異世界編 2-27
正直、大したことはなかった。
皆遅く、皆鈍く、皆脆く、皆軽く、そして皆々弱かった。確かにこれが普通なら、あの母さんはともかく意外と過保護なハヴィ姉さんが私を外に出したのも頷ける。
これなら流石に負けようがない。恐らくもっと強い者は多く居るだろうが、それでも母さんやハヴィ姉さんほど強いものは早々出てこないだろう。
……出てこないと信じたい。
夕方になってその宿に行くと、ちょっとした歓迎を受けた。あの話を聞いて帰ってくると思っていなかったのか、驚きが多かったようだが。
だが、やはり食事は美味い。ここを選んで実に良かった。
……大会まであと三日。それまでのんびり鍛練でもしながら待っていようか。
あの人達が来てからどんどん人が少なくなった私のお店。数年前にはもっともっと人がいて、私が生きていくには十分すぎるだけのかせぎはあった。
でも、度重なる嫌がらせのせいでお客様はどんどん減って行き、今では名前どころかその存在すら知らない人が増えた。昔、お祖父様がこの宿を経営していた時にはこの宿を知らない人はこの町にはいなかったというのに。
それでも私はお店を続けて来た。しかし、お客様がいない宿はただの小屋。このままでは私が生きていくこともできない。
だから、今月いっぱいでこの店を畳もうと考えていた時に、久し振りに扉が優しく開いて人が入ってきた時に、私は少しだけ嬉しくなると同時に、申し訳ないような気分になった。
この宿がなくなる前に、たった一人とはいえこの宿のことを覚えていてくれる人になるかもしれないという喜びと、あの人達が来たときに迷惑をかけてしまうという申し訳なさ。
きっと、今私の目の前にいる少年が最後のお客様になるのだろう。ならば、私はこの店の最後のお客様に出きる限りの事をしよう。
そう考え、私は少年に今できる限りの笑顔を向けた。
少年はディオと名乗った。本来なら名簿に名前を書いてもらった時にわかるのだが、少年が書いた名前は私には理解できない言語で書かれていたため、直接名前を聞いたのだ。
……どこかでこの文字を見たことがあるような気がするが、思い出せないので後に回すことにした。今はお客様の事だけを考える。考えることができる。
……あれ? 涙が出てきた……。嬉しいのに……どうして?
私の作った料理をゆっくりと食べているディオ様(お客様ですから)を見ていると、少し前の事を思い出す。
前はこの宿に来る全員が、こうして幸せそうな顔をしてくれたものだった。
それが嬉しくて、私はまた掃除や料理に力をいれていた。
人を雇っていた頃は、その子と一緒に新しい料理を作ったり、どうすればもっとお客様に満足して頂けるかという意見を出しあった。
その時に喧嘩のようなこともしたけれど、私もその子も思いの方向は一緒だったので仲が拗れるような事はなかった。
けれど、彼女も嫌がらせが始まってしばらくして辞めていった。私はそれを止めることもなく、仕方ないと受け入れた。
その時から涙は流れなかったのに、今は悲しくないのに溢れてくる涙を止められない。
ふと気付くと、私の前に不思議そうな顔をしたディオ様が立っていた。
「何故泣く? 話くらいは聞くことができるぞ?」
多分、私は凄く弱っていたのだと思う。冷たくはなく、かといって温かくもないディオ様の言葉に引かれ、今の状況をすべて話してしまった。
この店のこと。昔のこと。借金のこと。その事情を、全て。
何も言わずに私の話を聞いていたディオ様は、少しの間考え事をしているようだったが、やがて何も言わずに席を立った。
そして剣を掴み、出口へと向かって歩いて行く。
……そうですよね。こんな宿になんて、居たくありませんよね………。
私の心は、黒く深い所に落ちて行く。
しかし、ディオ様は扉の前で立ち止まり、私に一言だけ言った。
「少々外出しますので、夕食の用意をお願いします」
ぱぁ……と、辺りが明るくなったような気がした。
夕食の準備が必要と言うことは、夕食はここで食べるということ。そしてそれは、またこの宿に戻ってきてくれると言うことだから。
私は、自分の顔が意識の外で笑みの形をとるのがわかった。
ランドリートの小さな宿屋の一幕。