(十)
手を貸しても撥ね退ける。彩子は安易な慰めなど、言葉より先に、体で拒絶するタイプだった。
「……彩子。もう歩くなよ。少し休め」
恐る恐る三橋は、だらんと揺れる彩子の腕を掴んだ。
はたりと、彩子は足を止めた。不安定な体を最後の気力で支えて、ぽつりと呟きを漏らす。
「……怖かった……。あたし、あのままだったら……。
自分が自分でなくなりそうだった……」
三橋の方へ、彼女の体は傾いてゆく。肩に頬を押し当て、彩子はうなだれた。
三橋の制服を握り締める彩子を、彼は黙って見下した。
「お前。……相手、間違えるなよ……」
「!」
「……男はすぐ、その気になりやすいんだ。少しは気をつけろ」
彩子の体を引き離し、一人で立たせた。
「三橋……?」
「よんできてやるよ。騎道を……」
「! 嫌……!!」
咄嗟に、彩子は叫んだ。
「? 彩子?」
「顔も見たくない。……一人にして……。行ってよ……!」
彩子の望み通りに、三橋は立ち去った。
そっと、彩子は自分の頬を押さえた。悲しむことも、悔いることも拒んで、すべての思考が停止しきっていた。
「……俺じゃあ、ダメか?」
呼び止められた迷子のように、彩子は顔だけを背後に向けた。
駿河秀一が、自分の言葉に照れながら笑っていた。
「抱き着くなりなんなりされても、彩子じゃその気になりようもないぜ。さんざん、顎で使われてきたからな」
声もなく泣き出す彩子に、駿河は肩を貸した。
「お前にしちゃ、決定的に冷たい事をあいつに言ったよな」
「……みんな、どんどん違う人になってく。
秀一も変わったよ……。強くなった……」
「当たり前なの。それが成長っていうことだろ?」
顔を隠して、涙を流す彩子に、駿河は眉を寄せた。ほんとうは果てしなく脆い。気を張っているだけなのだ。
「認めろよ。いつまでも俺たちは同じところには居られない。
こうやって、仲良しやって、毎日顔突き合わせてるのだって、ほんの3年間きりだ。その後の長い人生、あとどれくらいの時間を一緒に居られるかわからない。
稜学に居る間しかない……。忘れんなよ」
彩子の髪を、駿河はくしゃっとかきまわした。
「お前と、よりを戻せて良かったよ。本気でそう思ってる。
残りの一年と半分、俺は大事にしたい。彩子とだけじゃない。隠岐や他の奴らとも。ばかな真似もやるけどさ」
「……あんまり時間ないんだ。もう半分も終わってる……」
「まだ、半分ある」
断言され、顔を覆ってさめざめと彩子は泣き出した。
格好づけたものの、涙に駿河はうろたえていた。
「やっぱ、騎道、呼んでくるわ……。俺じゃ役不足」
「! 秀一! どうして、あんたまで騎道なの?
わかんないわよ! 三橋まで、騎道と……勘繰ってるみたいだし。
どうしてあたしと騎道がそうなるの? 何なのよ?」
ムキになる彩子は、ともすれば平手を放り出す予兆にもなりかねない。身を引きながら、駿河は言い返した。
「何って……。お前……。
彩子の側にいる騎道を見てりゃ、わかるぜ……。
俺や、三橋くらいなら、すぐにな」
「何がわかるっていうの? 全然、変わりないじゃない」
「彩子。お前だって、気付いてるんだろ?」
「何をよ?」
手加減無しで、彩子は駿河を問い詰める。
「! お前の一番悪いとこだよ、それが。素直になれよ。
一番大事なとこで、ちゃんと女らしくしろよ!」
「あんたに女扱いされたくないわよ!」
「くそっ。ほんっ気で、より戻しといて良かったよ。全部言わせてもらうからな、この際!」
「な、何よ。いーなさいよ!」
切れ長の駿河の目が、すっと細められる。
「……どーして賀嶋を、引き止めなかった?」
彩子は自分から目を逸らした。
「追いかけたはずだろ? 空港まで。それで、なんで止めなかった? 賀嶋がお前の意識を取り戻すために、どれだけ神経すり減らしたか、分かってたんだろ?
リハビリだって毎日付き添って、お前ら二人でどうにか普通の生活を取り戻したじゃないかよ。
それでなんで、あっさり別れられるんだ?
俺はさ。賀嶋を止めなかったよ。行くって聞かされた時。
止めるのは、お前の役目だって皆わかってたから、黙って行かせたんだ。……なのに、てめーはっ!」
「あたし、もう章浩の重荷になりたくない……。好きな道を選んで欲しい。
婚約破棄してくれて、嬉しかったくらいだわ」
「自分じゃ破棄する度胸もなかったくせにか?」
「……そう。甘えてたの。章浩に甘えてたの!
