お世辞が嫌いな王子様は、口の悪いホームレス娘を気に入ったようです
リナが目を覚ましたとき、最初に感じたのは頭痛だった。
次に寒さ。
そして三つ目は――空腹だった。
「……お腹すいた」
「でしょうね」
すぐそばから、呆れきった声が返ってきた。
リナは薄く目を開ける。
朝日が建物の隙間から差し込み、狭い路地を照らしていた。
壊れた木箱。
穴の開いた毛布。
湿った石畳。
そして、その真ん中で腕を組んでいる少女。
茶色い髪を後ろで雑に束ねたミアが、恐ろしいほど冷たい目でリナを見下ろしていた。
「……おはよう」
「おはようじゃない」
「じゃあ、おやすみ」
「寝るな!」
丸めた布が飛んできた。
「痛っ!」
「痛くしてるの!」
「二日酔いの人間に暴力振るわないでよ……」
「二日酔いを病気みたいに言わない!」
リナは頭を押さえながら身体を起こした。
背中まで痛い。
当然だ。
昨夜も石畳の上で眠ったのだから。
その足元に、空の酒瓶が一本転がっている。
嫌な予感がした。
そっとミアを見る。
ミアも酒瓶を見ていた。
「リナ」
「はい」
「昨日、銅貨六枚あったよね?」
「……あったね」
「私が渡したよね?」
「うん」
「パンを買ってきてって言ったよね?」
「言った」
「このお酒、いくら?」
逃げられない。
リナは右手の指を五本立て、さらに左手の人差し指を一本立てた。
「……六枚」
「リナァァァ!」
「朝から叫ばないで! 頭に響く!」
「誰のせいよ!」
ミアが今度は毛布を投げつけてきた。
リナはそれを顔で受け止め、そのまま石畳に倒れた。
「ああ……もう駄目。死ぬ」
「勝手に死んで」
「親友が冷たい」
「親友だから怒ってるの!」
リナは毛布の下で少し笑った。
こんな朝を、もう何年繰り返しているだろう。
二十歳になったリナには、家がなかった。
決まった仕事もない。
貯金など当然ない。
持っているのは古い外套と、小さな鞄と、欠けた木のコップ。
それからミア。
物みたいに数えたら怒られるだろうけれど、リナにとって最後の一つが何より大切だった。
「ほら」
ミアが何かを差し出した。
硬いパンだった。
しかも半分しかない。
「それだけ?」
「朝ごはん」
「ミアは?」
「もう食べた」
即答だった。
リナは黙って彼女を見る。
ミアが鼻に触れた。
「何?」
「昨日は何食べた?」
「パン」
「どこの?」
「……パン屋」
「何パン?」
「普通のパン!」
「普通の何パン?」
「パンはパンでしょ!」
「嘘つくとき鼻触る癖、直ってないね」
ミアの手が止まった。
「…………」
「昨日も食べてないでしょ」
「食べたよ」
「ミア」
「…………」
リナはため息をついた。
鞄の底を探る。
昨日、荷運びを手伝った商人からもらった干し肉が一切れだけ残っていた。
最後の食料だった。
それをミアへ投げる。
「食べて」
「え?」
「私はいらない」
「絶対お腹空いてるでしょ」
「空いてない」
ぐううううう。
路地裏に情けない音が響いた。
ミアがじっと見る。
「……お腹は正直だね」
「うるさい」
「半分ずつ」
「全部食べな」
「半分」
「全部」
「じゃあ私も食べない」
「子供?」
「リナにだけは言われたくない」
結局、パンも干し肉も半分にした。
ミアがパンを割る姿を見ていると、ときどき昔を思い出す。
初めて会った日のことだ。
あの日も、リナは腹を空かせていた。
まだ十五歳だった。
父と母がいなくなって、三日目だった。
父は昔から酒を飲んだ。
仕事を失ってからは、もっと飲むようになった。
最初は夜だけだった。
次は昼から。
そのうち朝から飲むようになった。
母は父を止める代わりに、一緒に飲むようになった。
家賃が払えなくなった。
家具が消えた。
家が消えた。
最後に残ったのは、三人と酒瓶だけだった。
『少しだけ貸してくれ、リナ』
『これ、パンのお金だよ』
『明日返す』
『昨日もそう言った』
『父親を信用できないのか?』
