し、ようやく喉を潤せると頬を緩ます男の視界に入り込んできたのは真っ黒な影であった。
あわてて足を止めた男の前には異形の獣の姿があった。あえて例えるならば大型犬、しかし目も鼻も耳さえ無く、額の場所にルビーのようなゴルフボールサイズの玉がついている。漆黒の毛並みに、太く発達した足が体を支えている。その足の先端には鉤爪が硬質な黒光りを放っている。
しかし最も男を恐怖させたのはその口、まるでサーベルタイガーのような巨大な牙が獣をより獰猛に彩る。その野生と威容は現代社会というぬるま湯ですら生きられなかった小心者を完全に威圧していた。
獣は当初男を警戒していたが恐怖に震え動くことすらできない男を嗤うように低く唸り、跳びかかると共に無造作に振り上げた前足を男の頭に振り落とした。
反射的に仰け反ったものの獣の足から逃れられず男の右目の視界が赤く染まる。痛みにのた打ち回る男の左目には獣がゆっくりとその顎を開く光景だった。
死は恐ろしかった。だがそれは少し前自らが選ぼうとしたモノであった。しかし今この胸の鼓動、不快感は何であろうか?男に走馬灯に過去の情景が駆け巡り、そして知る。男にとって死とは理不尽から逃げるための己の選択であったと。今までなるべく社会のルールを守り、真面目に生きてきた―――その虚像に隠された我侭な、自己中心的な本質に男は驚いていた。つまり、自分は思い通りにならない世界からの脱却手段の一つを死としてとろうとしていただけなのだ。
さすれば今感じるこの感情は、死への恐怖等というものでは無い。理不尽に一方的に死を与えられることに対する恐怖であり、抗えない―――否、抗わない自己へ対する怒り、敵への怒りだ。死ぬのはいい、だがただ相手の愉悦の為に殺されるのは辛抱堪らない!
右手がシャベルの柄を掴む。たとえ殺されるとしても抵抗しないのであれば先に心が死ぬ。思えば自らの人生に幕を引こうとしたのも心が磨耗してしまう前に潔く死んでやろうと思ったからではないのか?
震えはもう止まっていた。今男は感謝していた、目の前の獣とこの異界へと導いてくれた何かに。ただあの時穴の底で死んでいたならば何故自分が死を選んだのか、そして自分の本性さえ知らぬまま死んでいただろう。体に力がみなぎる、酷い興奮状態のようだ、頭はフラフラするが傷の痛みは感じない。恐怖などとうに失せた―――悟る。とどのつまり、死ねばいいのだ、後は心の赴くまま野となれ山となれ。
渾身の力でシャベルの剣を、獣の口で自己主張しているでかい牙に叩き付ける―――コンッ、という存外に軽い音がして獣の大牙は折れた。予想外の出来事にシャベルを見れば返り血で剣先が黒くなっている。獣は声にならない叫びを上げ後ろへ大きく跳んで逃げると痛みのためか頭を激しく振り回す。
意味のある言葉ではない、ただ本能のまま出た叫びを上げ吶喊する。それを止めんと振り回す獣の爪が太ももを裂く、だが気にした振りも無く獣の口にシャベルを突きこむ。牙のかけらを撒き散らしながら暴れる獣の足が男の体に裂傷を作っていくが気にも留めず男はシャベルで獣の頭を滅多打ちにしていく、ただ振り回すだけでなく傷を抉る様に骨を砕くように執拗に攻める。
獣の血はその体毛よりも黒く墨汁のようだ、真っ黒く染まったシャベルの一撃が獣のルビーのような瞳を叩き割ると獣はついに動かなくなりただ後は四肢を痙攣させた。
返り血を浴び黒く染まった男は、ふとあの体に纏わりついてきたあの感覚が、目の前の動かなくなった獣からまるで濁流のように流れ込んでくるのがわかった。それは返り血を浴びた皮膚を酷く熱く感じさせる。それが収まると、男が感じたものは強烈な飢餓感であった。
男は食料といえるものをほぼ持っていなかったが、目の前にはたった今絞めたての肉が存在していた。最もその血のように黒い肉は売られている精肉とは似ても似つかぬものであったが、それでも抑えきれない衝動に男は獣の傷口に貪り付いた。
それは決して良い味とはいえなかったが満たされる食欲に男は夢中になっていた。毛皮が邪魔になればシースまで返り血で黒く染まったブッシュナイフで引き千切った。喉が渇けば血を啜り、骨の髄をしゃぶる為にシャベルの柄を槌代わりにした。満たされる空腹と湧き上がる力、それは燃えるように、痛いほど熱く身を焦がすものであった。