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また放課後のちょっとした雑談

五月の光が校舎の窓から差し込み、休み明けの廊下には遠足の余韻と、生徒たちのざわめきが混ざっていた。生徒たちが笑い声を交わしながら帰り支度を整え、床には落ち葉が舞い込んでいる。校外学習は終わったが、空気にはまだ外の風景と木々の匂いが残っていた。


玲は窓際の自分の席で鞄を抱え、ぼんやりと景色を眺めていた。クラスメイトの笑い声や談笑が耳に届くが、自分から輪の中に入ろうという気は起きない。中学の頃の記憶が抑止して、彼は“程よい距離”を保つことを無意識に選んでいた。遠足中に少しだけ凛の姿を見た──自然に笑いながら班をまとめる姿、陽光を浴びて歩く横顔。ほんの一瞬でも、何か特別な空気を感じたのが心に残っている。


「……帰ろうかな」


玲の小さな呟きは、自分の心の声だった。遠足の楽しい空気はあったが、どこか落ち着かない。陽斗や他の生徒たちはまだ話しているが、彼は教室を出て廊下に足を運んだ。足音が反響し、校舎の中は少しひんやりとしている。


廊下を歩きながら、玲はふと思う。凛は、今頃どうしているのだろうか──と。校外学習では、彼女はクラスメイトと談笑しながらも、どこか自然体で落ち着いた様子を見せていた。その姿は、教室で見せる完璧な人気者の表情とはまた違う。短い時間だったけれど、記憶に残る何かがあった。


その時、ふと校舎の奥から小さな声が、聞こえたような気がした。玲は思わず立ち止まり、足を止める。──あそこに行けば、会えるかもしれない。


思い立ったように、旧校舎へ向かう足が自然と動く。木造の廊下は少し冷たく、日の光が差し込む隙間から埃の粒が揺れている。昔ながらの校舎特有の匂いと、遠足の余韻が混ざり合い、玲の胸はわずかに高鳴った。


一方、凛もまた同じように校舎を歩いていた。遠足の間中、班のまとめ役として自然に振る舞っていたが、やはり心のどこかに疲れが残っている。女子グループの笑い声や陽斗たち男子の明るさに囲まれながらも、凛は自分のペースで少しだけ距離を置く。教室や廊下のざわめきから離れ、静かに落ち着ける場所──旧音楽室を思い出した。


「……少しだけ、静かなところに」


そう小さく呟きながら、凛は階段を上る。窓から差し込む夕陽が長い影を落とし、階段の木目を柔らかく照らす。校外学習のあの瞬間──春風が見せた玲の瞳や、ほんの少しの間に流れた空気──を思い返し、凛は自然と微笑んだ。心の奥底に芽生えた、小さな期待。


旧音楽室の前に立つと、扉の古びた木目と金属のノブが目に入る。凛は少し息を整え、静かに手をかけた。その指先には、昨日とは違う、ほんの少しの緊張が宿っている。音楽室の中は、窓から差し込む夕陽が床に淡く光を描き、埃の粒がゆっくりと舞っていた。誰もいない空間──


二人の足音が、徐々に旧音楽室の方向へ重なっていく。互いにまだ気づいていない距離感と、少しだけの期待感。廊下の端で光が揺れるたび、二人の心の中にも、微かに同じ温度の空気が流れていた。


──音楽室で、また会えるかもしれない。


玲も同じ気持ちを胸に秘め、扉の前に立つ。校外学習で感じた小さな意識の変化は、今、この瞬間、次の物語へと繋がろうとしていた。


 旧音楽室の扉が、かすかな軋みを立てて開く。中は夕陽に照らされ、埃の粒が空気中でゆっくりと舞っていた。窓際の古いピアノの上には、薄く積もったほこりの影が差し込む光で揺れている。外の廊下のざわめきとは別世界の、静謐な空間だった。


