(二)
生徒玄関で内履きに履き替える騎道を、隠岐克馬は目敏く見付けた。
「騎道さんっ! 遅いじゃないですか、速く来て下さい!」
「あ、おはよう。隠岐君」
「何のんきなこと言ってるんですっ! 速くっ」
泣きそうな顔で、隠岐に叱り飛ばされた。騎道はわけがわからないまま引き摺られ、沖についていった。
下駄箱の林を抜けると、廊下には大勢の学生たちが掲示板のある壁面に向いて、たむろしている。
「?」
振り返り騎道に気付いた者から順に、彼等は口を閉ざし、身を引いてゆく。なくなく、人垣が割れた。
隠岐に押し出され、騎道が向き合った掲示板には、一枚、毛筆の文書が張り出されていた。
『2年B組 騎道若伴
右の者、本日付けを以って退学と処す』
達筆な楷書。学園長代行の署名の下の、朱印が鮮やかだった。
「心辺りはあるのか?」
人垣を別けて騎道の傍らに立ったのは三橋だった。
挑むような目で、張り紙を見据えている。
「こんな真似をされても、黙ってなくちゃならないようなことをお前はした覚えがあるのか!?」
「……いや。覚えはない」
記憶を照らすように、ゆっくりと騎道は答えた。
少なくとも、この学園の生徒として恥ずべき行動を取った覚えはない。不当な処遇という結論を出した。
三橋が動いた。半紙に伸びた腕を、騎道は押さえ付けた。
「なんで止める?」
「破いたら、今度はお前の立場が悪くなるだけだ」
「構やしねーよ。
このエセ学園長! 好き勝手してくれて……!」
振りほどこうとする三橋を、騎道はさらに押さえた。
「落ち着け三橋。挑発に乗るな。
お前がこれを破れば、処分する為の完璧な証拠ができる」
「! 上等だぜ……! 処分でもなんでも、出して……」
二人の目前で、白い半紙が掲示板から取り上げられた。丁寧に扱いながら、秋津静磨はもみ合う二人を見返した。
「どういうことなのか、学園長代行に問い合わせてみよう。学生の代表としてね」
騎道の緩んだ手を払い、三橋は秋津を不快な目で見た。
「それともこの件には、話し合いが済んでいるのかね?
この掲示には異論がないのかい?」
「どうなんだ?」
口を閉ざした騎道に、三橋は鋭く聞き返した。
「やめるなよ、騎道」
しんとしていた人波から、ふいに声が上がった。
「そーだ。そんな必要どこにもないぞ」
そっと騎道が見回すと、下駄箱にもたれて松茂と友田が二人、顔を合わせひそりと笑っている。
彼等のおかげで、その場の緊張が解けていった。
「そうですよ。騎道さん」
側にきていた隠岐も拳を握っている。次第に、ざわめきが広がった。二度、三度、騎道へ向けた声が上がる。
代行への不信が、教師全体への不満という大きなうねりに変わる前に、秋津は一同を沈め、代行に問い合わせるからと約束し解散させた。
一瞬、彼等学生たちの反応に、驚いた表情をみせた秋津だった。冷静な顔立ちを取り戻し、彼も教室へ引き取った。
「どういうつもりなんだ? おまえ、やめたいのか?
何とか言えよ」
三橋は、まだぼんやりとしている騎道の肩を揺すった。
「そうじゃない。少し、驚いて……」
眉を寄せた三橋に、騎道は苦笑しながら言った。
こんな形で報復が起きるとは思っていなかったのだ。
騎道は、こういった仕打ちがかなり応えることを思い知らされて、動揺していた。
学園の部外者に転落すること。それは、かなりの孤独感を騎道に与えた。彼が思っていた以上の強い衝撃だった。
「二人とも、もう予鈴が鳴るわよ?」
もう一人、この場に残っていた女子生徒。飛鷹彩子が、声を掛けた。
「いくぞ」
先に歩き出した三橋。
「心配すんな、彩子。あいつに好き勝手……」
軽く肩を叩こうとした三橋の手が、不自然に止まった。
宙ぶらりんな左手から、彩子は目を逸らしている。
すっと、その手で前髪をすきあげて、三橋は両手をズボンのポケットに入れ足を早めた。
ぎくしゃくとした二人に、騎道は目を奪われた。
「……何してるのよ。教室の場所まで忘れたの?」
騎道をにらみつけるけれど、彩子にさほどの迫力はない。
「……やめるなんて。……あたしは、嫌だから」
「うん……」
少し瞬きをした彩子は、気まずさを振り払い尋ねた。
「昨日のせい?」
騎道はうなずいた。
「彩子さん。今朝、学園長代行に送られたって?」
「え、ええ。……なんだかっ。あの人ににらまれると抵抗しきれないのよね。騎道の気持ちが少しわかったわっ」
固めた拳を、彩子は怒りでちょっと震わせた。
「今朝、変な夢を見ちゃって、気分が悪かったせいもあるのよ。……でなかったら、あんな横柄な男の言いなりになんてなるもんですかっ……!」
「夢って……?」
『覚えていていい?』と、彩子自身が尋ねたはずの夢か?
