3 フィボナッチ数列
こうして僕たちは、逢瀬ともいえないささやかな出会いを楽しんだ。
時は二月から三月へと、緩やかに移行していった。
あの邂逅の日、ちょうど上沢は高校受験を終えたころだった。そして、それから三週間が経過し、都立、私立の合否判定が出ていた。
上沢は両方とも受かり、都立を選んだ。そこは僕が通っている高校だった。
◇◇◇
その日は三月中旬の日曜日で、よく晴れた朝だった。
際立った予定もとくになく、いつもどおり公園にいくつもりであった。
出かける直前に、部屋の窓を開けてみて、体感温度を確かめた。温かな春らしさを予想していたが、びゅう、と突発的に吹いてきた風で身が縮こまるほどだった。
僕は着ていく服装についてあれこれ考えをめぐらせた。
しかし結局、いつものラフなオーバーコートをひっかけていた。半円状の糸くずがついているシックなブラウン系のマフラーを巻くことも忘れない。行く前に糸くずを裁断しようとしてはさみを持ち出したのは良かったが、さあ切るぞという段階でにわかにダメージ加工であるのを思い出した。慌てて取りやめ、糸くずは事なきを得た。しかし、相変わらずこういうことへの物覚えの悪さには辟易してしまう。
気を取り直し、マフラーの後はニットをかぶった。それから、オレンジのヘッドフォンを装着した。スイッチを入れると、心地よい音楽が流れてきた。
曲はボブ・ディランの『風に吹かれて』で、全世界への影響力を自負する椎名さんからの強引な推薦曲だった。
椎名さんとは、秀才の浪人生で二つ上の先輩だ。謎の正義感と、不思議な女の子思想を持っている人物である。
しかしそんな彼は、周囲を自分のペースに巻き込む人でありながら、どこか憎めない人でもあった。それは彼がいると、場の空気をプラスに変換させてしまうからだった。なんらかの不思議な力を持っているのだろうか、と僕はよく思った。
「――」
やがて、曲はサビの部分に入り、その歌声に耳をすませた。
僕はこの音源を渡されてから初めてボブ・ディランの存在を知ったほどの洋楽音痴で、『時代は変わる』も『ライク・ア・ローリング・ストーン』も知らなかった。もちろん『風に吹かれて』だって知らないでいた。さらには、ヒッピーの文化でさえ知らなかった。
要するに、音楽については曖昧な知識しか持ち合わせていなかった。
ある日、椎名さんがボブ・ディランの印象を躍起になって求めてきたので、ぼくはうちひしがれた子犬が思い浮かびました、と素直に答えた。
「三木。おまえはなにも分かっていねえ」
「そうですよね」
「そうだ。三木は、なにも、分かって、いねぇ」
椎名さんは、わざわざ言葉を区切りながら言った。
「でも、椎名さん」
「なんだ?」
「椎名さんも、この曲聴くの二度目ですよね」
「そうだ。文句あるか」
「いえ」
「ならいい」
椎名さんは、自信に満ちあふれた調子でうなずいた。
「とにかくだな、三木。俺がボブ・ディランの曲をもっと聞けば、世界はより良い方向に変わっていく気がするんだ」
やはり、彼はマイペースだった。
そして時に傲慢で、傍若無尽でもあった。
けど、憎めない。
それが彼の本質だった。
僕と朝日は、いつも彼に苦労していた。けどなんとなく、人生において大切なのは過度の自信ではないかと、微妙な猜疑心にかられてしまうのだった。
◇◇◇
身支度を終えた僕は、テーブルの上に置いてあった本を手に取り、外へ出た。本は由佳先輩が勧めてくれたものだった。デッサンに飽きたら読もうとハナから決めていた。
都立公園までの道程は十分ほどで、僕は上沢のことを考えていた。
上沢は、かわいさや美しさなどといったストレートな言葉ではくくることのできない不思議な魅力を持っていた。むしろそういった表現を瑣末なものとして対岸に追いやり、どこか奇妙でずれている素敵さの方に目がいった。
さらに上沢のことを好ましく思えるのは、その服装のコーディネートだった。他の女の子とは違う、一風変わった見せ方を知っていた。
上沢は、緑を基調としながらも、人がどうしても興味を引いてしまうような変わった色合いをチョイスしてきた。おかげで上沢と会った日は、色彩図鑑を見る時間が多くなってしまうほどだった。
やはり、僕にとって上沢は、特別な存在として映りつづけていた。
ややもすれば、日常から乖離してしまいそうな雰囲気を醸し出している上沢ではあった。だが、核となる信念を持ち合わせてるみたいで、僕が心配することはなにもなかった。
◇◇◇
やがて、僕は目的地の都立公園にたどり着いた。
いつもの切り株ベンチを見つけ、そこに座り込んだ。この切り株には今月に入ったあたりからひこばえが伸びていた。たった一週間足らずでかなり成長した。
とりあえず、スケッチブックを取り出した。
後、二時間くらいしたら上沢がやってくる。
そんなことを考えながら筆を進めていたが、三十分ぐらいが経過したところで上沢らしき人物を見つけた。
上沢らしき人物ではなく、確実に本人だった。
しかも、なぜか踊っていた。それもわりと近い距離で。
なのに、上沢はこちらに気付いていなかった。
木々が上沢の存在を上手いぐあいに覆い隠していて、僕が彼女を見つけたのは一種のセンサーが過敏に働いてしまったからかもしれない。
踊る上沢。梢、斜光。木々の隙間。そのおかげか、上沢自身が光に祝福されているみたいで神秘的に見えた。
しかし、やはり上沢はどこかおかしかった。
なんていうか上沢は、フィボナッチ数列を想起させる規則的な動きをしていた。
たとえて言うならば、ひまわりや松ぼっくりの造形比率にみられるうずまきのような感じで、どうしても視線を向けずにはいられない螺旋の円舞だった。
◇◇◇
数分後、上沢のところまで行って、声をかけた。
「紅茶飲む?」
僕は、ペットボトルを差し出しながら言った。
上沢は、
「あ」
とつぶやき、サファイアの瞳をこっちに向けた。
頬も膨らませている。
が、これは上沢の癖だった。その癖は、際立った感情の発露を見せるときに必ずするしぐさなのだ。
「びっくりした?」
「お、おどろかせないください」
上沢は、眉根をよせて言った。
眉根はよせているけど、なぜか微笑ましい。
要するに、その緩くふんわりとした格好のせいだ。
今日の上沢の服装も、グリーンを基調とした東欧あたりのテイストのものをチョイスしていた。種類的にはAラインというらしい。
それと肩からは、少し凝ったタスキがけのようなかんじでポシェットとバックの二つを下げていた。中には、万年筆、フェルトペン、レターセット、ペーパーナイフ、メモ帳、懐中時計、伊達眼鏡、手品道具、ドロップ缶などといった雑貨系の小物、いろんなところに栞を挟んだ数冊の本、それと簡易カメラなんかが入っているのを、僕は知っていた。
そして、なんとなくだけど。
最近、僕は、上沢から醸成されたレトロな雰囲気を感じていた。
「こ、こんなに早く先輩がくるなんて」
「うん?」
「なしです。今のなしですからね」
と言い、上沢の頬がだんだんと赤くなっていった。
こうなると上沢は、口からトランプを出すような手品をしてその場を取り繕うという理解不能の行動をしてきた。
僕が一番和んでしまう瞬間だった。
そして上沢は予想に違わず、素早くトランプを取り出した。
さあくるぞ、と思った瞬間に、上沢はいち早くやっていた。