凛が一歩踏み入れると、床板がわずかに軋む。誰もいないはずの部屋に、自分の足音が大きく響くことに、ほんの少しの緊張を覚えた。前、ここで見た光景が脳裏をよぎる。鍵盤の前に座る玲の姿、息を詰めて見つめた瞬間のあの演奏の間。凛の心は、何とも言えない温度を帯びた。


その時、反対側の扉の方から、低い足音が聞こえた。玲だった。廊下から迷うように音楽室の中に入ってきた彼の表情は、普段より少しだけ柔らかく、しかし無表情の仮面のようにも見える。凛は、思わず息を止めた。


「……あ、月城くん」

小さな声で凛が言う。言葉は軽いけれど、胸の奥で何かが震える。


玲は一瞬立ち止まり、凛を見た。少し笑った落ち着いた表情に、思わず目を奪われる。

「……こんにちは」

短く、しかし丁寧に返す玲の声もまた、いつもの彼らしく落ち着きを帯びていた。互いに距離を置きながら、二人は自然に部屋の奥へ歩き出す。


ピアノの前で立ち止まる凛。指先を鍵盤の上に軽く触れるだけで、微かに音が響いた。玲も隣に並び、少し間を置いて座る。二人の間には、校外学習の疲れや校舎の静けさ、そして思い出が微妙に混ざり合っていた。


「ねぇ、玲くん……昨日の校外学習の時、目がすごく綺麗だった」


玲はピアノの前で手を止め、少し驚いたように振り向く。


「……急に何だよ」


「いや、ふと前髪が揺れて見えたんだ。光を透かすみたいで、吸い込まれそうだった」


玲は少し肩をすくめ、視線を窓に移す。


「そんなに褒められると照れる……」


凛はにっこり笑い、さらに食い下がる。


「ねぇ、どうしてあんな色なの? 父や母には似てないの?」


玲は少し間を置き、言葉を選ぶように口を開く。


「……それは、おじいちゃんの影響かな。祖父がイギリス人で、母方の血が入ってるから」


「イギリス人? へぇ、じゃあ玲くんはクォーターなんだ」


「そう。だから目が少し青いんだって。母は普通に黒いけど、祖父譲りの色が残った」


凛は興味深そうに目を輝かせる。


「なるほど……それで、あの光を透かすような感じになるんだね」


玲は少し照れくさそうに笑う。


「……そんなに大げさじゃないけど」


「いや、私から見るとすごく綺麗。……家族のことって、普段あんまり話さないよね?」


玲は視線をそらし、ピアノの鍵盤に指を置く。


「家族のことは、あんまり……。期待とか、色々あるから」


「そっか。じゃあ、おじいちゃんとは会ったことあるの?」


「うん、子供の頃に少しだけ。話すのは簡単だったけど、向こうは外国人だから、考え方がちょっと違うんだ」


「へぇ、面白そう。どんな人?」


「穏やかで、でもユーモアがあって……でも、厳しい面もあったかな」


凛は柔らかく笑う。


「じゃあ、祖父譲りの目も、性格も少し影響してるんだね」


玲は軽くうなずく。


「……うん。目だけじゃなくて、音楽の感覚も母や祖父から少しもらった気がする」


「そうなんだ。じゃあ、ピアノも血筋なのかもね」


「……まあ、そんな大げさなものじゃないけど」


凛は少し首をかしげ、手元の楽譜に目を落とす。


「でも、玲くんの目とか手とか、全部そのままで素敵だと思うよ」


玲は一瞬息を飲み、少しだけ口元をゆがめる。


「……ありがとう」


短い沈黙の後、凛がふっと笑う。


「家族の話、無理にしなくてもいいけど、ちょっとだけ知れて嬉しいな」


玲は微かに笑みを返し、ピアノの鍵盤に手を置く。


「……そうか、じゃあ少しだけ話した甲斐があったな」


夕日の光が差し込む音楽室で、二人の距離は変わらないけれど、沈黙の中に互いの存在を確かめる静かな温かさがあった。

 

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