(八)
『お前は、他に追うべきものがあるだろう……!』
藤井の言葉を繰り返し考える騎道。ぼんやりとした視界の中で、4限目の数学の授業は始まった。
騎道を困惑させることは、もう一つある。今朝も、凄雀は彩子を家から学園まで、車で送ってきた。
早起きをして家の前で待ち構えていた騎道の目前で、さらうようにして車に彩子を放り込み、走り去った。
……凄雀が何を考えているのかが掴めない。追及すべきことが多過ぎて、情けなくも騎道は立ち往生していた。
「!」
騎道の、授業を無視した思考の流れは、突如停止した。
ガタンと、彼は椅子を引いて、立ち上がっていた。
「……どうした? 騎道?」
「! すみません、僕……、用を忘れていました……。
代行が……、学園長に呼ばれていたので、失礼します」
一方的に言ってのけて、騎道は逃げるように教室を出た。
人目につく正門を迂回して、越えられそうな低い壁を探した。なんなく学園外に出た騎道は、当てもなく走り出す。
「……、さっきの感覚……、なんだろう……。
誰かが、どこかで力を使った……。すぐに消えたけど。
代行以外にこの街で、あんな精神波を放てる人間はいないのに……」
代行以外には、騎道か……。亡くなった久瀬光輝の二人が上げられる。けれど光輝は、この世には居ない。
「なんの為にだろ? ……まだ、こんな真似ができるほど体は回復してないはずなのに」
走るスピードを緩めながら、騎道は溜め息をついた。
「無茶をして、療養期間が長引かなきゃいいけど……」
……わらわの、赤子を……。
……取り戻して下され……、かわいいお子を……。
隆都様……。お戻し下さい……。
……おこうは、あの子が居てくれさえすればよい……。
何も要りませぬ……。絹も錦も、お櫛も、新しい扇も何もかも……。
……何もかもいらぬ……。すべて失せてしまうがいい。
一番疎ましいのは、この髪……。
こんなもの……、無ければよいのじゃ……!
……隆都様? おこうは、お聞きしました。
死んで生まれた子は、黒々とした、隆都様にそっくりな髪をもっていたそうな……。
それを聞いて、こうは安堵いたしました……。
「……何も要らぬ……、赤子だけが……。わらわの……!
わらわの全てじゃ……!」
目を半ば閉じて、沙織は脈絡のないことばかりを言い続けている。従者である淕峨は、そっと彼女を長椅子に横たえた。この状態は、まだ序章でしかない。
この後、激しい苦悶と、錯乱が始まった。異常なまでの腕力を発揮し、押さえ付けようとする淕峨を振り払う。血が呼び覚ます御鷹姫であった記憶は、壮絶なものだった。
この変化が緩やかならば、車で慈円寺の住職の元へ運ぶこともできる。住職の祈祷を受け、多少なりとも好転はするが、沙織に潜む邪悪と住職の放つ聖の闘いは、正視に耐えない苦闘である。沙織の衰弱は著しいものがあった。
今度の錯乱は、急激で、手のつけようがなかった。
せめて、舌を噛み切らぬよう、自分のネクタイを噛ませるのが、淕峨の精一杯だった。暴れる両手を後ろ手に縛ることは、従者の心を引き裂いて余りあった。
「……そのまま、命尽きるまで放っておくつもりか?」
呆然とカーペットに座り込んでいた淕峨は、冷酷な言葉をかけた男を振り返った。知らぬ顔ではないが、彼等のマンションに招いた覚えのない男。凄雀遼然がそこに居た。
「お前たちには、他に手段はないだろうが……」
凄雀が史料館からの帰り道に立ち寄ったことを、淕峨が知るよしもない。沙織の変容を予調し、車に乗せた神具が『騒いだ』のだ。それは凄雀だけが悟れる気配だった。
「どうして、あなたがここに……?」
リビングの入り口に立つ凄雀は、もう一人の人間の登場を受け入れるように移動し、明るいアイボリーの壁のもたれた。くっと、眉尻が上がる。
「……来たか」
ぼっと、沙織の傍らに白い光が凝縮された。そこに、もう一人の青年が姿を現す。白っぽい金髪、地味とはいえない刺繍を背負った、レザーブルゾン。
「……久瀬…光輝……、生きていたのか……」
掠れた淕峨の呟きに、ジョークのように男は言い返す。
「悪かったな」
沈んだ声が、謝罪にも聞き取れた。
光輝は横目使いで、彼に向き直る凄雀を見た。凄雀の表情は、険しく整った顔立ちに似合いの凄絶な微笑。これ以上無い、歓迎の笑みだった。
計ったように好対照な、光輝の苦り切った顔。だが、すぐに沙織に気遣う、焦りを滲ませた。
「この後に及んでだが、あんたに頼みがある」
「わかっている。……すでに手は打った」
平坦な声音が、耳を疑うほど光輝には柔らかく聞こえた。
「すまん……」
一言残し、光輝は沙織に向いた。彼女へ延ばした両腕が、白銀の麟粉を撒き散らしたかのように、柔らかい光を生む。
その腕で、光輝は沙織を抱き起こし、包み込んだ。
「これだけ図々しい貴様でも、あいつと顔を合わせる気にはならんらしいな」
凄雀は目を閉じ、壁に体を預けながら言った。
