(三)
生徒会室から自分の教室に戻ってきた三橋は、ドアを引こうとしていた手を止めた。
……中に、騎道も居るかもしれない……。
三橋をためらわせたのは、そんな考えだった。
騎道の態度が三橋には解せない。相変わらずの意志薄弱、他人任せ。こんな状況に追い込まれてもまだ、お人好しバカ素直を押し通そうとしている。
逡巡はすぐに破られた。中からドアが開き、女子生徒が二人出ていった。三橋に譲って開け放されたドアの向こうでは、目指す顔ぶれが各人勝手な席で談笑していた。
騎道の姿はない。少し、ほっとした。
辞めさせられようとしているのが誰なのか、これじゃわかんねーなと、自嘲気味に考えてしまう三橋だった。
「友田、和沢。東海、浜実、それら松茂も。
ちょっと顔貸してくれ」
三橋は5人の名前を呼んで、彼等が立ち上がるのを、ドアを押さえて待った。
「? 騎道と和沢をコンバートする気か?」
「今朝、音楽データとプレーヤーを渡しちまったぜ?」
東海に続いて、友田も言い返す。
「そっちの話しじゃない。
おまえらが、前から持ちかけられている話しだ」
「……よく気がついたな」
驚きながら、東海は漏らした。ひょいと彼は立ち上がる。続いて、浜実、和沢。友田。最後はゆったりと松茂。
「友田が教えてくれた。アイデアは悪くないと思うぜ」
先に歩き出した三橋を追う5人。てへへっと、悪びれる友田の後ろ頭を叩き、浜実が声を張り上げた。
「やっぱこいつが一番口が軽いよな。気をつけよーぜ」
残り4人に苦笑が漏れる。と、頭上から降ってくる、校内アナウンスに、彼等は真顔になった。
『選挙管理委員会からご連絡します』
「本日四時をもって、来年度執行部役員、及び議長、副議長、生徒会役員立候補の届け出を、すべて締め切ります、か」
先んじた友田に続いて、浜実が三橋に教えた。
「2Bからは、誰も出てないぜ」
「……だろうと思ってた」
5人分の視線を受けて、三橋はつぶやいた。
ひどく満足しながら、少しの明確な闘志をうかがわせながら。
三橋が精力的に動き回っている同じ時間。騎道は生徒指導室に呼び出され、狭山に退学勧告の経緯を問われていた。
込み入ったことを話せるわけもなく、狭山をすこし呆れさせたが、騎道は曖昧な態度を続け、じきに解放された。
生徒指導室を出て、食堂に向かう途中で、騎道は駿河と擦れ違った。
「意外な展開になったな。
学園長代行は、お前の味方じゃなかったのか?」
騎道は足を止めて、駿河と向かい合った。
「敵に回ったわけじゃないんです。怒らせてしまったから、僕の顔も見たくないんでしょう」
「三橋がやけにイラついてる。俺にまで噛み付いてきたぞ」
騎道は目を丸くした。それって立派なとばっちりだ。
窓外の中庭で人影が動いた。ぼんやり目で追うと、一冊の本を抱えた隠岐と、もう一人はおすおずとした物腰の秋津数磨だった。二人は何か話し込み、本を手渡された数磨は嬉しそうに何度もうなずいた。
「彼に、この件から手を引けと言われました。もう、これ以上は、必要ないと。
けれど、僕にとっては、この先が一番重要なんです」
話しが弾んでいるらしい二人は、実際の年齢で言えば同じ学年だった。飛び級した為に、隠岐は現在二年生だった。
「へえ。出来のいい騎道君が歯向かったわけか」
「……いいえ。出来が悪いくせに、反抗するからですよ」
窓に向いたまま、肩をすくめる騎道。
騎道と駿河に気付いた隠岐が、大きく手を振ってくる。
「あきらめが早いな。お前にしては」
うなずいてやる騎道に、隠岐は大喜びし、傍らの数磨は顔を曇らせた。ひどく対照的な二人に、騎道は胸が痛んだ。
「そういう状況なら、早いところ三橋に引導を渡してやった方がよくはないか?」
「……言おうと思ってるんです。けどあいつ、捨てられのがわかった子犬みたいな目をして。……どうしても」
「だけどな……」
騎道の弱気を見取って、駿河は言い切れなかった。
「未練はたっぷりあります。でも、引くべきに引かなければ、これ以上の報復を受けることになります。
……僕はそれが一番怖い。
顔を見たくないと意思表示される方が、気が楽です。
この街をウロウロするなと、直接行動に出られるよりは」
数磨と別れて隠岐は庭を迂回し、こちらに駆けて来る。
「そこまで義理立てしなきゃならない相手か?」
学園長代行である凄雀遼然は、表向きは騎道の後見人だが、肩書き通りの男とは駿河も受け止めてはいなかった。
こくりとうなずく騎道は、完全に諦めている。密かに嘆息して、駿河は話題を切り換えた。
「数磨のことは、隠岐に話さない方がいいな。
また、除け者にしてと、バレたら拗ねるだろうがな」
隠岐の守り役になってしまっている駿河は顔をしかめた。
「あれから、仲良くしてるんだよ。お前に引き合わせるまでは、パソ通の友程度だって言ってたが。
加納育を見て、隠岐の警戒感が解けたんだろうな。数字で解けないものも、世の中にはあるってことにさ」
