(九)
秋津静磨の声は、耳に心地良かった。
彼の冷静沈着な態度。物穏やかで公明正大な挙動は、常日頃から全学園生徒にとって最高の模範であった。
教師はもとより、学生たちからの区別無く信頼され、強い憧れをもって見られてきた秋津。
彼は、誠実さの全てを傾けて、彩子に語りかけていた。
「君は利用されているだけだ。君が特別な人間であるから。僕の邪魔をして、彼は思う通りに振舞おうしている。
騎道と君は、共にあるべきではない」
「待って下さい。……何の話しなんですか?
学園祭のお話しでないなら……、私、帰ります」
彩子はドアに向かった。不審がる彩子を、磯崎は無理にこの部屋へ押し込んだのだ。鍵を掛けた物音はなかった。
なのに……、びくともしない。
「本当に君の側に居るべき人間は僕なんだよ。
三百年前から、決められていた絆を感じないかな?
僕らは一つにあるべき魂だ。長い間、互いを求めて彷徨ってきた。君と僕は一対だ……」
秋津は薄暗い室内の中央に、パイブ椅子を一脚だけ引き出した。手で彩子に椅子を指し示す。
「君は、ある女性の生まれ変わりなんだよ」
「……誰…が……?」
ドアを背後に、彩子は秋津を振り返る。
「僕たちは昔、愛し合っていた。だが訳あって引き裂かれた。真実は騎道に聞くことだ。彼はすべてを知っている」
ここにはいない騎道へ向けた、剣呑な言葉の棘。
「君に隠していること事態、裏切りとは思わないかい?」
彩子は息を飲んだ。騎道は、彩子に約束したのだ。すべて話すと。けれどあれきり、話す機会もなかった。
「……瓜二つじゃ。まことに寸分違いない。その上、五体満足でもある。……したが、この髪……。憎らしいこればかりは、願う通りにはならぬものか……」
「今のは何ですか? ここに、他に誰かいるの……?」
彩子は声を震わせていた。若い女の声が、はっきりと、耳元で囁かれているように聞き取れた。
壁に作り付けられた棚の一つ一つに、剣道用の防具が納められている。屋外へ続いた、彩子が背中を張り付けたドアとは別に、彩子の正面には武道場へのドアがある。ほぼ十畳の広い室内を見回すが、他に人影はない。声だけ。
「さあ? いないはずだが。何が聞こえるんだい?」
「声が……。誰なの、あなた……?」
彩子は、尋ね返さずにいられなかった。
「……だが、隆都様はこれを麗しいと見入って下さった。
ひらひらと光り、まるで日の本が手のうちにあるようと、仰せられて……。……あの頃、お前と同じ年頃であったわらわは幸せで、何もかもが春のただ中にあった……」
声に気をとられている彩子の視界を、秋津が遮った。
無言で彩子の手首を掴むと、強引に引き寄せる。
「……嫌っ……」
引きずられて、中央のパイプ椅子に座らされる。同時に彩子は、背筋が震えて止まらなくなった。
……怖くて立ち上がれない……。肩を両手でがっちりと押さえつけてくる、秋津の手。振りほどこうと体をよじると、ひんやりと頬に髪が触れ、するりと体を撫でた。
「髪が……!」
肩から膝へ。見下すと、全身を覆うほどの長い金髪が、彩子の踝のあたりで渦巻いていた。癖のある細い絹糸のような金髪。彩子の動きに合わせ、それはひらりとゆらめく。自分の髪なのだと、彩子は思い知らされた。
秋津の手の動きがぴたりと凍り付いた。顔を上げると、彼もまた出現した金髪に、青ざめている。
「……あの声が聞こえているのに? どうして嘘を……?」
「怨霊が何だというんだい? 僕らと同じさ。怖がることなんてなにもない。人間以上に、純度の高い魂だ。
……羨ましいくらいだよ。ここまで、狂える。
ここまで、人は一つのことに妄執できるんだよ」
彩子は、引きつった笑みを浮かべた。
「……おかしいわ。秋津会長、どうかしてる!