『信用してほしかったら、父親らしいことしてよ!』
あの日、父はリナを叩いた。
翌朝にはいなくなっていた。
母は泣いた。
そして数週間後。
『仕事を探してくるから』
そう言って出ていった。
帰ってこなかった。
三日後。
空腹で動けなくなっていたリナの前に、一人の少女が座った。
『死んでる?』
『……まだ』
『そっか』
その少女は自分のパンを見た。
小さなパンだった。
しばらく迷ってから半分に割った。
『はい』
『いらない』
『お腹鳴ってるよ』
『鳴ってない』
ぐうううう。
『鳴った』
『……うるさい』
それがミアだった。
「リナ?」
現在のミアの声で、リナは我に返った。
「何?」
「ぼーっとしてた」
「二日酔い」
「便利だね、その言葉」
「でしょ?」
「褒めてない」
リナは笑った。
そして立ち上がる。
「仕事探してくる」
「お酒買わないでね」
「買わない」
「本当に?」
「たぶん」
「リナ!」
「冗談!」
そう言って、リナは路地を出た。
*
三軒。
全部断られた。
「人手は足りてる」
「女には無理だ」
「もっと清潔にしてから来い」
最後の店を出たときには昼を過ぎていた。
「……最悪」
リナは噴水の縁に腰を下ろした。
腹が減った。
ポケットを探る。
銅貨が一枚。
正面にはパン屋。
右には酒場。
リナは右を見る。
「…………」
酒場の看板が風に揺れていた。
「一番安いやつなら――」
「パンにしたほうがいいと思うけど」
突然、後ろから男の声がした。
リナは振り返る。
知らない青年だった。
金色の髪。
整った顔。
清潔な服。
腰には剣。
どう見ても、この辺りの人間ではない。
「誰?」
「通りすがり」
「じゃあ通り過ぎて」
「手厳しいな」
青年は苦笑した。
「君、腹が減ってるんだろ?」
「減ってない」
ぐうううう。
沈黙。
青年がリナを見る。
リナも青年を見る。
「……今のは?」
「馬」
「馬はいないけど」
「遠くにいる」
「君の腹から聞こえた気がする」
「気のせい」
青年が吹き出した。
「笑うな!」
「ごめん。馬は予想してなかった」
「喧嘩売ってる?」
「まさか」
青年は近くの屋台へ歩いていった。
しばらくして戻ってくる。
焼きたてのパンと串焼き肉を持っていた。
「はい」
「何?」
「昼食」
「見ればわかる」
「じゃあ食べればいい」
「いらない」
「でも腹が――」
「いらない」
声が低くなった。
青年の笑顔が消える。
リナは無意識に一歩後ろへ下がっていた。
「……何が欲しいの?」
「何も」
「嘘」
「本当に何も」
「ただほど高いものはない」
昔からそうだった。
食事をやる。
だから働け。
泊めてやる。
だから従え。
助けてやる。
だから身体を差し出せ。
誰かが差し出す手の裏には、いつだって値札が付いていた。
青年は少し考えた。
「じゃあ、取引にしよう」
「取引?」
「君はこれを食べる」
「それで?」
「十分、俺と話す」
「……それだけ?」
「それだけ」
「変な人」
「よく言われる」
リナはパンを見る。
いい匂いだった。
腹がまた鳴った。
「……十分だけ」
「成立だ」
二人は噴水の縁に座った。
一口。
「……おいしい」
「そんなに?」
「昨日からパン半分と干し肉半分しか――」
言ってから口を閉じた。
「昨日から?」
「聞かなかったことにして」
リナは慌てて食べる。
「ゆっくり食べないと――」
「んぐっ!」
「ほら!」
青年が水を差し出した。
リナは一気に飲む。
「死ぬかと思った……」
「食事で死なないでくれ」
「誰のパンよ」
「俺のせい!?」
思わず笑った。
青年も笑う。
「名前は?」
「先に名乗るのが礼儀でしょ」
「ああ、そうだな。レオン」
「リナ」
「よろしく、リナ」
「よろしくする予定ないけど」
「あと七分ある」
「数えてるの?」
「高いパンだったから」
「けち」
「買ったの俺だぞ?」
また笑った。
