4 パステル調
「さっきのワルツ?」
「……フーガです」
上沢はすねた調子で言いだした。
「あいにく、僕はワルツもフーガも違いがわからないんだ」
「私も音楽はからっきしです」
それっきり上沢がこの話題を収束させようとしていたので、僕はもう一度ぶりかえした。
「じゃあ、ベートーベンをイメージして踊っていたとか?」
「ち、違いますって。どうしてベートーベンが出てくるんですかぁ」
「そうだね」
「でも、ほんとはバッハをイメージしていたんですけどね」
今度は、投げやりな調子だった。
「しかし、僕にはベートベンとバッハの違いがわからないんだ」
「私にもわかりませんよ」
「だったら、ほんとはボブ・ディランをイメージしていたとか」
「いえ、ビリー・ジョエルです」
「そして、その二人の違いもよくわからない」
「私もです」
なんていうか、変な意地の張り合いだった。
もはやこのやり取りは、著名な音楽家をやみくもに挙げるだけになっていた。なので、いくつか挙げていくうちにストックが切れてしまう。
もともと音楽には素養がない。
仕方のないことだ。
「もう、先輩の負けですからね。人の名前の最後に『ん』を多くつけた先輩の負けです」
「え、どうしてさ」
「どうしてもです」
「勝負じゃないんだけどなあ」
僕がそう言うと、上沢は少し考え込んでからこう断言した。
「いいえ、勝負なんですっ」
「ん?」
「なんていいますか、ここは勝負なんです。どうでもいいかも、って思うべきところで無性に張り合いたくなっちゃうときってありませんか?」
「ああ、そっか」
「よって、人の名前の最後に『ん』を多くつけた先輩の負けです」
「でも、しりとりじゃないんだ」
「でもですね、先輩。最後に『ん』をつけるのは、唇を閉じている回数が多いから、なんとなく負けなんです。しかも、最後に『ん』がつく言葉を発するだけで、なんか完結してしまうような悲しいイメージが与えてしまうじゃないですか」
こう言われても、なんて言えばいいかわからなかった。
だけど僕は、こういうなんともいえない論理の飛躍を語る上沢が好きだった。安易に過程を説明できない話の転がり方は、僕を不思議な気分にさせてくれた。
肺腑をなぞるような感覚。
わずかな感情の共振。
「で、結局なにをしていたの」
「あー」
上沢が頭をかかえた。それに合わせて、きれいな髪がくしゃとなった。
「やっぱりそうですよね」
「そりゃそうだよ」
そう告げると上沢は、少しはにかむような笑いを見せたあとで、
「笑わないくださいね」
とつぶやいた。
「うん。笑わない」
「ほんとですか」
上沢がジト目で確認した。
「という保証はないかも」
「と見せかけて、ぜったいに笑わないと誓う優しい先輩ですよね」
「というのはフェイントで、心の底から大笑いするつもり」
「というのがフェイントのフェイントで、笑ったら謝ります。土下座しますくらいの心持ちですよね」
「――」
変な会話で文章が繋がっていた。しかし僕が沈黙したことで、上沢は踊っていた理由について話しはじめてくれた。
「そ、そのですね」
「うん」
「なんとなくですよ」
「なんとなく?」
「わたし、遠心力の気持ちをできるだけ理解しようと思ったんです」
「えっ? 遠心力の気持ち?」
「先輩。今、笑いましたぁ」
上沢はふくれていた。
「少しだけだって」
「もうっ、笑わないっていったじゃないですか。先輩でも教えませんよ」
「うん、ごめん」
「まだ、笑っています」
「もう笑ってないって、でも、どうしてそんなことをするの?」
僕がそう聞いてみると、上沢は渋々といった様子で言葉を続けてくれた。
「それはですね。時々、無性に変なことを体感したくなるといえばいいのか……なんていえばいいのかなぁ。変な疼きみたいなのを止められなくなってしまったような。なんか衝動みたいな感覚で、胸中がいっぱいになってしまって」
上沢の語尾は段々と弱くなっていく。上目づかいで、様子をうかがってもいる。