手を離して! あの人に耳を貸さないで……!」
「でたらめじゃないだろう? この髪がすべてを物語っている。君は、本当に彼女の生まれ代わりなんだよ。
彼女を受け入れるために、生まれてきた。
……器だ。生き生きとした器。
楽しみだよ。君がどんなふうに変わってしまうのか」
秋津の手が、彩子の頬を包み込む。
振り払えない事実に、彩子はその時、初めて気付いた。
駿河の読みは的中した。待ち構えていた5、6人の三年男子生徒たちが、早々と姿を現してくれたのだ。
小体育館の奥にある防具室兼更衣室の出入り口まで、ほぼ10メートル。立ち木や茂みで見通しは悪いが、駿河はその方向に親指を立てた。
「先輩たち。中で何が起きているのか承知の上なんですか?」
一番背後で見守るのは、剣道部部長磯崎だった。
「さてね。秋津会長のやりことなら、すべて正しいことだとは思うが」
うそぶく磯崎に、三橋が凄んだ。
「彩子に何かあれば……!」
「彼女だって、悪い気はしないだろう……?」
火が着いたように、三橋と駿河の頭に血が昇った。
乱闘。2対6。相手は武道の達人であり、こちらは腕力はあれども喧嘩に関しては素人一人。趣味が喧嘩な腕に覚え有りが一人。だが素人は、のんきだった……。
「すんちゃん、いい蹴り入ってるじゃん」
「……。あのなっ」
竹刀代わりのデッキ・ブラシの柄を、駿河は振り回した。
「すんちゃんはヤメロっ! 力が抜けるぜ!」
竹刀をもたない剣道部部員だが、戦闘能力はずばぬけている相手だ。駿河はブラシの頭を蹴り落とした。
「三橋! ド素人はひっこんでろ!
ここは食い止める。先に彩子を連れ出せ。速く行け!」
ためらいもせず、三橋は戦線離脱した。
……鉄砲玉みたいに、抜けてくれて。薄情者……!
後ろ姿に悪態をつく間もなく、木製の柄を正眼に構えた。
「ついてこい」
凄雀は車のキーを光輝に放って、壁から体を起こした。
眠り続ける沙織を淕峨に譲り、光輝は従順に立ち上がった。ゆっくりと足を運ぶ凄雀を、上目遣いで伺いながら。
「……へいへい。どこまででも送らせていただきますぜ。
んで、行き先は? まさか」
「ああ。学園までだ」
二人はマンションを出て、車に乗り込んだ。
「……その体で、何するつもりだよ? まっすぐうちに帰りゃいいだろ? 立って歩くのも辛いんだろ?」
凄雀がこの街に居る理由は『療養の為』のはずだった。
こことは別件で、凄雀個人の責任で手ひどくダメージを受けたという事実は、光輝も以前に伝え聞いていた。
「学園長代行の義務だ。演説会をふけるわけにはいかん」
「はぁ……? 今、なんて言ったんだ?」
驚いたはずみで、光輝はキーを回し損ねた。
助手席の凄雀は、青白い顔を仰向け目を閉じている。
「生徒会役員選挙の立会い演説会だそうだ。学園長には出席の義務があるらしい。
その会長選に、騎道も出馬する」
「なーるほど。父親参観ってわけか……てっ!」
弱っているはずの人間から、光輝は正確な鉄拳を食らった。一度アクセルを吹かして、車をスタートさせる。
「……どこまで行っても、他人に迷惑なお子様だぜ……」
秋、ではあるが、こんなにも室内が冷えるわけがない。
彩子は、膝まで昇ってくる強い冷気に震えていた。
「……やめて下さい……!!」
「そんなに気の強い君は、……失われてしまうのかな……?