変な男だった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
*
十分は一時間になった。
「レオンって何してる人?」
「家の仕事を手伝ってる」
「何の仕事?」
「いろいろ」
「怪しい」
「事情があるんだ」
「女?」
「なぜそうなる?」
「金持ちの男が隠すことなんて女か金でしょ」
「偏見がひどい」
「経験則」
レオンは困ったように笑った。
「君は、本当に思ったことをそのまま言うんだな」
「駄目?」
「いや」
レオンは少しだけ遠くを見る。
「むしろ珍しい」
「周りに嘘つきしかいないの?」
「嘘つきというか……」
少し考えてから言った。
「俺の周りには、よく笑う人が多い」
「いいじゃん」
「本当に面白いのか、笑ったほうが得だから笑っているのか、時々わからなくなる」
「面倒くさい世界で生きてるんだね」
レオンが目を丸くする。
そして笑った。
「そうかもしれない」
「私は嫌い」
「何が?」
「人によって顔変える人」
「どうして?」
リナは肩をすくめた。
「昔から、そういう大人ばっかり見てきたから」
そこで話を切った。
レオンも、それ以上聞かなかった。
それが少し嬉しかった。
*
その翌日も、レオンは来た。
さらに翌日も。
三日目にはミアに見つかった。
「この人!?」
ミアがレオンを指差した。
「指差さない」
「リナに食べ物あげた男!」
「言い方」
「初めまして。レオンです」
「何が目的ですか?」
「ミア!」
「大事でしょ!」
ミアはレオンを睨んだ。
「リナ、お金ないですよ」
「知ってる」
「家もない」
「それも聞いた」
「財産もない」
「そこまで言わなくてよくない?」
「そして酔うと面倒くさいです」
「ミア!」
レオンが口元を押さえた。
「笑った!?」
「ご、ごめん」
ミアはさらに目を細める。
「身体目当てならやめてください」
レオンの笑みが消えた。
「違う」
「本当に?」
「約束する」
「貴族って約束破るから嫌い」
その言葉に、レオンの表情がわずかに強張った。
リナは気づいた。
しかし理由はわからなかった。
「ミア」
「何?」
「もういいよ」
「でも――」
「大丈夫」
ミアは不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
レオンはしばらく黙っていた。
そしてミアへ言った。
「心配するのは当然だと思う」
「……え?」
「俺でも同じ立場なら疑う」
ミアが少し驚いた顔をする。
「だから、信用しなくていい。見ていてくれればいい」
「変な人」
「それ、リナにも言われた」
「でしょ?」
「意気投合しないで」
リナはため息をついた。
*
問題は、その翌日に起きた。
「臭う」
レオンが言った。
「殺す」
「待って! 悪口じゃない!」
「今、私見ながら臭うって言った!」
「事実を――」
「事実でも言っていいことと悪いことがある!」
「最後に風呂に入ったのは?」
「…………」
「リナ?」
「雨の日」
「いつの?」
「……先月?」
ミアが横から口を挟む。
「二か月前」
「裏切り者!」
結局、レオンが宿屋の女将に金を払い、風呂を借りることになった。
「嫌! 自分で入る!」
「昨日もそう言って逃げたでしょ!」
女将がリナを浴室へ押し込む。
「レオン! 助けて!」
扉の向こうから返事。
「頑張れ」
「裏切り者二号!」
一時間後。
リナは浴室から出てきた。
銀色の髪から汚れが落ち、本来の輝きを取り戻している。
青い瞳。
白い肌。
女将から借りた簡素なワンピース。
レオンが固まった。
「何?」
「……綺麗だ」
リナの笑顔が消えた。
胸の奥が冷える。
まただ。
その言葉。
あの男も最初にそう言った。
『磨けば価値がありそうだ』
ヴァルガン伯爵。
忘れたかった声が蘇る。
「リナ?」
「……いくら?」
「え?」
「これ」
服を掴む。
「風呂。服。宿代。いくら?」
「別に返さなくていい」
