(四)
藤井と別れ、正門前に回された秋津家の専用車へと数磨は急いだ。車を待たせすぎては、兄が不審に思うだろう。
頭脳明晰な兄の方が、家人の信頼は高いのだ。執行部の業務があるため、いつも別々に帰宅しているが、数磨の行動は逐一、運転手から兄に告げられているはずだった。
なのに。その兄本人が、車の見える正門脇に佇んでいた。
貴人然とした強い自制心を伺わせる静磨の顔に、険しい陰りがあった。数磨は話しかけられる前に体がすくんだ。
「なぜ、藤井と会っている?」
「! ……それは……」
やはり自分は未熟だ。兄静磨を欺けると思うことからして愚かだと、数磨は頭を殴られたようなショックを受けた。
学園内には、静磨の手足として動く者が居る。
表立って、静磨が派手に指図することのない分、常に、その存在は忘れられたようにひっそりとしていた。
しかし、その目と耳は眠ってなどいない。数磨が後継者に選ばれたことによって、その機能は重要性を帯び、数磨に一番近い静磨に、より強い統制力が集中したとも言えた。
「藤井家の人間は得体の知れない力を持っている。
あの藤井香瑠は一番の使い手だ。悟られては、すべてがふいになるというのに、それがわからないのか……!」
「ごめんなさい、兄さん……」
兄の叱責を買い、わなわなと震え出す唇を押さえ切れず、数磨はそれだけ言った。
静磨の言葉以上の苛立ちが、数磨の揺れやすい鋭敏な感情を打ち据えていた。静磨の愛情を失うことは、数磨には太陽の光を閉ざされるのと同じこと。暗闇で寒さに震え、息絶えるしかないのに。
「おやおや。兄弟で仲違いとは、めずらしいことですな」
「……数磨。車で家に帰りなさい」
緊張で肩を強張らせたまま、数磨は静磨の言葉に従った。
ふいに現れた篠屋には、ほんの少しだけ、怯えた視線を当てた。篠屋はそんな数磨に、穏やかにうなずいた。
「静磨君。私も残念ですよ。次期総領は君が継ぐのだとばかり、思っていましたから」
「私は、秋津家の礎となれるなら、いかなる地位でも嬉しく思っています」
大袈裟に片手を振り、篠屋は驚嘆した。
「君らしい心がけだ。やはり、君ほどの頭脳、知力をもつものはそうはいない。次席に甘んじるとは、非常に惜しい」
「やむをえません。……ご存知の通り、そうあって当然なほど、この手を汚した身です」
「さて、どんな謎掛けですかな? 私には計りかねますが」
静磨は逸らした視線を元に戻し、すこぶる上品で清潔感のある初老の紳士、篠屋教頭を黙って見返した。
白い頭髪と細身な三つ釦のスーツ。純白のカラーには、秋色のスーツに合わせたシルクのタイが結ばれている。
「本心は、気落ちなさったのではないですかな。この度の後継者決定は」
見透かされて、静磨が向けた鋭い険は消え入った。
「このところ、様子がおかしいと心配していたんですよ。
今も、大切な数磨君を怒鳴りつけるなど」
篠屋は、声を落として慰めた。
「お気になされるな。……あなたには、あなたに相応しい力が、じきに手に入るでしょうから」
「……私に、そんなつもりなど……」
「ええ、ええ。承知しています。君は、数磨君を最も大切に考えているのでしたな。たった一人の弟だ。その上、彼はすべてを賭してでも主語すべき次期総領の地位にある。
……秋津の名を汚すような行動は、ますます慎まなければなりませんな」
静磨は篠屋の意図を飲み込み、ギラリと瞳を怒らせた。
……まだこれ以上、縛り付けようというのだ。
望み通り、余計な真似をせぬように。兄統磨がとった、愚かな二の舞いを踏まぬよう……!
燃え立つ衝動を受けても、篠屋の表情は変わらずにいた。
その静かな面差しは、張り付けた能面じみて、随分以前から魂を失っているのだ。
「! 数磨?」
静磨はいぶかしんだ。いつの間にか、数磨が引き返してそこにいた。さきほどとは打って変わって、怯えた気弱さが消えている。半ば瞼を伏せた顔立ちは土気色。語り出した声は、喉の奥で籠もったように低く枯れた、あの……。
「……藤井のことなれば、気に病むことはない。
あれは餌だ。さかしくも策を弄しているつもりのようだが、充分に利用できようぞ……」
あの、忌まわしい声音が、数磨の唇を通して流れ出す。
静磨は拳を握り締めた。
「だからといって、数磨をこれ以上利用するのはやめろ!
