異世界編 2-37
銀の匙をかたどった看板を下ろし、タルウィは小さく溜め息をついた。
「……これから、どうしようかな……?」
実はタルウィ、今までずっとこの宿の事ばかりを考えて生きてきたお陰で年頃の娘のやることなどの知識が欠片も無い。
あるのは同じ知識でも冒険者から聞き齧っただけのやりかただったり、野宿の時の便利道具等の知識ばかり。
簡単に言うと、タルウィはどうすれば良いのかわからずに困っていたのだ。
「……お金はあるし、どこか遠いところに行ってみようかな」
それでもなんとか曖昧にこれからの方針を決め、いざ出発……という時に、幸か不幸かこの世界に仕込まれたとある術式が発動する準備が調ってしまった。
ほんの少しの間だけ、タルウィはこの世界の全ての存在に忘れられてしまった。
人間も、魔物も、精霊も、神も、彼女を知るもの全てが彼女から意識を外した。
その瞬間、彼女の姿がぐにゃりと歪み、ゆらゆらと揺れる。
誰もそれを止めるものは居らず、タルウィはその場から忽然と消え去った。
そしていつの間にかタルウィが立っていたその場所は、水晶のような樹木が立ち並ぶ森の中だった。
「……」
「……」
……き……気まずい……。
あのあとタルウィはすぐ近くにあった家の扉を叩いていた。この場所がどこで、何で自分がここに居るかなど、知りたいことが山積みだったからだ。
しかしその家から出てきたのは無表情の、人形のような美しい少女だった。
そして私がなにも言わないうちに家の中へと上がり込まされ、気付いたら目の前に何かしらの飲み物の入ったカップが置かれていて、私と向き合う位置に座ったその少女からそれを薦められている。
「……飲まないのか?」
「い、いえ、いただきます」
その女の子に言われてカップを傾ける。………あ、美味しい……。
ほぅ、と息をついてからもう一度回りを見渡す。そこら中に見たこともない物がたくさん並んでいるこの場所は、目の前の女の子の研究室らしい。
「……さて。落ち着いたようだし、話を初めても構わないか?」
「あ、はい、お願いします」
結論だけ言うと、私はこの大陸で暮らすことになった。
私がここにいる理由も聞き、戻ることもできると聞いたけれど、わざわざ戻りたいと思うほどの未練も無く、それに私のたった一人の友人であるザリチェもこの大陸に来ていると聞いたからだ。
「……そうか。ならば、ゆっくりしていってくれ」
女の子……フルリさんは、少しだけ笑いながら歓迎してくれた。
一週間ぶりに銀の匙亭に行ってみたところ、看板は下ろされ中に人は居らず、どう見ても臨時休業ではなく閉じていた。
……久々に美味い飯が食えると思ったと言うのに…………。
……まあ、いつまでも悩んでいたところで何かが変わるわけでもなし、切り替えるとしよう。
少し落ち込んだディオのある休日。
とある日の朝のこと。
アタシの食堂の扉が開き、カランカラン、とベルが鳴る。
「悪いんだけど、準備中だよ」
「知ってるわ。変わらないわね」
懐かしい声。懐かしい響き。
その響きに引かれて顔を上げると、そこにはしばらく前に別れた友人がいた。
驚きはした。だが、ソイツがここにいてもおかしくないと思ったアタシは、昔からソイツに見せていた普通の笑顔を向けた。
「おや、久しぶりじゃないかい、タルウィ」
私の言葉にタルウィも笑顔で返す。
「本当にね。ザリチェ」
その笑顔はやっぱり同姓であるアタシをも惹き付ける。まあ、久し振りの再会と言うことで、今日の金の針亭は臨時休業とさせてもらうかね。