「それが一番嫌い」
「どうしたんだ?」
「何が欲しいの?」
「何も――」
「そんなわけない!」
声が響いた。
レオンが黙る。
リナ自身も、なぜこんなに腹が立っているのかわからなかった。
「前にもいたの」
「……誰が?」
「親切な貴族様」
唇が震えた。
「食事をくれるって。部屋もくれるって。綺麗な服も着せてくれるって」
レオンは何も言わない。
「その代わり、私に自分のものになれって言った」
「……何?」
「断ったら、笑われた」
今でも覚えている。
『路地裏で寝る女に拒否する権利があると思っているのか?』
「兵士に腕を掴まれた。馬車に乗せられそうになった」
あの日、ミアが石を投げた。
リナは兵士の手に噛みついた。
二人で走った。
走って、走って、吐くまで走った。
「だから教えて」
リナはレオンを見る。
「あなたはいくら?」
長い沈黙。
レオンは近づかなかった。
手も伸ばさなかった。
「ゼロだ」
「……え?」
「何も返さなくていい」
「信じろって?」
「信じなくていい」
リナが目を見開く。
「今は」
レオンは静かに言った。
「俺が何をするか見て、それから決めればいい」
「…………」
「もし俺が君に、助けた代わりに何かを要求したら――」
少し笑う。
「そのときは殴ってくれ」
「本当に?」
「……できれば加減して」
リナは思わず笑ってしまった。
「馬鹿」
「よく言われる」
少しだけ。
本当に少しだけ。
リナは彼を信じてみようと思った。
*
数日後。
その男が現れた。
豪華な馬車。
黒い制服の兵士。
扉に刻まれた紋章。
見た瞬間、リナの指先が冷たくなった。
「リナ?」
ミアが囁く。
「大丈夫」
嘘だった。
馬車から男が降りる。
ヴァルガン伯爵。
高価な黒い外套。
宝石の指輪。
整えられた髭。
笑っているのに、目だけは笑っていない。
「随分と汚れた場所だ」
伯爵は路地を見回した。
「王都にこのような場所が存在するとは嘆かわしい」
一人の老人が前へ出る。
「伯爵様、我々も好きで――」
「誰が発言を許した?」
兵士が老人を突き飛ばした。
「やめて!」
リナが声を上げた。
伯爵がこちらを見る。
一瞬、誰かわからないようだった。
そして。
「……おや」
口元が歪む。
「誰かと思えば」
視線が頭から足まで這う。
リナは吐き気を覚えた。
「やはり、汚れを落とせば見られるものになる」
「あなたは高い服着ても中身は変わらないね」
「リナ……!」
ミアが袖を引く。
伯爵は笑った。
「相変わらず口が悪い」
「相変わらず気持ち悪い」
「気に入っていたのだがね。その目も、その口も」
「私は嫌いだった」
「今からでも遅くない」
「何が?」
「私の屋敷へ来い」
ミアがリナの腕を掴んだ。
伯爵は続ける。
「部屋を与えよう。食事も、服も、酒も好きなだけ」
「首輪も?」
伯爵の笑みが消えた。
「言葉を選べ」
「あなたが選んだことでしょ」
リナは震える脚に力を入れた。
「私はあなたの奴隷にはならない」
「奴隷?」
伯爵が鼻で笑う。
「路上で腐るより、私に仕えるほうが幸福だと思わないのか?」
「思わない」
「愚かな女だ」
「知ってる」
伯爵は周囲を見渡した。
「まあいい」
懐から紙を取り出す。
「七日後、この区画を封鎖する」
ざわめきが広がった。
「……何?」
「王都美化計画だ。この地区に不法滞在している者は全員退去してもらう」
「どこへ?」
「それは私の知ったことではない」
ミアの手に力が入った。
「ふざけないで」
「命令だ」
「ここで暮らしてる人が何人いると思ってるの!?」
「暮らしている?」
伯爵は笑った。
「これは暮らしているとは言わない」
リナの中で何かが切れた。
「じゃあ、あなたが決めるの?」
「何?」
「誰の生活に価値があるか、あなたが決めるの?」
「少なくとも、働きもせず街を汚す者よりは社会に貢献している」
「みんな働いてる!」
「ならばなぜ路上にいる?」
