5 膾炙
あの日、僕は上沢の絵を描きながらあることを思った。
――思った? なにを?
いや、最初に言葉を交わしたときからか。あるいは、ほんの背景にすぎなかった彼女が重要な視点として認識されてからか。
もしかしたら、前から思っていたのかもしれない。
彼女とは、この都立公園以外でも会いたかったと。
◇◇◇
そして、上沢は言った。
「同じ学校、そして後輩です」
僕は、上沢と学校で会う場面をイメージしてみた。イメージの中での上沢は、背中の割れた特徴ある制服をいたく気に入っていた。
それから、水色を基調とした色合いと、妙にガラス張り多い校舎に目を輝かせている。絨毯が敷いてあるラウンジに目を凝らしている。うわばきではなくスリッパであることに、琴線を揺り動かされている。中央にプールが配置されている不思議な設計に驚いている。
そんな姿が、容易に想像できた。
◇◇◇
さらに上沢は、読書が趣味だった。
そして僕は、『文芸部』の傍系である『読書同好会』に籍をおいていた。
『読書同好会』とは、去年の七月、由佳先輩の誘いを受け、友人の朝日、彼の幼馴染の日坂とともに入部していたクラブだった。
部長 小手川 由佳(二年)
三木 和人(一年)
朝日 優介(一年)
日坂 綾(一年)
現在はこの四人。
少数精鋭ではなく少人数である。
同好会なのは、三つ年上の清水女史がケンカ別れしてできた新興勢力だからだ。事実、場所も文化棟の中でもはじっこで隅の方に位置していた。
俗にいうマイナークラブ。
そんなふうに言っても、過言じゃなかった。
しかし、『読書同好会』のことは広く生徒に膾炙していた。
理由は、『読書同好会』の祖でもある清水女史が、椎名さんに匹敵するぐらいの変人であったからだ。誰もがその存在を意識せざるをえなかった。
実際に彼女と面識があるのは、由佳先輩しかいない。もちろん、僕、朝日、日坂なんかは面識すらない。
なのに、彼女の人となりが窺えるエピソードを、僕たちは知っていた。
彼女は、とにかく、北海道を題材にした作品に傾倒していた。
特に、コロポックル、マリモ、ラベンダー、五稜郭、音響道路なんかがお気に入りで、それに関連するグッズが部室にあふれていた。また、ジャンルを問わず、その地域の作品には終末的でせつない展開が多いのをいたく気に入っていた。
当時は、彼女の影響で部員の数も多かった。
しかし彼女が夏に引退してからは、残された部員達が辞めたり、元の『文芸部』へ戻ろうとしたりしていった。そうして、『読書同好会』は小さな集合離散をくりかえし、短期間でいろんな変遷をしながらも、消滅寸前にまで追い込まれてしまった。
◇◇◇
いつもお気楽な由佳先輩が、この話をしたときだけは真面目に懐古してくれた。
僕はその信じられないほどのギャップに、目をしばたたかせて驚いてしまった。
「和人くん。あのときは、先輩を中心としてものすごくまとまっていたの。信じられないぐらいのまとまりだった。ほら、合唱祭や桜樹祭なんかのアレ、異様な団結力を発揮するときってあるじゃない。それすらも凌駕するかんじだった」
「結局、『文芸部』の半数近くが離反して、先輩を中心とした新しい同好会は発足したの。『読書同好会』は、まるでエネルギーとかバイタリティーのかたまりみたいだった。きっと私たちは、先輩を擁立して、革命をおこしたような気分にひたっていたんだと思う」
「もちろん、私たちにはそんな自覚はなかったけど。でも、少なくとも、先輩のエキセントリックだけどなにかを面白いことをしてくれそうな、とんでもない雰囲気にすごく期待していたんだ。だから、そんな楽しげな気配にひかれてついていった。そしてそれは期待通り――いいえ、期待以上だったの」
