(七)
「三橋は、まだ居たかい?」
教室を出た彩子を、三年生男子が呼び止めた。ええ、と答えると、彼は2Bのドアを開け、三橋を呼び出した。
何事か耳打ちされ、三橋は表情を渋くした。
二人が連れ立っていくのかと思ったが、教室を出ていった三橋は三年生とは別の方向に歩いていった。
「……なんだか、浮かない顔……」
彩子は気にかかった。さっき、さりげなく『二人揃って送ってやるよ』と言った三橋は、いつも通り人のいい顔をしていた。身構えかけた彩子は、それに救われたのだ。
今朝は気まずかったけれど、今の三橋にはそれがない。
彩子の中でもつかえが解けて、自然に言葉が交わせる気がしていた。ほっとできる。ひどく嬉しい。
これが、騎道が会長戦に出馬することになって、慌しいせいなら。この事態に感謝したい。起きたことを忘れて、彼が変わらずにいてくれるなら、伸び伸びと動き回る姿が見られるなら。今が一番いい時かもしれない。
「三橋君、居る?」
廊下を向かってきたのは、青木園子だった。
「居ないわ。たった今、呼び出されてどこかに行ったから」
なら、と、口を開きかけた園子を遮って。
「聞いたわよ、駿河から。グラビア写真集ですって?」
「……忘れてた。駿河君って、彩子に弱いのよね……」
物心ついた頃からの幼友達で、いじめっ子から彩子に庇ってもらった負い目有り。が、現在は美形、趣味は喧嘩という駿河の過去だった。一転して、園子は及び腰になった。
「そんなに怖い目しないでよっ。この企画は当たるんだから。これで、学園祭での勝利はうちの2Dがもらうわよ」
「……売上金額でポイントを稼ぐってことね」
学園祭は各クラス、各イベント対抗という趣向をとっている。売上、観客動員数、審査委員の評価、全学園生徒による総合評価の分野で、ポイント換算されて、勝敗を決める。
「だからって、他のクラスの人間を使う? そこまでやる?
バカ素直に引き受ける騎道も騎道だけど」
「これは取り引きなの。時効だから白状するけど。去年の春の事件で何があったのか、その情報提供と引き換えたの。
まぁ、グラビアだって条件は伏せましたけど」
「……やっぱり、後ろめたいことしてるんじゃない!
あたしをダシにするのはやめなさいって……!」
はた、と彩子は気付いた。……それって、あたしの為……?
「騎道君だけじゃないもん。秋津静磨会長とのタイアップで両A面仕様フルカラーなのっ。
稜学で一、二を争う美形を配した必勝の布陣よ。彼等がここで会したのは天の配剤! 逃す手は無いわ!!」
「…………。ほんとに最強だわ……」
青木園子。自棄になって、力を込めている。
……園子も、彩子の怒りが怖い人間の一人だった。
「会長選出馬で話題性も鰻登りに高まってくれるしね。
三橋君に伝えておいて? D・Fも騎道全面支持するわ」
「……あんたって、ホントにあざとい奴」
「断っておくけど、売上の為じゃないの。あたしの気持ちよ。騎道支援、潰せ裏取引きの大屋は。
大体、うちの気質を考えると、煽ればそれだけで票が得られるとは今回、思ってないのよ。逆にまずいパターンが出て、さめちゃって投票率が下がる可能性もあるね。
……それが一番怖いな。蓋を開けたら、稜学史上最低の投票率だったりすると、秋津会長の顔も潰れるしね。
たとえ勝っても、三橋君、騎道君には汚点になるよ」
もう一つ、青木は不安材料をつけ加えた。
「最低のラインで当選した人間を、代行が認めるかしらね」
園子が姿を消して、一人残った彩子は、その場に立ち尽くしてしまった。それでは意味がないのだ。闘う意味が。
背後から、ぞろぞろと三橋を除く幹部たちが教室を出てきた。場所を変えて、会議に入るつもりなのだ。
「騎道……」
呼び止めてみたが、彩子は何を言っていいかわからなかった。気持ちは伝わったらしい。騎道は足を止めた。
「できるところまで、やってみるよ。……みんなのパワーに後押しされてるだけな気がするけど。僕はここに居たい」
また彩子は、騎道に変化を見た。少しずつ彼は、逞しさを加えている。一歩引いて眺めるのではなく、顔を上げて、前に出て。……素直で純粋なだけではなくなった瞳が、彩子には直視できないくらい眩しかった。