答えに詰まった。
伯爵は満足そうに笑った。
「価値のない者に土地を与えるほど、この国は豊かではない」
そう言い残し、馬車へ戻る。
乗り込む直前、リナを振り返った。
「気が変わったら屋敷へ来い」
「死んでも嫌」
「七日後には、その強がりも聞けなくなるだろう」
馬車が去っていく。
誰も話さなかった。
しばらくしてミアが小さく言った。
「……どうしよう」
リナには答えられなかった。
*
「そんな命令、認められるはずがない」
話を聞いたレオンは言った。
「認められてるから来たんでしょ」
「何かの間違いだ。ヴァルガン伯爵と話せば――」
リナは笑った。
「何?」
「いや」
「言ってくれ」
「お花畑のお坊ちゃんだなって」
「……そこまで?」
「金持ちってすごいね。怪物にも丁寧にお願いすれば噛むのやめると思ってる」
「でも法律がある」
「法律?」
リナは彼を見る。
「私が連れていかれそうになったとき、その法律はどこにいたの?」
レオンが黙る。
「私たちにはね、法律って遠いの」
「…………」
「助けてって言うには役所へ行かなきゃいけない。役所へ行けば住所を聞かれる。住所がないって言えば追い出される。だから最初から助けなんて求めない」
レオンの顔から反論が消えた。
「……知らなかった」
「でしょうね」
「なら、教えてくれ」
予想外の言葉だった。
「何を?」
「俺が知らないことを」
レオンは真っ直ぐリナを見る。
「そして、伯爵が本当に何かしているなら証拠を探そう」
「証拠?」
「命令を止めるには必要だ」
リナは腕を組んだ。
「やっぱり面倒くさい世界」
「ああ」
レオンが苦笑する。
「それは認める」
*
調べ始めて二日目。
最初の手掛かりを見つけたのはミアだった。
「これ見て」
古い紙だった。
「読めない」
「知ってる」
「馬鹿にした?」
「事実」
「ミアまで!」
ミアは少しだけ文字が読めた。
亡くなった父親から習ったらしい。
「雇用契約書」
「誰の?」
「トーマスさん」
リナは知っていた。
三か月前まで同じ路地にいた男だ。
突然いなくなった。
「伯爵の鉱山で働いてるって」
「仕事見つかったんじゃないの?」
「ここ」
ミアが紙を指差す。
「食事代、宿泊費、道具代、紹介料……全部、借金になってる」
「いくら?」
「働いても返せないくらい」
リナの背筋が冷えた。
「つまり?」
後ろからレオンが紙を見る。
「辞められない」
リナが振り返る。
「どういうこと?」
「借金を返すまで契約解除を認めないと書いてある」
「それって……」
「実質的な強制労働だ」
リナはヴァルガンの言葉を思い出した。
『価値のない者』
「……最初からこれが目的?」
ホームレスを追い出す。
行き場をなくす。
仕事と寝床を差し出す。
そして借金を背負わせる。
「最低」
吐き捨てるように言った。
「まだこれだけじゃ弱い」
レオンが言う。
「何で!?」
「伯爵本人が指示した証拠がない」
「じゃあ探す」
「どうやって?」
リナは笑った。
「あなたにはできない方法で」
*
貴族には見えないものがある。
正確には――見ようとしないものがある。
路地で眠る老人。
靴磨きの少年。
市場の荷物運び。
酒場の裏で残飯を集める女。
彼らの前で、金持ちは平気で秘密を話す。
そこに人間がいると思っていないから。
「伯爵の馬車なら毎週木曜に倉庫へ来るよ」
「夜中に?」
「ああ」
「何運んでる?」
「知らねえ。でも帰りは空だ」
別の男が言った。
「伯爵の執事なら鉱山の監督とよく酒飲んでる」
「どこで?」
「銀鹿亭」
そして別の女性。
「この土地、もう買い手が決まってるって聞いたよ」
「誰?」
「名前は知らない。でも伯爵と繋がってる商会」
一つ。
また一つ。
欠片が集まる。
ミアが記録する。
レオンが公的な書類と照合する。
リナが街を歩き、人の話を聞く。
三人だからできた。
*
その夜。
リナとレオンは宿屋の屋根に座っていた。
