凛と玲の練習
夏休みも半分を過ぎた日の午後三時過ぎ。
玲の家のリビングには、ゆるい夏の空気が流れていた。
エアコンの静かな音。
カーテンの隙間から入る白い光。
外では蝉が遠くで鳴いている。
その中で、ピアノの音だけがゆっくりと響いていた。
凛はソファに座って、頬杖をつきながらその音を聞いている。
鍵盤の上を滑る玲の指。
音はやわらかくて、静かで、それなのにちゃんと芯がある。
最後の和音が鳴って、ゆっくり消えた。
凛がぽつりと言う。
「やっぱ上手いよね」
玲は肩をすくめる。
「ありがとう」
凛はすぐ返す。
「おっ素直だね」
玲は振り返る。
「凛それ毎回言うから」
凛はソファの背もたれに体を預けた。
「だって事実だし」
玲は少し笑って、前髪を指でかきあげた。
最近また少し伸びた髪が目にかかる。
それを横に流して、指で整える。
今日はそのまま落ちてこないように、小さな黒いピンで横を留めていた。
凛はそれをじっと見る。
「それ」
玲が首を傾げる。
「ん?」
「髪」
玲が軽く触る。
「ああ」
「この前凛が貸してくれたやつそのまま使っちゃってる」
凛は小さく首を縦に振る。
「嬉しいよ」
「似合ってる」
玲が一瞬止まる。
「……そう?」
凛は頷く。
「うん」
「前より顔見える」
玲は少し苦笑する。
「最近別のやつにも言われた」
凛が少し身を乗り出す。
「誰に?」
「佐伯と……あとは中学のやつとたまたま会った時に」
凛は小さく笑う。
「いいじゃん」
玲は肩をすくめる。
「慣れない」
凛はソファから立ち上がった。
そしてピアノの横に来る。
「でもさ」
玲が視線を上げる。
凛は言う。
「その方がかっこいい」
「今度もっとカッコ良いヘアピン買いに行こ」
玲は一瞬黙る。
恥ずかしそうだが少し嬉しそうな顔を隠す。
それから小さく咳払いした。
「……練習する?」
凛がすぐ言う。
「はい今逃げた」
「逃げてない」
「逃げた」
玲が少し笑う。
「凛、そういうとこ鋭い」
凛はピアノ椅子の横に腰掛けた。
「玲が分かりやすいだけ」
「最初はもっとポーカーフェイスだったよ?」
少し間。
凛はピアノのある部屋を見回す。
「なんか久しぶりな気持ち」
玲が頷く。
「ちょっと音楽室思い出す」
凛は少し笑う。
「あの頃は凛の話を聞いてただけだったな」
玲が言う。
「それが嬉しかったんだけどね」
凛はソファに寝転がる。
「それは良かった」
玲が凛を見て少し呆れた声を出す。
「凛」
凛が天井を見たまま言う。
「なに」
「それ練習する人の姿勢じゃない」
凛は少し考える。
「まだ休憩」
玲が苦笑する。
「来てからずっと休憩」
凛が笑う。
「玲の家だと脱力する」
玲が言う。
「それ俺のせい?」
凛は横目で見る。
「たぶん」
玲は少し黙る。
凛は続ける。
「玲の前だとさ」
少し間。
「ちゃんとしてなくていいから」
「二人でいれる空間があるとついね」
その声は軽いけど、どこか本音だった。
玲は何も言わない。
ただ少しだけ視線を落とす。
それから言う。
「それなら」
「よかった本当に」
凛は少し目を丸くする。
「なにそれ」
玲は普通に言う。
「そういう凛を見たいと思ってたんだ夏休み前の学校でも」
「だからそういう場所をもっと作ってあげたい」
凛は数秒黙る。
それから体を起こす。
「……なんか」
「ずるいよほんと」
玲が笑う。
「またそれ」
凛は軽く睨む。
「玲そういうことさらっと言う」
「前からそうだったけど付き合ってから増してる」
「せっかく力抜けてるのにドキドキさせられる」
「わざとじゃないよ」
「でも少し自重しようかな」
「…………やだ」
「どっちだよ」
二人で少し笑う。
玲が楽譜を取り出した。
「曲決める?」
凛が隣に座る。
距離が少し近い。
凛が楽譜を覗き込む。
「これ知ってる」
「恋愛ソングだけど」
玲が頷く。
「私たちには良さそうじゃない?」
凛は軽くメロディーを口ずさむ。
玲が伴奏を弾く。
音が重なる。
凛は途中で笑った。
「ちょっと待って」
玲が止まる。
「どうした」
凛は少し照れる。
「玲のピアノすごすぎて歌うの緊張する」
玲が首を傾げる。
「なんで」
凛は言う。
「私ミスったら目立つじゃん」
玲は普通に言う。
「ミスらないだろ」
凛が目を細める。
「その信頼なに」
玲は少し考えてから言う。
「凛だから」
あまりに自然な声だった。
凛は一瞬言葉を失う。
「……それ」
「ずるい」
玲が笑う。
「さっきも言った」
凛は頬を少し膨らませる。
でも立ち上がった。
「歌ってみる」
玲が頷く。
「最初から」
ピアノが始まる。
やわらかい伴奏。
凛が歌う。
最初は少し緊張していた。
でも途中から声が伸びる。
歌が終わる。
部屋が静かになる。
凛が聞く。
「どう?」
玲は少し考えてから言う。
「いい」
凛が笑う。
「雑」
玲が続ける。
「ちゃんと届く声」
凛は少し黙る。
それから小さく笑った。
「それ」
「結構嬉しい」
玲も少し笑う。
凛はピアノに軽く寄りかかる。
「文化祭」
玲が「うん」と言う。
凛は少しだけ照れながら言う。
「玲のピアノで歌うの」
「なんか楽しみだな」
玲は数秒黙る。
それから静かに言う。
「俺も」
「凛の歌好き」
凛は一瞬固まる。
それから顔を背ける。
「……ほんと」
玲が普通に頷く。
「うん」
凛は少しだけ笑った。
リビングにはまた、ゆっくりピアノの音が流れ始める。
夏の午後は、まだ長かった。