僕としては、少し惜しい気もするが」
秋津の呟きに、彩子は身震いがした。柔らかい響きの裏で、残酷な企みを弄んでいる。高貴な顔立ちだけは保って、その内部は空虚。全てを放棄した、刹那が澱んでさえいる。
「……驚いているね。自分でも不思議な気持ちだよ。
自分がどこまで残酷になれるか、試しているんだよ。僕の良心にすがっても無駄だ。そんなものはどこにもない。
……すぐにわかる」
「ヤ……」
彩子は目を見開くだけが精一杯だった。全身が硬直している。震えは消え、彩子の意志とは別に座り続けていた。
「声も出ないのかな? ああ。彼女の力だね。体も自由にはならない。
……彼女の協力は便利だ。ついでに言っておこうか。この回りは、僕の命令で誰も近寄れないようにしてある。
運良く、君のナイトたちが駆け付けても、ボロボロにされるのが落ちだ。
……現れないことを祈った方がいい」
『……タスケテ……』
秋津は金髪を分けて、彩子の傍らに膝をついた。じっと、見入る。髪や頬に触れ、彼女の反応を眺める。
「ほほほ……。焦らすおつもりかぇ?」
「フン。三百年も待ったんだ。もう少し待っても、かわりはないだろう?」
「……連れないことを。己の楽しみばかりで、わらわのことをお忘れか?」
秋津は水を刺されて、眉をひそめた。
「酷いな……。忘れてはいないさ。彼との『睦まじい時』を、思い出させればいいんだろう?」
『……タスケテ……。ダレカ……』
「無駄だと言うておるのに」
彩子の精神の叫びを、女は厳しく撥ね付けた。
『ダレカ……キテ……。ダ…………』
「……誰も来はせぬぞ……」
『……キドウ……』
「邪魔はさせん。お前は、私だ……」
『騎道……助けて……!』
ぴくりともしないドア。これでは、壁を相手にしているのと変わりがない。
「くそっ……! 何がどうなってんだよ!」
騎道…っ! あいつ、どっかで眠り込んでるのかよ!
無力感と焦りに襲われ、三橋は歯噛みした。
五度目の体当たりで、わがすだがアルミ製の枠が歪んだ。
何かの、見えない手が緩んだという感触に、三橋は渾身の力を右足にこめた。扉を、蹴り、倒す。
さっと、暗い室内に光が流れ込む。
「!」
目の錯覚か? 室内中央に据えられた、人型の西洋人形に似た、金色の大きな影に目を奪われた。
それは、雪崩落ちて床に渦巻く、金髪……に見えた。
瞬きした次の瞬間には、光の中にかき消えたが。
金の幻が消えた後に、一つに重なった、二人の人間の姿が三橋の目に入る。
「秋津……、てめぇ……!」
パイプ椅子に深くかけた彩子。椅子の背に縛りつけられているように、彼女は背筋を伸ばしている。見開ききって虚ろな瞳は、空中を凝視したまま倒れもしなかった。
「……君に邪魔されるとは、思わなかったよ」
敗北を宣言しながらも、秋津に、彩子の肩に回した腕を緩める気配はない。名残惜しさを体で示し、ふわりとした癖のある髪に頬を押し当て、三橋を見返す。
「手を引けっ! 外道!」
突進してくる三橋の動きを見透かして、すっと秋津は立ち上がる。身を引きながら、トンと、彩子の肩を突き放す。
簡単に、前のめりに倒れてゆく彩子。三橋は膝から滑り込む形で、彩子の体を抱きとめた。
「秋津! どういうつもりだ!」
異様なまでに冷え切った彩子の肩、腕。強張ったからだが次第に、三橋が支える両肩から、ガタガタと震え出す。
この部屋も変だ……座り込んだ木目の床が、氷で出来ているのかと思えるほど冷たい。背後からの陽射しだけが、確かなぬくもりをもっていた。
「…………ケテ……」
「おい? 何だって? 何って言った、彩子!?」
うつむいた彩子の顔に耳を寄せる。力をこめたら、壊れてしまいそうで、ただ三橋は待った。
「……助け……て、…………キド…ウ……」
「……!」
まるで。彩子の言葉を封じこめるように。
突然、部屋に冷たい風が渦を巻き始める。壊れた入り口から飛び込んでくる砂埃。腕をあげて目を庇った一瞬のすきに、もう一方の腕の中から、彩子の体は強い突風に引き摺られ、奪われていった。
伸ばした指先を打つのは、氷の針じみた冷たい風のみ。
「君では役不足だと言っておいたはずだ」
落ち着き払った秋津の声が、大きく響いた。
「まてよ! 彩子を返せ!」
焦る。……三橋にも感じる。秋津以外に、もう一人、彩子を欲しがる誰かの、凝り固まった感情。
彩子を物のように扱い、精神を打ちのめし。最後に手に入れようとする、最悪の思念。
激しさを増す冷気と風の強さは、そいつの嘲笑。底無しの自負。本物の力を誇示して、ねじ伏せようというのか!