「隠岐君は、何でも吸収しますからね」
廊下を子犬のように走ってくる隠岐に、騎道は軽く手を上げて、背を向けた。
「おい、お前と話したくてバカみたいに走ってるんだぜ?」
「すみません。数磨君を探してたんです。避けられてるらしくて、会えなかったんです。これから追いかけますから。
退学になったら、簡単には会えないですし」
秋津数磨。陰気に堕ちた白楼陣に深く関わっていると、騎道が目する異能者だった。不安定なサイキックが、数磨の内部には存在するらしい。
騎道を避けているというのなら、数磨も意識しはじめた後ろめたいことが存在するという証明になりかねない。
「彩子を、守れよ」
擦れ違いざま、隠岐には見えないよう駿河は囁いた。
「ええ。勿論」
「……言うようになったな」
駿河の呆れ声に、答えはなかった。
「……騎道さぁん……」
「逃げたわけじゃない。あいつもいろいろ忙しいんだよ」
息を切らして、情けない声を上げる隠岐に言い含める。
隠岐と別れた数磨は、本を抱いて逃げるように立ち去った。あの様子では、うまく捕まえられたかは疑問だ。
駿河の推察通り、騎道は数磨の姿を見失った。教室にまで出向いても、数磨は察知し擦れ違うのが落ちだった。そんな数磨の変わりようが、騎道には痛々しかった。
入院中、見舞いに来た数磨を、もっとよく見取っていれば良かった。後悔したが、あの時の数磨はひどく純真で、その上、事態をよく把握してはいなかった。
数磨に同情するあまり、冷静に判断を下せなかった騎道の落ち度でもあるが、優しいばかりの騎道にそれを望むのは無理というもの。この点では、彼も強く自戒した。
『誰かれ構わず同情するな……!』
幻の久瀬光輝の罵声が、騎道の耳に痛かった。
「数磨君。藤井さんの立ち稽古が始まったらしいんだ。
一緒に、旧講堂まで見学にいかないか?」
数磨がサイキック能力を駆使して逃れるなら、騎道もそれに習った。それだけのことで、たやすく騎道は数磨を待ち伏せることができた。力比べをするつもりはない。騎道はにっこりと笑いかけ、数磨の行く手をさりげなく塞いだ。
「……僕は、……」
立ち止まり、数磨は青ざめた顔を伏せた。
放課後に入ったので、学生カバンを手にしている。しかし、屋外ではあるが、正門はこちらの方向ではなかった。
あるのは旧講堂。クラブハウスのプレハブと花壇に挟まれた、この細い小道は、誰かに見咎められることなく、旧講堂に辿り着ける。
「勿論、こっそりね。いい場所を見つけたんだ」
数磨が、秋津家の次期後継者に据えられたことは、騎道の耳にも入っている。その秋津家の頂点に立つ者が、敵対する藤井家の者と関わるわけにはいかない。数磨の感情はどうあれ、表向きは覆わなければならない。
その為に裏道を選んだ。人目を避けた。
騎道は悪戯っぽく片目をつぶって、数磨を促した。
戸惑いながら、それでも後を追わずにいられなかった数磨の頬は、すこし赤く染まっていた。
そっと、数磨は騎道を盗み見た。
割れた窓ガラスの隙間から、背筋をぴんと張り伸ばして中を熱心に覗いている。
「奉納舞なんて初めて見るけど、なんだか、神々しいっていうよりは、人間臭いものなんだね」
そんな感想を騎道は漏らしたのだ。
数磨もうなずいた。舞はいくつかの段にわけてあるらしく、今日は同じ場面を舞手は繰り返し習練しているが、それだけなら、ひどく生々しい感情が読み取れる。
恋しさ。待ちわびる切なさ。絶望と微かな望み。
講堂の壇上に一人立つ、輝くばかりの藤井の優雅さが、そんな動きを一々に引き立てる。瞬きが惜しいほど、数磨も食い入って目に焼き付けた。
……もっと近くで、あの人を見ていたい。
もっと……。
ごくりと、数磨は息を飲み、焦る気持ちを沈めた。
騎道は中に目を奪われている。
「……ああした真剣な姿が一番、藤井さんはきれいだよね。人間ではなくなったみたいだ。
そう思うだろ? 数磨…君…………?」
同じように背伸びしていたはずの数磨は、そこにはいなかった。もちろん、辺りのどこにも姿はない。
「……あ…………、もう逃げられたのか……」
ほんとに、一つのことに気を取られると回りが完全に見えなくなる。
「……人ではなくなったように思えても、僕らは人間で、誰もがひどく弱いって。せめて伝えたかったな……」
次の出会いがあるかどうか。騎道は無いように思えて、気落ちした。今度会う時は、敵に回る可能性は大きいのだ。
騎道から足音を忍ばせ離れると、どこかで見守っていたらしい松川蛍子が数磨の前に姿を現した。
松川に導かれ、一息入れた藤井に引き合わされる。
しばらく言葉を交わし、数磨は幸福な緊張感に包まれた。
当然、彼を育ててきた家への、後ろめたい想いもある。
だがここでは、冷ややかな態度の松川も気を使ってくれる。藤井は、家同志の確執や何もかもを忘れたように、数磨に接してくれる。
数磨の目の前で、彼を見つめて楚々と笑う。
これが恋なのだと、気付ける間も数磨にはなかった。