ずっとそうだったから、もう嫌になったのよ!」
彩子は唇を引いて、大人びた顔を作ろうとした。
「……もう終わってるんだから、引っ張り出さないでよ……、そんな話し……」
「なら、今度はどうだ? 今度はどんな言い訳をつけるんだ?」
彩子の手首を掴んで、駿河は引き寄せた。
「騎道が気になるんだろ? 気になって四六時中考えてるんだろ? それくらいは認められるよな!?」
「全然違うわ。かわいそうだからよ。同情なの。あんまり間抜けで、とんでもない事件を背負い込んでるから」
「たくっ! 大人しく一度くらいウンと言えよ!
お前を見てりゃあな、あいつを野郎として十分意識してんのは見え見えなんだよ!」
「! いやらしい言い方しないでよ!」
彩子の平手が、駿河の頬にヒットした。
「訂正しないぞ。
……お前だって気が付いてるはずなんだ。でも、賀嶋にやったのと同じ理由で、同じことをやってる」
「一緒にしないで。それとこれとは別よ」
「……何考えてるんだ? お前、まだ何か隠してるんだな?
言えよ、何でもいいからほんとのこと言えっ」
「……離れてよ……。くっつくのやめて……」
「言わなきゃ……、幼馴染廃業する」
彩子はくっきりとした眉を、きっと吊り上げた。
「……チリチリ頭の女は、守備範囲に無いんでしょ?」
「目をつぶっていれば、かわりない」
身震い。吐き気がする……。
「……そんな言い方、秋津会長とおんなじ……」
はっきりと嫌悪する彩子に、はっとした駿河の手が緩んだ。彩子は目を細めて、何も見ていなかった。
「あたし、誰も好きにならないの。誰のものにもならない。
決めたの。……それだけのことよ」
「……お前……」
無気力に呟く彩子。低い声が吐き出され続ける。
「忠告しといてあげるわよ。……体と心は別ものなの。チカラで全部手に入ったりしないの」
「彩子……。彩子っ!」
目を上げて、彩子は叫ぶ駿河を見返した。
「……うるさいわね。ここに居るじゃない……?」
突き放すように言い残し、彩子は歩き出した。
「あ……。ああ……」
……お前が、遠くなった気がした。
すごく遠くに。まるで、集中治療室(ICU)に居た頃みたいに。
このまま、別の世界に進んでゆくように、駿河は感じた。
「……あいつ。止まってるんだ。
どこかで勝手に時間を止めてる……」
どこだ? 見当がありすぎて、確定できない。だが、すべての始まりはどうしても、去年の春の事件。
「くそっ……」
体と心は別だなんて、知ったよーな口ききやがって……。
繋がってるんだよ。一番自分の体で、そいつを味わったくせに。
初夏にむかうICU。あのベッドで彩子は、心を無くし、同時に体の機能のほとんどを停止させてしまった。
心が目覚めはじめた時、同時に、肉体も目覚めた。
「それなのに……! あの石頭っ」
あの騒ぎの中で、4限目は終了し、昼休みも終わろうとしていた。5、6限に授業はなかった。体育館での立会い演説会に、すべてがあてられていた。
食事をとれる気分ではなかった。教室に向かった彩子は、マットで内履きの土を払い、校舎に入ろうとしたが。
騎道が、渡り廊下の壁にもたれて、待ち受けていた。
「……逃げないのね、今度は」
向き直った騎道の前で、彩子は足を止めた。
「全部話して。騎道が知っていることをすべて。
……でないと、騎道を許さない。顔も見たくない」
「ここでは無理です」
騎道の堅い表情を無視して、彩子は語気を強めた。
「どうしていつもいつも、そんな見え透いた嘘ばかりつくの? 騎道は誤魔化してばかり。自分だけ高みの見物をして楽しい? あたしの気持ちってどうなるの?」
「話さないとは言ってません。
……一番相応しい所で、彩子さんに打ち明けたい。
そう思っていて、機会を逃していたことは事実です」
「……。わかったわ。それはどこ? いつなの?」
騎道は、彩子の性急さに、少し表情を和らげた。
「明日。学校をエスケープできますか?」
「するわ」
彩子は即答した。
「よかった。では明日、駿河さんからバイクを借りて迎えにいきます。どこか、駅前で落ち合いましょう」
うなずいて擦れ違う彩子に、騎道は言い掛けた。
「彩子さん。一人で、帰らないで下さい。
立会演説会が終わったら、僕も帰りますから……」
「いやよ」
「君は狙われているんです。一人で動くのは危険だ」
「騎道と居て、安全だという証拠はあるの?」
顎を上げた問いかけに、騎道は答えた。
「僕の気持ちは変わらない。君を、必ず守ります」
「……信じないから……」
唇を噛み締めて、足取りを早める彩子。
「遅れてごめん。怖い想いをさせて……」
情けない謝罪だと、彩子は意地を張って決め付けた。