「先輩は、ほんとに唯我独尊の人だった。でも、周囲の人たちを楽しませることにかんしては一日の長があった。彼女は、普段の活動だけじゃなく、いろんなことを企画して私たちを楽しませてくれた。そう、たとえば、少し変わった啓蒙活動なんかをしたりとか……。短期合宿なんかもよくやった。ほかにも出来の悪い映画を撮ったり、公園で遊んだり、グッズ集めたり、全然関係のないことばかりだった。まるで出来の良いフリーサークルみたいだった」
「しかし、夏に先輩が引退してから、状況は一変した。つまるところ、残された私たちはなにをしていいかわからなくなっていた。先輩のように、北海道を題材にした文学に興味があるってわけでもない。だから、『さて、どうしようか』ってなった。誰もが唖然としていた。私たちはセミのぬけがらのようだった。祭りの後のなんちゃら、みたいな雰囲気になってしまった」
「そうなったら、みんな、元の居場所や前の『文芸部』が恋しくなっていた。居場所があるのに居場所はなくなった。ニュアンスとしてはそんなかんじだった」
「たしかに、あのころは間違いなく楽しかったんだ。だからこそ余計に、楽しさで漠然と繋がっているだけの無意味な連帯感は、本来のコミュニケーションではなかったのかな、とつよく感じてしまうほどだったの」
「そしてその瞬間、私はあることに気がついた」
「気がついちゃったし、気づかざるをえなかった」
「これは、とても悲しいひらめきだった」
「結局、『私』の価値観や哲学をいだいていなければ、そのときの喪失感や孤独感はどこまでもつきまとうものなんだと――とりとめなくそう思ってしまったの。この問いかけはまるでメビウスの輪のように、無限の繰り返しとなって再生されつづけた。少しずつ、奇妙、希薄、諦観、無力、虚無といった感情にバージョンアップして浸食され、私は大いに困惑した」
――私はなにか大切なものを失くしている。いいや、それは違う。僕もなにか大切なものを失くしている。これだって違う。誰もが、なにか大切なものを失くしているのだ。
「困惑……。そう、困惑はした。でも、私はすぐに決断したの。自分に自発的な前進をうながした。私は、私自身が知っているのを知らなくてはならない。そして、あの頃はとても楽しかったんだ。だから、その場所にいたいとつよく思った。同好会を存続しようと考えた。賛同者を得ようとした。大切ななにかを、ぜったいに見つけだそうと思った。……やがて、私は一人のパートナーと出会った。その人は、一つ上の先輩だった。さらに、もう一人とも出会った。その人は、先輩と同じ学年の知り合いで、あの有名な工藤アキだった」
「で、そうやって小さな決意をしてから、秋、冬、春、夏と季節がめぐった。あのときから一年が経過していた。夏で、一つ上の先輩たちが引退していった。そして私は一人になった。でもそのとき、私の脳裏に六月の光景がよぎった。キミとキミの仲間たちが浮かんだ」
「ここから先の物語は、和人くんも知っての通りだから」
最後に由佳先輩は、照れ笑いをしながら話を締めくくってくれた。
「はい、これでめんどくさい話はおしまいっ。劇画調ではなんの効力ももたないけど、文字記号の世界では鑑賞に耐えうる話ができたでしょ」
「由佳先輩」
「ん?」
「素敵なクロニクルですよ」
◇◇◇
結局、こういう紆余曲折を経て、『読書同好会』は今に至る。
そう、今。今は『文芸部』でさえ部員が少ない。
要するに、当時の清水女史の影響力が絶大すぎた。
その残滓は、『読書同好会』に籍をおいている僕たちが、ある通り名でくくられていることからも散見される。それと、清水女史がコロポックルをことあるごとに喧伝していた効果もある。また、『読書同好会』の部室が文化棟の端にでっぱりに位置していて、ちょうど木々の葉が建物を覆いかぶさるように見えるのも影響している。
そのせいか僕たちは、こう呼ばれていたりする。
『蕗葉の下の小人達』。
通称、『小人達』と。
◇◇◇
そして、ようやく最初に舞い戻る。
――僕が思い立ったあることとは。
それは、『読書同好会』の一員として、上沢に入部してもらいたいとのことだった。