学園長室の三橋は、退学勧告の話しを蒸し返すような、ばかげた真似はしなかった。
執務卓についた凄雀の前で、堂々と横柄な態度を貫いた。
「……行きますよ。12月のコカ・コーラ・J・リーグを最後に、日本を出ます」
「それまでに、すべてを精算できるのか」
「……あんたが、余計な横槍を入れさえしなければね……!」
すでに、学園長代行の肩書きを、三橋は失念している。
「隋分、意志は堅いようだな。
よろしい。君の意向は、全面的に支援しよう。
私の理念の範囲内でというところだが」
「辞めてくれるのが一番いい……。
目障りなんだよ、部外者は…………!」
「私が、ここを離れたら……」
薄く開いた瞳が、すっと、ここではない別のものを眺めるように揺れた。
「何だよ……」
その瞳の深遠なひらめきに、三橋は息を飲んだ。
「……いや。私は代行として、学園を守る義務がある。
そういうことだよ。凄雀家の長男としてね」
肩書きではなく、個人の立場を言い訳に選んだ凄雀。
意味するところは、三橋には計りかねた。だが、この男にも、一人の男として守りたいものがある。
それ以上を読み取ろうとしたが、冷然とした容貌が一切の感情を断ち切っていた。
「どうぞ。こちらが、お預かりしている神具です」
広々とした館長室へ、非常に慎重に、その二つの品は運ばれた。二人の係員がそれぞれ一つずつ捧げ、客用のテーブルに並べ、ソファに掛けた館長の背後に並んで控えた。
ここは、秦野山中腹にある歴史史料館である。
学園長である父、彰悟からの依頼を受けて、白楼祭に使用する神具を引き受けに、凄雀は出向いてきた。
「中を改めても、構いませんか?」
承諾し、初老で痩せ型な館長は、白い手袋を凄雀に渡した。係員の一人が窓に歩み寄り、正午近くの陽射しをブラインドを落として遮った。
凄雀の手前には、幅40センチほどの桐の細長い箱がある。
こちらは、白楼祭の主神にして鎮魂の舞が手向けられる女神白楼后、生前の名を御鷹姫が所持した品である。
白楼閣と呼ばれた屋敷と共に、彼女の所持品は炎上し、この檜扇が、唯一の遺品とも伝えられている。
館長は、保存の状態もよく、非常に手の込んだ見事な扇だと、我が事のように凄雀に自慢した。
だが、最初に凄雀が手にしたのは、並んで置かれた、総刺繍で覆われた細長い布包み。持ち上げると、ずっしりとした鋼鉄の重みが手にかかる。
「そちらは、六台藩主隆弘殿のご遺品です」
しゅるりと紐を解き、凄雀は布袋をテーブルに振るい落とした。水平にした柄に右手をかける。そこに、きらきらと輝く金の絹糸が三筋、編み込まれているのが目に入る。
細く、魅惑的な輝きが、金糸にはある。
凄雀の仕種、刀身を検分する視線の鋭さに、館長は安心していた。どうやら、凄雀には剣術の心得がある。それも真剣の扱いに慣れている。鍛えられた体躯には、十分相応しい趣味であると、赤の他人ながら満足していた。
と。館長も含めた、係員が真っ青になる事態が起きる。
無言で。凄雀が右手を返す。
逆手に柄を握ったまま、凄雀は真剣を鞘走らせる。
「!」
一気に振り下ろした先は、扇が納められた桐の箱。
覆い被さる姿勢で、鞘を握った左手を刀と交錯させ峰を支えた。
「……なにを……!」
館長の目の前で、ぎらりと油切ぎる刀身が制止した。
切っ先に目をやると。髪一重の隙間を残し、箱には傷一つなかった。
凄雀は、冷淡な頬で身動ぎもしない。意に満たない顔で、いつまでも扇を見下していた。
静磨は、狼狽した。ふいに彼の体を包んだ闇。出現した、忌まわしい気配に、足を止め壁に左手をついた。
なめらかな白壁の感触は、確かに旧校舎の廊下だった。
「まだか……? 早よう、あの娘を……。
……あの女が、さまよいだす前に、速く……!」
すがりつく女の気配。気高さをかなぐり捨てた女神は、ただの愚かな女でしかない。
「あの女とは誰のことだ? まだ他に、お前の仲間が居るのか!?」
「いや……。仲間などではない。……あれは、どんな手を使っても消せぬ者。この私にかしずかぬ者……。
邪魔立てされては、お前たち兄弟にも不都合となろうぞ……。速く、あの娘を手に入れよ……。速く……!」
渇望する生々しい感情に、静磨は微かに笑った。
「お前は、存在することが楽しいだろう……?
