あと1週間
昼休み。
教室の空気は、どこか落ち着かない。
文化祭まで、あと一週間を切った。
準備の話題。
装飾の進み具合。
シフトの確認。
それに混ざって――
別の話が、確実に増えていた。
「ねえ聞いた?」
女子のひとりが声を潜める。
「何?」
「有志ステージ」
その一言で、数人が反応する。
「凛たちでしょ?」
「月城くんも出るやつ」
「なんかレベル高いらしいよ」
凛の手が、一瞬だけ止まる。
ペン先がノートの上で止まる。
気づかれないくらいの動き。
でも、自分では分かる。
女子が続ける。
「他クラスの子が言ってた」
「昨日練習見た人がいるって」
凛は顔を上げない。
そのまま聞く。
「へぇ」
あくまで軽く。
興味ないふり。
「なんか普通に上手いって」
「というか“普通じゃない”って」
笑い混じりの声。
でも。
どこか本気のトーン。
「ピアノやばいらしいよ」
「月城くんってそんな感じだった?」
「分かんない、普段目立ってなかったし」
凛は小さく息を吐く。
(そっか)
広がってる。
もうクラスの中だけじゃない。
⸻
その頃。
教室の後ろ。
男子グループ。
「なあ」
佐伯が言う。
「お前、あれマジでやるの?」
玲が顔を上げる。
「何が」
「有志ステージ」
玲は肩をすくめる。
「やるけど」
男子が言う。
「結構話広がってるぞ」
「期待されてるっぽい」
玲は少しだけ黙る。
それから言う。
「そう」
軽い返事。
でも。
その一瞬の“間”を、佐伯は見逃さない。
「プレッシャーとか大丈夫か?」
玲は少し笑う。
「今さら?」
軽い言い方。
でも。
その言葉には、過去が滲む。
佐伯はそれ以上は聞かない。
ただ。
「無理すんなよ」
「夏休み前までは目立たないようにしてたのに」
それだけ言う。
玲は小さく頷いた。
⸻
午後。
移動教室の帰り。
廊下。
人がすれ違う。
凛が歩いていると――
「藍原さん?」
声をかけられる。
振り向く。
他クラスの女子。
見覚えはある。
「文化祭の有志、出るんだよね?」
凛が少しだけ目を瞬かせる。
「……うん」
「楽しみにしてる!」
明るく言われる。
凛は少しだけ戸惑いながらも笑う。
「ありがとう」
女子は去っていく。
その後ろ姿を見送りながら。
凛は、ゆっくり歩き出す。
(楽しみにしてる、か)
その言葉。
嬉しくないわけじゃない。
でも。
どこか引っかかる。
⸻
音楽室。
放課後。
凛が先に来ていた。
椅子に座る。
何もせず、ぼんやりと。
ドアが開く。
玲が入ってくる。
「早い」
いつものやり取り。
凛が少しだけ笑う。
「今日はね」
玲が鞄を置く。
「どうした」
凛は少し考える。
それから言う。
「なんか、広がってるね」
玲が一瞬止まる。
「何が」
「有志」
玲は少しだけ視線を落とす。
「まあ」
軽い返事。
でも。
ほんの少しだけ、間がある。
凛はそれに気づく。
でも、続ける。
「他クラスの子に声かけられた」
玲が見る。
「なんて?」
「楽しみにしてるって」
玲は少しだけ息を吐く。
「そう」
その声。
少しだけ低い。
凛は少しだけ、迷う。
「……嫌?」
玲はすぐに言う。
「別に」
即答。
でも。
その速さが、少しだけ気になる。
⸻
少しの沈黙。
凛が立ち上がる。
「練習、やろっか」
玲が頷く。
「うん」
ピアノの音。
歌声。
重なる。
でも。
今日は、少しだけ違う。
サビ。
わずかにズレる。
昨日より、ほんの少しだけ。
玲は止めない。
最後まで通す。
音が消える。
凛が言う。
「……今の」
玲が言う。
「ズレたな」
凛は小さく頷く。
「うん」
少しだけ間。
「昨日よりズレてる気がする」
玲は何も言わない。
ただ、鍵盤に手を置いたまま。
凛が続ける。
「意識しすぎてるのかも」
ぽつり。
玲が小さく息を吐く。
「かもな」
凛は視線を落とす。
(なんでだろ)
昨日は、もう少し自然だったのに。
今は。
“見られること”が頭にある。
(ちゃんとしなきゃ)
その意識が、邪魔をする。
⸻
玲も、同じだった。
(さっきよりズレてる)
分かっている。
原因も。
でも。
それをどう言うか。
少し迷う。
(言い方間違えると、崩れる)
そう思ってしまう。
それ自体が、もう変化だった。
⸻
凛が顔を上げる。
「もう一回」
玲が頷く。
「やろう」
音が流れる。
でも。
さっきより、少しだけ硬い。
音も、声も。
ぴったりとは重ならない。
⸻
夕焼け。
音楽室。
昨日より、少しだけ遠い。
その距離に――
二人とも、気づき始めていた。
音楽室。
夕焼けは、さらに深くなっていた。