「奴は一生ガキのままだからな……。俺とはそりが合わん」
「それは騎道だけじゃないだろう?」
「……そーだ。あんたもだ」
淕峨は、憎まれ口を叩き続ける光輝と、受けて立つ凄雀、静まってゆく沙織を見比べた。複雑な感情が湧いてくる。
沙織が回復してくれるのはいい。だが、二人の男たちは、このまま黙って引き取りはしまい。
駿河秀一は、今日も大幅遅刻だった。彼の場合、モデル稼業の為という立派な理由があるので、誰にとがめられることもないが、駿河本人の機嫌は最悪だった。
「あれほど、朝の早い仕事は入れるなって言ってるのに。
間瀬田の奴、最近ガンガン働かせてくれて」
有能なマネージャー兼運転手を恨みつつ、駿河は近道を急いだ。その間瀬田を踏み台にして、低めの壁を乗り越えてきたのだ。寝不足の頬をばしばし叩きながら、剣道部や柔道部、空手部が使用している、武道場代わりの小体育館を迂回する。渡り廊下を抜け、階段を駆け上がる途中で、駿河は目を凝らした。
「彩子……。あいつ、こんな時間に何してるんだ……?」
4限目が始まったばかりのはずだった。駿河が今抜けてきた、小体育館に続く渡り廊下を、彩子と二人の男子生徒が歩いている。背を向けているので表情は見えないが、男子生徒の一人が先に立ち、案内されている、といった感じ。
妙な時間で、妙な場所に居るが、彩子に警戒している素振りはうかがえなかった。
駿河はそのまま、自分の教室に向かった。少し思案して、隣の2Bの前で足を止める。そっと、教室の後ろのドアを細く開ける。中が見渡せるぎりぎりのところまで、引く。
少し、駿河は安心した。彩子の席は空。騎道も姿がない。
例え彩子に何が起きても、騎道が側に居るはずだ。
気を回して損をしたぜ……。
ドアを閉める寸前で、きょろきょろとしていた三橋と目が合った。向こうは何か言いたそうだったが、駿河に語ることはない。音もなく、ドアをスライドさせた。
「ほんとに、彩子は学園祭実行委員に呼び出されたのか?」
大胆な三橋の行動に、小夜は青くなった。
公式の解析に手間取っている教師を尻目に、クラスの最後尾列に座る、彼女の席まで忍んできたのだ。
「ええ。休み時間に廊下で、執行部の磯崎さんに学園祭のことで話しがあるって……」
執行部の磯崎とは、現在運動部主幹の三年生だ。主幹の地位に居る以上、秋津静磨の腹心といってもいい男だが。
……それが、三橋には気にかかる。使い走りのような真似を、磯崎のような人間がすることに……。
そして、授業中だというのに、顔をのぞかせた駿河。
「……三橋くんっ。早く席に戻ったら……?」
小夜が、大いに焦っている。こくんと、うなずいて、三橋は立ち上がった。
「先生! 俺、用事を思い出しました。代行に呼び出し食ってたの、忘れてて」
呆然と見送るのは、クラス全員だった。
……磯崎って、剣道部だったよな……。
三橋が思い浮かんだのは、そんなことだった。
……あいつら、小体育館に何の用があるんだ?
駿河が気に掛かるのは、それだけだった。
二人は結局、同じ場所を目指して先を急いでいた。
教室へは入らず、駿河は小体育館に引き返した。
ぴったりと閉ざされた両開きの扉。中は、テニスコート一面分程度の剣道場、左手の短い廊下を抜けると、畳敷きの柔道、空手道場。一番奥に防具室兼更衣室がある。
変に張り詰めた気分を、駿河は深呼吸でほぐす。
ノブに手をかけ、一気に引く。
「…………。失礼しましたっ……!」
ドアを力任せに閉め、駿河はさっさとそこを逃げ出した。
中から、女子生徒たちの甲高い声が追いかけてくる。
……女子だけで、新体操の授業中だった。
十分恥をかいたが、目の保養にはなった……。
脱力して、日当たりのいい渡り廊下に座り込むと。すっと短い影が、駿河の目前に落ちた。
「なーにしてんの、すんちゃん。
……今度はこいつかよ……。口には出せない嘆きだった。
「彩子、見なかった?」
バカ素直に、駿河は顔を跳ね上げてしまった。
「どこに行ったんだ? 知ってるんだろ?」
尋ねる三橋の表情は、しごくのんびりしている。
「あいつ、執行部の磯崎に呼び出された。……騎道もどこ飛んでったか、わかんねーし……」
うん、と伸びなどしてくれる……。駿河は、青くなっているというのに。
「俺が探す。お前は授業に戻れよ」
駿河は立ち上がった。三橋が道を塞ぐ。
「そうはいかねーよ。あんまり、楽観したくないんだ。
秋津が絡んでるなら、あの野郎、何するかわかんないぜ」
「? 秋津会長が……?」
「最近のあいつの目付き。切れかけてる人間の目だ……。
俺にはわかる。静磨様は、昔はあんな目はしてなかった」
三橋は、驚いている駿河から目を逸らし言った。
「嫌な感じだと思わないか? 今年の夏からこっち。学園中が浮き足立ってて、ギスギスしてる。
……上坂さんが生きててくれたら、秋津もまだ余裕あったのかな、って気もするけどさ」