「飲む?」
リナが瓶を差し出す。
「遠慮する」
「高いやつじゃないよ」
「それならなおさら」
「失礼」
リナは一口飲んだ。
レオンが瓶を見る。
「好きなのか?」
「何が?」
「酒」
「嫌い」
「……嫌い?」
「うん」
「毎日飲んでるのに?」
「父親も飲んでた」
口から出てしまった。
リナは夜空を見る。
「母親も」
レオンは黙っている。
「父親は仕事なくしてからずっと飲んでた。母親もそのうち一緒に飲むようになった」
「…………」
「家賃のお金も。食事のお金も。最後には全部酒になった」
「それで……」
「家なくなった」
笑ってみせる。
「笑えるでしょ?」
「笑えない」
「だよね」
瓶を揺らす。
「父親がよく言ってた。飲めば嫌なこと忘れられるって」
「君は、その言葉が嫌いだった?」
「大嫌い」
「なら、どうして飲む?」
リナは答えなかった。
風が銀髪を揺らす。
「……本当だったから」
「え?」
「飲めば、少しだけ忘れられる」
父親の怒鳴り声。
母親の背中。
伯爵の手。
兵士に掴まれた腕。
「だから飲む」
「忘れたいから?」
「眠りたいから」
リナは笑った。
「酔って寝れば、夢見ないから」
レオンは何も言わなかった。
慰めの言葉もなかった。
それでよかった。
「可哀想って言わないの?」
「言ってほしい?」
「絶対嫌」
「じゃあ言わない」
「変な人」
「それ何回目?」
「数えてない」
少しだけ沈黙。
「リナ」
「何?」
「君の目、綺麗だと思う」
身体が固まる。
「……またそれ?」
「色じゃない」
「じゃあ何?」
「怒ってるとき、全部顔に出る」
「褒めてないじゃん!」
レオンが笑った。
「だから好きだ」
「…………」
「嘘がないから」
リナは瓶を口元まで持っていった。
でも、なぜか飲めなかった。
「……馬鹿」
それしか言えなかった。
*
翌日。
すべてが壊れた。
役所へ資料を確認しに行ったときだった。
「殿下!」
役人が突然レオンの前で頭を下げた。
リナは止まった。
ミアも止まった。
レオンも止まった。
「……今、何て?」
誰も答えない。
「ミア」
「わ、私に聞かないで」
「レオン」
「リナ、これは――」
「殿下って何?」
「…………」
「ねえ」
レオンが息を吐いた。
「俺は、この国の第一王子だ」
沈黙。
「…………は?」
ミアの顔が真っ青になる。
「お、お、お、おお……」
「落ち着いて」
「王子様ぁぁぁ!?」
役所中に響いた。
リナはレオンを見る。
「あなたが?」
「ああ」
「王子?」
「ああ」
「この国の?」
「他にどの国が――」
ぱんっ。
乾いた音。
リナの手のひらが痛かった。
レオンの頬が赤くなる。
ミアが固まった。
役人たちも固まった。
「リ、リナ……」
「何?」
「王子様叩いた」
「知ってる」
「死刑になったらどうするの!?」
レオンが頬を押さえる。
「死刑にはしない」
「よかったぁ……!」
「そこ!?」
リナはレオンを睨んだ。
「騙した」
「騙すつもりは――」
「言わなかった!」
「身分を隠して街を見ていたんだ」
「私には関係ない!」
「リナ」
「私、思ったの」
声が震えた。
「あなたには、何が本当か疑わなくていいって」
レオンの表情が変わった。
「でも結局、隠してた」
「……すまない」
「嫌い」
その言葉を吐いて、リナは走った。
ミアが呼ぶ。
止まらなかった。
*
翌朝。
七日目だった。
兵士たちが来た。
ヴァルガン伯爵も。
「時間だ」
荷物が投げ出される。
老人が引きずられる。
子供が泣く。
ミアがリナの横に立った。
「レオンは?」
「知らない」
「来ないの?」
「知らない」
「喧嘩したから?」
「……知らない」
怖かった。
逃げたかった。
でも。
「リナ」
「ミアは逃げて」
「嫌」
「危ないよ」
「嫌」
「ミア!」
「私が初めてリナにパンあげた日、覚えてる?」
リナが黙る。
「死にそうだった」
「死んでない」
「ほとんど死んでた」