仮でも器をなくして困るのは、お前の方だろう……!」
鬱積していたものを吐き出して、静磨はふいに口を閉ざした。周囲には、数少なくなったとはいえ、正門から下校してゆく学生たちがいる。目を見張って振り返る彼等の視線が、静磨の頭を現実に否応無く引き戻した。
フッと、数磨は頬を歪ませた。
「仲睦まじいことよ。お前の弟想いのおかげで、すべてが助かっている」
言うなり、数磨の頭はこくりと前に倒れた。
駆け寄ろうとした静磨は、瞬時に暗転した周囲に怯んだ。黒々とした澱んだ闇に、彼等だけが包まれている。
学生たちは誰一人、異変に気付く者はなかった。
禍々しい冷気が、足元から膝まで昇ってくる。頭を垂れた数磨の背後から、うごめく影が立ち昇る。
「わらわも、この姿は窮屈じゃ……」
今度は、女の声を使った。数磨から抜け出た影が静磨に向き直る。
「では、そちらの手筈を聞こうか。娘は手に入れてくれたのだろうな」
「……。まだだ。邪魔が多い」
女は小娘のように、くすくすと笑い出した。
「そちほどの偉丈夫が、おなご一人を意のままにできぬとは。片腹の痛いことよ」
影はねだるように体をくねらせた。
「はよう虜にしてもらたいのぉ。
そちは隆都殿の匂いが微かにいたす。
誠の武家の棟梁の器よ……。
臆するな。似合いの一対となるだろう……。
……欲しいと想うであろう? あの迸る生気を」
静磨は膝を付き、直立したまま失神している数磨の頭を起こしてやった。血色の悪いのは同じだが、異様な土気色は消えている。そっと、右手で数磨の頬を包む。
すっと、辺りが色彩を取り戻した。
陽射しの眩しさに瞬きを繰り返しながら、篠屋は言った。
「最近、昏倒の回数が頻繁になりましたな」
「……。こればかりは、どうにも私の手に負えません」
数磨の体は冷え切っていた。いつものこと、だった。
寝かしさけていれば、じきに元どおりになって目を覚ますが、それを待つ間は、肉親にとっては苦痛以外の何ものでもない。
忌まわしい存在が数磨を支配し、脆弱な肉体を、数磨ではないものにしてしまう。その恐ろしさは、目の辺りにした者でなければわかるまい。
その絶望を味わう時、静磨は唇を噛み締める。逝った長兄、統磨も、まったく同じ無力感に苛まれたのだと思うと、それも身の置き所を失うほど、静磨には辛かった。
「我が家へ、お預かりいたしましょう。昨年の冬のように」
さらりと言ってのけた篠屋を、静磨は冷水を浴びたかのような目で見た。
「妙な気を起こし、目の届かぬ所へ行かれるよりは、その方が私も安心できます」
「……ご自由に。本家には、私がどうとでも取り繕います」
体を起こし、静磨は反応のない数磨を見下した。
ひどく、憔悴した陰りが静磨の中に巣くっていた。
立ち去ろうとした静磨の背に、女の声が追いかけた。
「騎道は、目障りだ……」
振り返りもせず、静磨はその場を離れてゆく。
冷ややかな静磨に、篠屋はますます残念と頭を振った。
「……仲のいい兄弟でしたのに……」
ぎくしゃくと、数磨が土気色の頬を篠屋に向けた。
「ふ……。仲違いして、弟を救う気を失ったとしても、あの者はもう逃れられぬ。
……ずいぶんと、我々に近くなっているぞ」
数磨の瞳が薄く見開かれた。奥には黒々とした邪悪の闇が澱んでいる。
「我々とは…………」
篠屋は怯えることもなく、闇色を見下し、くつくつと笑い出した。
「我々のごとき、魑魅魍魎のことですかな……?」
物穏やかなしぐさで、篠屋は数磨をうながし、2人は秋津の専用車へと乗り込んだ。篠屋は数磨をうながし、2人は秋津の専用車へと乗り込んだ。篠屋が告げる行き先は、彼の私邸。数磨の同意を得て、運転手は車を発進させた。