「三橋、そこを出てくれ。こっちへ。速く!」
背後からの声に、三橋は従った。転がるように飛び出すと、うそのように冷気は引いた。
尻餅をついた地面が、頬ずりしたくなるほど暖かい。だが、そんな欲求を追いやって、三橋は顔を仰向けた。
投げ出した足に落ちた影。すっと、それが遠のいた。
「……遅いんだよ。騎道……!!」
後ろ姿は沈黙している。三橋は息を飲んだ。
ほっそりと、男にしては華奢な肩幅なのに。握り締めて関節が白くなった拳が、怒りのやり場を求めている。
「……あなたを、見損なっていました」
風は静まっていた。彩子も元通り、椅子に座っている。違っているのは、彩子から二歩ほど離れた秋津の動き。ゆっくりと、この場を離れようとしていた。
「ナイトが遅刻じゃ、様にならないね?」
騎道の脇を抜けながら、秋津は言い残す。騎道の登場をまっていたと言わんばかりに、不敵な笑みで。
ぴくんと、彩子は顎を引いた。
出て行く秋津を見送り、破壊された戸口で立ち尽くす騎道へと、ゆっくりと目を向けた。その後ろで地面に座り込んだままの三橋には、気付いた気配はなかった。
駿河が駆け付けてきた。騎道の肩を押し退け、膠着した三人に流れる、いいようのない沈黙を破った。
「彩子! 無事か……? おい……」
駿河に支えられて、彩子は立ち上がった。大きな吐息を一つ吐き出し、駿河の手を外し顔を伏せた。見守る視線を無視して、おぼつかない足取りで、その場を出ていった。
「……三橋、追いかけろ」
駿河の声に跳ね起きた三橋。まっしぐらに走り出す背中が消えてから、駿河は騎道の真正面に立った。
もう十分殴り合いをして、手の甲の皮が剥け血塗れだが。
動かない騎道の頬を、駿河は渾身の力で殴り飛ばした。
背後によろめき、体を二つに折る騎道。
襟首をつかまえ引き起こす。駿河の動きが止まった。
黒縁眼鏡の下。長い前髪に隠しきれない黒い瞳が、込み上げる怒りを必死に堪えていた。唇を噛み締める顔を、それ以上正視する気にもなれず、駿河は騎道を突き放した。
「どうして、遅れた?」
「他のことに気を取られて……。彼がこんな行動に出るなんて、思ってもいなかった……」
「どうして、黙って帰した!?」
「さぁ……」
緩く頭を振る騎道。
「それじゃ答えになってない!」
吼える駿河に、騎道は言い放った。
「……八つ裂きにでもしたかった。けれど、君達の目の前ではやりたくなかった。それで、答えになりますか!?」
「……わかったよ。悪かった。言い過ぎた」
騎道の肩を、駿河は重く叩いた。
「駿河さん。行って下さい。三橋じゃ、うまくないかも……」
「お前が行けよ」
うつむいて、騎道は頭を何度も振った。
「僕は……、彩子さんの信用を無くしましたから」
「わかってんだったら。……ポイント稼げよな」