「失礼」
「私はあのとき、危ないかどうかなんて考えなかった」
ミアがリナの手を握る。
「だから今度は、私に決めさせて」
「…………」
「一緒にいる」
リナは泣きそうになった。
「馬鹿」
「リナにだけは言われたくない」
二人で笑った。
「何がおかしい?」
ヴァルガン伯爵の声。
リナは前へ出た。
「伯爵」
「またお前か」
「質問がある」
「私にはない」
「この土地、誰に売るの?」
伯爵の足が止まる。
「何の話だ?」
「まだ追い出してもいないのに、買い手決まってるんだってね」
周囲がざわつく。
「くだらない噂だ」
「じゃあ鉱山の契約は?」
ミアが紙を掲げる。
伯爵の表情が変わった。
「食事代、宿泊費、道具代。働けば働くほど借金が増える」
「合法的な契約だ」
「辞められないのに?」
「借金は返すのが当然だ」
「最初から返せない金額にしてるくせに」
「証拠は?」
「あるよ」
リナは笑った。
「あなた、本当に馬鹿だね」
「何?」
「私たちのこと、見えてなかったでしょ」
靴磨きの少年が前へ出る。
老人が出る。
市場の女が出る。
荷運びの男が出る。
「だから私たちの前で何でも喋った」
一人。
また一人。
証言する。
倉庫。
鉱山。
金。
土地。
伯爵の顔から余裕が消えていく。
「黙れ!」
怒鳴った。
「こんな連中の証言に何の価値がある!」
リナは彼を見る。
「それ」
「何?」
「あなたの負けた理由」
「何を――」
「私たちを人間だと思ってなかった」
リナは一歩近づく。
「だから、見られてることにも気づかなかった」
伯爵の顔が歪む。
「この女を捕らえろ!」
兵士が動いた。
怖い。
足が震える。
昔と同じだ。
腕を掴まれる。
連れていかれる。
また――。
「その命令は待ってもらおう」
声が響いた。
兵士たちが止まる。
人々が道を開けた。
レオンが歩いてくる。
今日はいつもの服ではない。
王家の紋章が胸にあった。
「で、殿下……」
伯爵の顔から血の気が引く。
レオンはリナを見る。
一瞬だけ目が合う。
それから伯爵へ向き直った。
「ヴァルガン伯爵。あなたには違法な債務契約、強制労働、土地取引における不正、そして複数の住民に対する暴行の疑いがある」
「誤解です!」
「そうかもしれない」
伯爵が一瞬安心する。
「だから正式に調べる」
「殿下、しかし、このような浮浪者の証言など――」
「彼らは国民だ」
静かな声だった。
それだけで、伯爵が黙った。
「そして」
レオンがリナを見る。
「彼女が真実を語っているのは、俺が王子だからではない」
リナは息を止める。
「ミアが契約書を見つけた。ここにいる人々が証言した。リナがそれらを繋いだ」
レオンは伯爵へ視線を戻す。
「俺の身分がすることは一つだけだ」
「…………」
「今度こそ、あなたに彼らを黙らせないことだ」
伯爵の顔が歪んだ。
「私はこの国にどれほど貢献したと思っている!」
リナが口を開く。
「だから?」
「何?」
「お金持ってたら、人を奴隷にしていいの?」
「私は仕事を与えた!」
「逃げられない仕事は仕事って言わない!」
「路上で腐るよりましだ!」
「それを決めるのはあなたじゃない!」
リナの声が響く。
「私、酒飲みだよ」
周囲が静まる。
「家もない。学校にもほとんど行ってない。パンだって盗んだことある」
ミアが小声で言う。
「三回」
「今それ言う!?」
「正確にはね」
「二回だと思ってた!」
「三回」
「あとで話そう!」
誰かが笑った。
リナも少し笑った。
そして伯爵を見る。
「でもね」
もう震えていなかった。
「私は一度も、人間に値段をつけたことはない」
伯爵は何も言えなかった。
「あなたより貧乏でよかった」
リナは笑う。
「少なくとも、あなたみたいに貧しくないから」
兵士たちが伯爵を囲んだ。
*
数週間後。
ヴァルガン伯爵の不正は次々と明らかになった。
違法な契約は無効。
鉱山の労働者たちは解放された。