「金髪なんだけど袴姿の男の子が出てきて、変に懐かれてた気がするのよ……。騎道も居たわね。あんまりはっきり思い出せないけど。あと……、青と赤の炎が螺旋を描いて踊っていて、きれいだったような気も……」
綺麗だったって……、あれが……?
真紅の炎は現実的な攻撃ではなかった。騎道の深層意識の迷いが、不安定な夢の力場では鏡像のように、真紅の悪意と化して騎道と向かい合い問うたのだ。闘えるのか、と。
自分の影のような代物だが、克服するにはかなり精神的に滅入った。それほど、行き当たった真実は重く、感情的に受け入れることはたやすくなかったのだ。
その場に居た彩子には、悪意の存在を間接的に認識させたつもりだったが。
……それって、記憶を操作したの、僕じゃない……。
内心で、激しくうろたえる騎道だった。
彩子の中に、受け入れたくないという衝動があるのか。
そんな考えに至って、騎道の心はすっと冷えた。
……認めなくないんだ……。
同時に、夢という曖昧なもので伝えようとした自分を、騎道は叱責したい気分になっていた。いずれ直接、すべてを語らなければならない。できる限り早くに。
「家を追い出されたんですって? それだけ、言われたわ」
凄雀が上機嫌だったことは、言い出せない彩子だった。
「それなら大丈夫。学園長夫人の好意で、住む家を世話してもらいましたから」
二人は、廊下を近付いてくる、ぱたりぱたりとサンダルを引き摺る音に気を引かれた。
「やっぱり。まだここに居たのか」
歩み寄ってきたのは2Bの担任狭山だった。彼は、片方の眉を寄るという独特の表情を作って騎道を見た。
「先生。僕は、どうしたらいいんでしょうか?」
太い眉根を寄せて、溜め息混じりに狭山は言い返した。
「……お前、もう少し神経を図太くせんといかんな……」
「???」
彩子を振り返ると、呆れて額を押さえてなどいる。
「秋津会長が申し入れてきた。事実関係を問い合わせてみるので、退学の件はしばらく保留にしてほしいとな。
代行からの説明もないので、我々としても対応に困っているところだ。ひとまず秋津会長の申し入れを受けて、おまえの処遇がはっきりするまで、教師陣としてはいままで通り、本学園生徒として扱うと申し合わせた。わかったな」
大きな手で肩を叩かれる前に、騎道は頭を下げた。
「……早く教室に戻れ。二人とも廊下は走るなよ」
昼休みも十分に過ぎた時間を見計らって、三橋は生徒会室へ出向いた。一人きり。目指す相手も一人で、日当たりのいい一角でファイルを広げ眺めている。
「どうなんだ? エセ学園長とは話しをつけたのか?」
秋津はページを捲りながら、静かに首を振った。
「ハン。さしもの秋津様でも、お手上げってことか?」
「学園長代行の意志は堅くて。騎道君は、ずいぶんとあの方を怒らせてしまっているようで、何をどう言っても取り付く島はなかったよ」
「自分が身代わりにやめる、くらいは言ったのかよ?」
秋津の虚を突かれた顔立ちに、三橋はフンと鼻を鳴らした。
「冗談だよ。それくらい言ったって、あのド素人には通じないだろうさ。代行なんて名前だけで、教職者の資格もないんだからな」
「あきらめたまえ」
「力ずくで押さえられて黙ってろって?
生徒会長の鏡、秋津静磨の言う台詞じゃないな」
「その私が無理だと判断したんだ」
声を落として、三橋は秋津に向けてではなく漏らした。
「落ちたな。あんたも」
ファイルを閉じて、秋津は改めて三橋に顔を向けた。テーブルを挟んだ向こう側に、三橋は突っ立ったままだった。
「これには二人の問題が絡んでいるらしい。我々が口を出しても意味はない。代行から受け取った印象では、騎道君の謝罪か、折れてくれることを望んでおられるようだ」
再び勘に触って、悪態をつく三橋をチラリと眺め。
「彼からも事情が聞ければ、こちらにも反論の仕方はあるだろうが。
……焦って動いているのは、親友の君だけのようだね」
「よーくわかったよ。あんたの狙いは。
そんなに騎道は邪魔か? いいチャンスだから、黙って追い出そうなんざ、姑息だぜ」
「少し頭を冷やしたまえ。自分が今何を口にしているのかわかっているのか?」
「俺の頭は十分冷えてる。……勝手にやらせてもらうぜ」
なんの未練もなく、三橋は秋津に背を向けた。
「勝算はあるのかい?」
「俺は、負ける試合はやらない主義だ」
「さすがだな。三橋財閥次期総帥」
秋津の嫌味は、この場合三橋にとって褒め言葉だった。
「力に勝るのは数だよ」
「署名運動でもするつもりかい?」
高みの見物と薄笑いを浮かべる秋津。
それ以上に冷ややかな策士の自負を、三橋は屈託のない微笑みに忍ばせ部屋を出た。
「もっと派手にやるさ。代行殿には、二の句も継げないような目に会ってもらうぜ」