そして、上沢の顔が赤くなっていく。
彼女は、またトランプの手品でごまかそうとしていた。だが、かろうじて思いとどまったらしい。その手品道具をふところにしまった。しかし、両手が手持ちぶさたになっていて、その赤くなった顔をせわしなく扇いでいる。
「あ、あー、先輩?」
はにかむようなしぐさだった。
「あの、私変ですよね」
とは言いつつも、やけに晴れやかな笑顔でいた。
「先輩。でも、私は変でもいいと思っているんですよ。それと、なぜかはわからないんですけど、先輩ならわかってくれそうな。……なんだか、なんですかね。上手くいえないみたい。先輩は、空の彼方に去っていく飛行船を眺めているときの心境に似ています。要するに、私が抱いた遠心力の気持ちは、先輩と話をしているときの気分にそっくりみたいなんです」
「えっと」
「だから、今、先輩とこんなことしてみたくなってしまいました」
すると、僕の手をとって回りはじめた。
「もうっ、やぶれかぶれですよね、私」
上沢はてれくさそうに笑った。
僕は「ジャイアントスイング?」なんて言って、はずかしさをごまかした。
すでに上沢は開き直ったのか、なんだか二、三週目から楽しそうだった。
めいっぱい離れようとしている。なのに、距離は保ち続けている。もちろん、遠心力の気持ちなどわからない。
だが、その時だった。
ふいになにかを感じた。曖昧模糊で不透明で、パステル調の拡散的ななにかだった。
おそらく、十五歳とか十六歳の――これぐらいの年頃から本格的にはじまるアレに違いなかった。僕は、無意識化で放出されているあの化学物質の存在をひそかに感じていた。
そしてそれは、魔法となんら変わりはなかった。
気がつけば、さらに好きという感情が生まれていた。
◇◇◇
回り終わった後は、なんだかお互いに変な気はずかしさが芽生えていた。けれど、それすら許容範囲だった。
しばらくして、上沢がぽつりとつぶやいた。
「せ、先輩」
「ん?」
「わ、私、なぜかさっきよりもはずかしいことしていましたよね」
「うん」
「な、なんででしょうか?」
「僕に聞くの?」
「……そうですよね」
上沢は、へこんだかのような微妙な表情をしていた。
「じゃあ、気分転換に絵をかいてあげるから。そこにすわって」
僕は、ひこばえの生えたきりかぶを指差した。
しかし、自分でもこの言葉には驚いていた。今まで、まるで念頭になかったからだ。
そして、そこで気がついた。
――どうしてだろうか。
僕は、少しだけ困惑した。二重の意味で困惑していた。
どうしてこれまで、上沢の絵を描くことを思いつかなかったのだろう。どうしてこの瞬間に、上沢の絵を描くことを思い立ったのだろう。
それが、少しだけ不思議でならなかった。
◇◇◇
「先輩」
「なに?」
「昨日ですね、私、先輩と同じ学校の合格通知書をもらいました。そして、今年の四月からそこに入学するつもりなんです」
「え、同じ学校?」
「はい。同じ学校、そして後輩です」
僕は驚いた。驚き半分、嬉しさ半分といったかんじだ。
「それはおめでとう」
「ありがとうございます。これで私、ようやくホッとできます。でも、ほんとは試験終えたときから受かる自信はあったんですよ」
「そっか」
「えっ、どうしたんですか?」
「だから、僕が最初に声をかけた日、そういう雰囲気ができあがっていたんだ」
「あー」
上沢がわずかに顔を赤らめた。
「でも、どうして僕の通っている学校がわかったの?」
「あ、あの、ごめんなさい。前に先輩が、あの特徴的な制服を着て歩いているのをみかけたんです。だから私、あのとき先輩に声をかけられるのを待っていたのかもしれません」
「そうなんだ」
「その日は、てんぱって変なことも言ってましたし」
「邂逅とか?」
「はい」
「それにしても、結局ばれてしまいましたね」
「うん、ばれてた。だから話しかけられた」
「じゃあ、なんだかそういうのって素敵だと思うことにします」
別れ際、上沢は照れくさそうに笑いながらそう言った。