土地の不正取引も停止。
伯爵の財産の一部は差し押さえられた。
そして路地の一角には、小さな共同宿泊所と仕事を紹介する事務所が作られることになった。
リナはその建物の前に立っていた。
「信じられない」
隣でミアが言う。
「何が?」
「屋根がある」
「そこ?」
「雨降っても濡れないよ!」
「屋根ってそういうものだから」
「ベッドもある!」
「知ってる」
「リナ!」
「何?」
「私たち、家あるよ!」
その瞬間。
リナは何も言えなくなった。
家。
十五歳のときに失った言葉。
「……うん」
それだけ言った。
ミアが抱きついてくる。
「苦しい」
「我慢して」
「横暴」
「嬉しい?」
「……まあね」
リナも抱き返した。
*
「リナ」
聞き覚えのある声。
振り返る。
レオンだった。
いつもの簡素な服を着ている。
「王子様が一人で歩いていいの?」
「護衛なら向こうにいる」
「本当だ」
「それと……」
レオンが頬に触れる。
「今度は叩かないでくれると助かる」
「考えとく」
「そこは約束してくれ」
二人とも笑った。
少し沈黙。
「リナ」
「何?」
「改めて謝りたい」
「身分隠してたこと?」
「ああ」
「まだ怒ってる」
「そうか」
「でも」
リナは彼を見る。
「嫌いではなくなった」
「それは進歩?」
「かなり」
「よかった」
レオンが安堵したように笑う。
「それで、一つ聞きたい」
「何?」
「夕食に行かないか?」
「無料?」
「……無料」
「行く」
「即答だな」
「食事は大事」
「いや、その……」
レオンが珍しく言葉に詰まる。
「できれば、デートとして」
「…………」
「…………」
リナは瞬きをする。
「あ」
「今気づいた?」
「そういう意味?」
「そういう意味」
「…………」
「嫌なら――」
「無料?」
「そこまだ重要!?」
「重要」
「無料だよ!」
「じゃあ行く」
レオンが頭を抱える。
「俺、食事に負けてないか?」
「今のところね」
「今のところ?」
リナは少し笑う。
「頑張れば?」
レオンが顔を上げた。
「頑張る」
「期待しないで待ってる」
「どっちなんだ」
「さあ?」
その夜。
リナは新しい部屋の窓辺に座っていた。
小さな部屋だった。
ベッドが二つ。
机が一つ。
椅子が二脚。
それだけ。
でも、屋根があった。
扉があった。
鍵まであった。
ミアはすでにベッドに入っている。
「リナ」
「何?」
「今日、楽しかった?」
「普通」
「顔、にやけてる」
「にやけてない」
「デートだったんでしょ?」
「ご飯食べただけ」
「王子様と」
「うるさい」
リナは鞄から酒瓶を取り出した。
いつもの安酒。
栓に指をかける。
そこで止まった。
父の声を思い出す。
『飲めば忘れられる』
母の背中を思い出す。
石畳を思い出す。
ヴァルガンを思い出す。
そして。
パンを半分に割ってくれた十五歳のミア。
自分の言葉を最後まで聞いてくれたレオン。
今日初めて手に入れた、この小さな部屋。
明日の仕事。
次の夕食。
まだ知らない未来。
「リナ?」
ミアが布団から顔を出す。
「飲まないの?」
リナは酒瓶を見る。
ゆっくりと机の上に置いた。
「今日はいい」
「珍しい」
「うん」
「どうして?」
リナは窓を開けた。
夜風が銀色の髪を揺らす。
昔は、明日が来るのが嫌だった。
目を閉じれば昨日が追いかけてきた。
だから酒を飲んだ。
何も見ないために。
何も期待しないために。
けれど今夜は。
明日の自分が何をしているのか、少しだけ見てみたかった。
リナは目を閉じた。
そして笑った。
「今日は、夢を見たいから」
窓の外には、いつもと同じ王都の夜が広がっていた。
けれどリナには、その景色が昨日までとは少しだけ違って見えた。
もう彼女には、帰る場所があった。
そして明日を待つ理由もあった。
――了
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