距離の再確認
金曜日の朝の教室は、いつもより少しだけ落ち着きがなかった。
今日は体育で体力テストがある。そんな理由だけで、教室の空気は微妙に浮ついている。
「シャトルラン憂鬱すぎ」
「中学の時より落ちたらマジで笑えないんだけど」
そんな声があちこちから聞こえる中、藍原凛は自分の席で静かにノートを閉じていた。
騒ぎの中心にいるわけでも、完全に離れているわけでもない。
誰かが話しかければ自然に応じる。
でも、自分から前に出ることはない。
それでも、視線は集まる。
凛の周りには、いつも一定の距離で人がいる。
友達はいるが、密集しすぎない。
それが彼女の“居場所”を、かえって安定したものにしていた。
(……やっぱり、教室だと違うな)
玲は、窓際の席からその様子を眺めていた。
音楽室で見る凛は、もっと静かで、もっと曖昧だった。
人気者としての輪郭が、あの場所では少し溶けている。
体育館へ移動する途中も、凛の存在感は変わらない。
人の流れが、わずかに彼女を避けるように動く。
尊敬と遠慮が混ざった空気。
誰も意識していないようで、全員が意識している。
体力テストが始まると、その評価は数字として表れた。
反復横跳び、上体起こし、立ち幅跳び。
凛の記録はどれも安定して高い。
「やっぱ藍原さん、何でもできるな」
「中学のときも有名だったよね」
特別に騒がれるわけではない。
だが、当然のように“できている”前提で見られている。
それが、凛の立ち位置だった。
玲の番が回ってくる。
球技はあまり得意ではないが
体力テストの個人競技では平均より上の記録を出す。
「月城、意外だな」
「運動しなさそうなのに」
測定係の男子が、軽く驚いた声を出す。
「……そう?」
それ以上は続かない。
玲がどれだけ走れたかよりも、
次は誰か、という話題の方が優先される。
(これでいい)
注目されるのは苦手だ。
ただ、凛が当然のように評価されているのを見ると、
自分とは住む場所が違うのだと、改めて思う。
体育館の向こうで、凛が友達と話している。
その表情は柔らかいが、どこか“役割”を背負っているようにも見えた。
音楽室で見せる、力の抜けた表情とは、少し違う。
体育が終わり、昼休み。
教室には疲労と解放感が混ざった空気が流れている。
凛は友達と机を寄せ、弁当を広げていた。
「凛、今日もすごかったね」
「うん、ありがとう」
控えめな返事。
自慢するでも、卑下するでもない。
そのやり取りを見て、玲は思う。
(ちゃんと“藍原凛”をやってる)
誰かの期待を裏切らない立ち位置。
それはきっと、楽なものじゃない。
玲もある意味目立たないように仮面を付けているため、苦労を勝手に共感していた。
午後の授業前、廊下で男子の会話が聞こえた。
「藍原さん、マジでレベル高いよな」
「近づける気しねぇ」
「告白とか、正直無理だろ」
「振られたら一気に噂回るし」
「今までもたくさん玉砕した話きいたもんな」
冗談めいた口調でも、
本音が混じっているのは分かる。
“好き”と同時に、“怖さ”が来る。
それが、凛に向けられる感情の正体だ。
玲は、その言葉を聞きながら、
音楽室での静かな時間を思い出していた。
あそこでは、凛は誰の視線も気にしていなかった。
成績も、人気も、評価も関係ない。
ただ、少し疲れたように椅子に座り、
短い言葉で、ぽつぽつと話すだけ。
(……同じ人、なんだよな)
教室の凛と、音楽室の凛。
どちらも本物で、どちらも嘘じゃない。
でも、後者を知っている人間は、ほとんどいない。
それが、
嬉しいのか、怖いのか。
玲自身、まだ分かっていなかった。
ただ一つ言えるのは、
クラスで見上げられる存在としての凛と、
静かな場所で隣に座る凛の間には、
数字では測れない距離があるということだ。
そして、その距離を知ってしまった以上、
元の位置には戻れない気がしていた。
夕方、凛が帰宅すると、家はやはり静かだった。
玄関で靴を揃え、廊下を抜ける。
リビングの照明は落ちたまま。
ダイニングテーブルの上には、きれいに畳まれたメモが一枚置かれている。
『今週は帰りが遅くなります。
夕飯は冷蔵庫に入れてあります』
母の字は、無駄がなくて読みやすい。
仕事のメールと同じ書き方。
(……お疲れさま)
心の中でそう呟きながら、凛はメモを裏返した。
母は忙しい。
それは昔から変わらない。
父は今も海外。
電話で話すことはあっても、日常を共有する距離ではなかった。
誰も悪くない。
ただ、それぞれが自分の場所で必死なだけだ。
冷蔵庫から夕飯を取り出し、電子レンジを回す。
機械音が、やけに大きく響く。
凛はカウンターに肘をつき、ガラスに映る自分を見た。
制服は整っている。
髪も乱れていない。
表情も、きっと“ちゃんとしている”。
——小さい頃から、そうであるようにしてきた。
「凛は、しっかりしてるから助かるわ」
母がそう言ったのを、凛はよく覚えている。
褒め言葉だった。
だから、応えようと思った。
泣かない。
弱音を吐かない。
余計な心配をかけない。
それが、この家で一番うまくやる方法だった。
「……いただきます」
一人分の食事に声を出す。
返事は、やっぱり返ってこない。
(ちゃんとしていれば、大丈夫)
そう信じてきた。
ちゃんとしていれば、
家の中は静かに回る。
誰も困らない。
でも最近、その考えが少しだけ揺らぐ。
——旧音楽室での、あの時間。
無理に笑わなくてよかった。
評価されなくてもよかった。
何かを証明しなくても、隣にいていい空気。
(月城くん……)
名前を心の中で呼ぶだけで、
なぜか肩の力が抜けてしまう。
それが、少し怖い。
完璧じゃない自分を、
そのまま見られてしまいそうで。
凛は食事を終え、静かな部屋へ戻る。
ベッドに腰を下ろし、天井を見る。
「……ちゃんとしてないと、だめなのに」
そう呟いた声は、
誰に向けたものでもなく、
それでもどこか、否定してほしい響きを含んでいた。




