時計
「おい、もう八時だぞ」
時計の目障りなアラームの変わりに聞こえてくる低音域の声に勝は目を覚ます。
「起きろ、遅刻するぞ、起きろ」
勝はどこからともなく聞こえてくる声に好意と恐怖を抱きながら布団から這い出る。声は壁の方から聞こえてくる。壁に耳を当てる。
「なにをしている、私はここだ」
低音域の声は勝の行為に少し笑いを含ませながら言う。壁から耳を離し、辺りを見る。
「ここだ、ここだ」
勝の行為を楽しんでいるかのような口調で声は言う。頭上から聞こえてきた声に勝は恐る恐る顔を上げる。そこには引っ越してきてからない事に気づき、近くの骨董屋で購入した壁に掛けるタイプの時計だった。
「ようやく気付いたか、ほれ早く顔を洗ってこい」
十月にしては異常なほど暑さのせいか、それとも昨夜、上司に無理やり飲まされた酒が抜けきっていないのか。勝は喋る時計の前にどうすればいいのかわからず、壁に掛かった時計を凝視していた。
「どうした、私の顔になにかついているのか」
時計はこちらをじっと見つめる勝を不審に思ったのか、尋ねた。
「いや、どうして貴方が喋っているのかと思って」
勝は時計の喋り方と声の雰囲気からつい敬語になってしまう。時計は勝の質問に大きく笑う。
「どうしてとは、また不思議な事を言う」
「不思議なのは貴方だ」
「私が? どこが不思議だというのだね」
時計は少し困ったような口調になる。勝は頭を掻く。
「時計は普通喋りません、なのに貴方は喋っている」
喋っている途中でこれは夢なのでは? と勝は感じていた。しかし、耳を当てた壁の感触も、買い換えたばかりの布団のシーツの柔らかな感触も実際のそれとまったく同じで、勝は混乱する。
「これは夢か」
「いいや、現実だ」はっきりと時計が言う。
「しかし、時計は喋らない、鳴る事しかしない」
気付かないうちに勝は喋る時計を必死に否定していた。
「それは世界の常識だ、貴様の中では喋る時計は存在する」
「なにを言っている」
「世界の常識と貴様の常識は同じではないのだよ」
そこで勝は身体が、的確に言えば頭だが、全体が重くなるのを感じた。そのままよろよろと布団にもぐりこみ、時計の「なにをしている、起きろ」と何度も言う声を無視して、目を閉じた。
次に勝が目を覚ました時、やはり時計は喋らなかった。
あれは夢だったのだと胸をなで下ろすと同時に、時刻が朝の十時を回っている事に気付き、大急ぎで会社へいく準備をする。
身支度を整え、最後の仕上げに玄関の鏡でネクタイが曲がっていないかチェックし扉を開ける。
「おいおい、俺を忘れてるぜ」
玄関の棚に置いてあった、就職祝いに貰った時計が陽気な声で勝に喋りかけた。