窓の外の色が、少しずつ夜に近づいている。
ピアノの前。
玲が座る。
凛は、その横に立つ。
距離は近い。
でも――
どこか、昨日と違う。
「……もう一回」
凛が言う。
玲が頷く。
何も言わずに、鍵盤に手を置く。
イントロ。
流れる音。
凛は、呼吸を整える。
(大丈夫)
(できる)
自分に言い聞かせる。
歌い出す。
最初はいい。
でも。
サビに入る直前。
また、“意識”が入る。
(見られる)
(ちゃんとやらなきゃ)
その瞬間。
ほんのわずかに、遅れる。
玲は止めない。
そのまま合わせる。
無理やりでも、重ねる。
最後まで通す。
音が消える。
凛が息を吐く。
「……やっぱりズレる」
小さく。
悔しさを押し込める声。
玲は少しだけ間を置いて言う。
「さっきより良い」
凛が少しだけ笑う。
「慰め?」
玲が首を振る。
「事実」
短い。
でも、ちゃんと見ている。
⸻
凛は少しだけ黙る。
それから。
「なんかさ」
玲が「うん」と返す。
凛は続ける。
「急に“ちゃんとしなきゃ”って思っちゃう」
ぽつり。
正直な言葉。
「昨日までは、そんなことなかったのに」
玲は少しだけ視線を落とす。
(やっぱり)
同じことを感じていた。
凛が言う。
「他の人に見られるって分かった瞬間」
「なんか、怖くなった」
玲は静かに聞く。
「上手くやらなきゃって思って」
「失敗したらどうしようって思って」
少し間。
「……玲の足引っ張ったら嫌だなって」
最後の一言。
小さく。
でも、はっきりと。
⸻
玲は、少しだけ目を閉じる。
それから、ゆっくり開く。
「それはない」
即答。
凛が顔を上げる。
「でも――」
玲が続ける。
「一緒にやるって決めた時点で」
「それ込みだろ」
凛は言葉を止める。
玲は、淡々と続ける。
「完璧なやつとやりたいなら、最初から一人でやる」
その言い方。
少しだけ強い。
でも。
責めているわけじゃない。
「凛とやるって決めたのは俺だから」
「そこは気にしなくていい」
凛は、しばらく黙る。
その言葉を、ちゃんと受け取る。
⸻
「……そっか」
小さく、頷く。
でも。
まだ完全には抜けない。
凛が少しだけ笑う。
「でもさ」
玲が見る。
「それでも気にするのが、私なんだよね」
苦笑い。
自覚している。
玲は少しだけ息を吐く。
「知ってる」
その一言で。
凛の肩の力が、少しだけ抜ける。
⸻
少し沈黙。
外の光が、さらに落ちる。
凛が言う。
「じゃあさ」
玲が「うん」と返す。
「もうちょっとだけ、わがまま言っていい?」
玲はすぐに言う。
「いいよ」
凛は少しだけ目を細める。
「ちゃんと並びたい」
その言葉。
まっすぐ。
「頼るだけじゃなくて」
「同じくらいでいたい」
玲は少しだけ黙る。
その言葉を、ゆっくり受け取る。
それから。
小さく頷く。
「分かった」
短く。
でも、ちゃんとした返事。
⸻
「じゃあ」
玲が言う。
「さっきのもう一回やる」
凛が頷く。
「うん」
「今度は、合わせようとしなくていい」
「でも逃げるな」
凛が少しだけ笑う。
「難しいこと言うね」
玲も少し笑う。
「それな」
⸻
イントロ。
音が流れる。
凛は、深呼吸を一つ。
(大丈夫)
(ちゃんとやる)
でも。
“完璧”じゃなくていい。
そのまま、歌い出す。
今度は。
ほんの少しだけ、力が抜けている。
サビ。
タイミング。
迷いがない。
ほんの少しだけズレる。
でも。
すぐに戻る。
玲も、無理に引き寄せない。
流れの中で合わせる。
最後まで通す。
音が消える。
静寂。
数秒。
凛が、ふっと笑う。
「……今の、好き」
玲が言う。
「俺も」
そのやり取り。
昨日とは違う。
“合わせる”じゃなくて、“重ねる”。
少しだけ、近づいた。
⸻
帰り道。
夜に近い空。
街灯がつき始める。
二人で並んで歩く。
凛が言う。
「なんかさ」
玲が「うん」と返す。
「ちょっとだけ、怖くなくなったかも」
玲が少しだけ見る。
「ほんと?」
凛は頷く。
「うん」
少し間。
「玲がいるから」
その言い方は、自然だった。
前みたいに照れない。
ただの事実みたいに。
玲は少しだけ目を細める。
「そっか」
⸻
でも。
凛の中には、まだ残っている。
(ちゃんと並びたい)
その気持ち。
玲の中にも、残っている。
(もっと良くできる)
その意識。
⸻
距離は近い。
前よりも、確実に。
でも。
まだ、完成じゃない。
だからこそ。
前に進める。
⸻
文化祭まで、あと少し。
期待も。
不安も。
全部抱えたまま。
二人は、並んで歩いていく。