……こんなにも自分の欲望を、自由に放てる……」
闇が静かに身を縮めていった。誰の姿もないその場で、静磨は呟いた。
「人の皮を被っているだけで、すべてに縛られる生者に比べれば、なんと幸福な。……どれほど、気楽な……」
白い壁で火をもみ消し、静磨は煙草を窓の外に投げ捨てた。人気のない旧校舎は、息抜きには好都合だった。
騎道は、一年生たちの教室が集まる西棟から、自分の教室へと足を向けた。無駄だと、わかってはいたが、数磨の在席する1年F組へ顔を出してきたのだ。
数磨は今日から、無期限で欠席するのだという。理由は不明。元々、数磨は体が弱く、欠席は常であったので、気にかけているクラスメイトはいないようだった。
二つの棟を繋ぐ、中二階の渡り廊下に騎道は差し掛かった。廊下の中央の辺りに、二人の女子生徒が佇んでいた。
騎道へ真っ直ぐ体を向けたのは、松川蛍子。
松川の背後で、窓の外を眺めるのは、藤井香瑠だった。
白い肌が、正午に近い陽射しを浴びて、さらに眩しかった。だが近寄ると、形のよい頬が、実は緊張で張り詰めていることが分かる。
精神の緊迫の激しさが、言葉として騎道に打ち掛かった。
「お前はなぜ、このようなところでウロウロとしている!?」
騎道は咄嗟に、数磨のことだと考えた。だが。
「秋津数磨を追い回したところで、どうにでもなるまい!」
まったく別のことを問われて、騎道は青ざめた。
「藤井さん……」
「……お前は、他に追うべきものがある。
他に成すべきことがある……!」
こんな場所で叱責を続ける藤井に、騎道は姉の沙織を重ねて見ていた。高貴なる姫君のようにたおやかな素振りの中に、彼女たちは猛々しい獣を隠している。どちらかといえば、その野生の方が美しさは強く、無垢でもあった。
「早く行け……! これ以上、その惚けた顔を晒すな!」
苛立ちに追いたてられて、騎道は足早に行き過ぎる。
藤井がなぜ、こんなにも性急に昂るのか、騎道には心辺りは無かった。
騎道をやり過ごし、藤井はこらえていたものを解放した。
松川が、背後から藤井の肩を支えた。
大きく肩で息をつき、気丈さが、自分の中で崩れてゆくのを、藤井は味わった。
「……変わった……、この学園の空気が……。
ここへ現れ出ようとしている者が居る……。
凶気……。それに、血を呼ぶ…殺気だ……」
予感が、藤井の揺ぎなさを根底が掬った。
藤井が持つ占術の確かさ、濃やかに巡らせた策謀の糸、一途にひた隠す想い。それらをたやすく無効にできる、存在を察知したのだ。皮肉にも、藤井の持つ高度な予見能力によって。ふいに、場も憚らず声を上げて泣き崩れた。
「あざみ様……」
「手遅れか、私のやっていることは期を逸したとでも……!」
「どうぞ、お気を安らかに……」
藤井を支え、松川は優しく囁いた。
「松川……、私を学園から連れ出してくれ……」
「はい」
心強く受け止め、歩く力も弱った藤井の腕を自分の肩に回した。ふわりと、藤井の絹糸のような黒髪が、松川の頬に触れてくる。その下で、藤井は低い声でつぶやいた。
「……すまぬな。……女のお前の、肩を借りるなど」
はっと、松川は動きを止めた。静かに、彼女は笑う。
「奇妙なことを仰せられる。
この蛍峨、幼少より男のように育てられました。女の姿は、仮のものと思うております」
「……。おかしいな。……私も、同じことを考えてきた」
本来なら、香瑠は藤井の家の長男と呼ばれる身だった。女系重徴の家風により、二女として育てられた生き様に、香瑠は何の不満があるわけではないが。気の塞ぐ時は、歴然とした違いは、さらに心を滅入らせる。
こんな風に、力及ばぬと思い知らされた時などは、すべてが最初から間違っているのではないかと、疑ってしまう。
「どうぞ。たおやかな姫君として、お甘え下さい」
くすりと、藤は微笑む。その下で、今少し偽りの性であることに甘えていようと、自分を許す藤井であった。