凛と両親
リビングには、静かなテレビの音が流れていた。
ニュースキャスターが淡々と何かを読み上げているが、内容はほとんど耳に入ってこない。
食卓の上には夕食の名残がまだ残っている。
味噌汁の湯気はもう消えかけていて、皿の上の箸も誰も動かしていない。
凛はテーブルに頬杖をついて、ぼんやりとその湯気の消えた椀を見つめていた。
夏休みの夜。
窓の外からは、遠くの蝉の声がまだかすかに聞こえてくる。
――この感じ、久しぶりだな。
凛はふとそう思う。
食卓の向かいには父がいる。
新聞を広げて、真面目な顔で読んでいる。
父がこの家で新聞を読む姿を見るのは、かなり久しぶりだった。
父は今、海外赴任から一時帰国している。
本当はまだ数か月向こうにいる予定だったらしいが、ちょうど夏休みの期間と少し重なる形で日本に戻る仕事が入ったらしく、今はこうして家にいる。
とはいえ、昼間は会社に行っているし、出張も多い。
完全に家にいるわけではない。
それでも。
「ただいま」
と玄関から声が聞こえる生活は、やっぱり少し特別だった。
キッチンでは母が食器を片付けている。
水道の音がさらさらと流れている。
母も相変わらず忙しい。
凛はそれを知っている。
だから、こうして三人が同じ時間に食卓にいるのは、思っているより珍しい。
凛はその空気の中で、少しだけ言葉を探していた。
――どう言おうかな。
スマホはテーブルの端に置いてある。
画面は暗いままだ。
玲からのメッセージは、まだ来ていない。
でも、きっとあとで連絡はする。
凛は軽く息を吐いた。
「どうしたの?」
キッチンから母の声がした。
凛は顔を上げる。
「え?」
「さっきから静か」
母がこちらを振り向く。
「珍しい」
父も新聞の上からちらっと凛を見る。
「夏休みなのに勉強の悩みか?」
凛は思わず苦笑した。
「違うよ」
父は肩をすくめる。
「優等生は大変だな」
「もう」
凛は少し呆れた声を出す。
「そんなキャラじゃないって」
父は新聞をめくりながら言う。
「いや、そういうキャラだろ」
母が笑う。
「学校でもそうなんでしょ?」
凛は少しだけ視線を逸らす。
「まあ……」
完全には否定できない。
むしろ自覚はある。
“ちゃんとしてる”
そう見られるのは、昔からだった。
それが嫌だったわけではない。
むしろ、楽だった。
変に目立つこともないし、問題も起きない。
だから凛は、自然とそうしてきた。
だけど――
最近、少しだけ変わってきた気がする。
凛は指先でコップの縁をなぞる。
「学校?」
母が聞く。
凛は小さく頷く。
「うん」
「文化祭」
父が新聞を少し下げる。
「もうそんな話出てるのか」
「夏休み明けすぐ準備始まるし」
母が食器を拭きながら言う。
「有志のステージあるわよね」
凛は頷く。
「うん」
体育館のステージ。
毎年、バンドやダンス、弾き語りなんかが出るやつだ。
結構盛り上がる。
でも――
凛は中学の時は、一度も関わったことがない。
見る側だった。
父が聞く。
「クラスで何かやるのか?」
凛は首を振る。
「クラスじゃなくて」
少しだけ言葉を探す。
「個人のやつ」
母が椅子に腰掛ける。
「有志?」
凛は頷く。
「そう」
そして少し間を置いてから言う。
「友達が出るかもしれない」
父が聞き返す。
「月城くん?」
凛は思わず顔を上げた。
「え、なんで知ってるの!?」
少し大きめの声が出る。
父はきょとんとした顔をしてから、隣の母を見る。
母はくすっと笑った。
「お母さんから聞いてるよ」
「最近よく一緒にいる子がいるって」
凛は一瞬固まる。
「え……」
視線がゆっくり母に向く。
「私そんなに話してた?」
母は肩をすくめる。
「名前は何回か出てたわよ」
「“玲がね”とか“その子がね”とか」
「最初は隠してるのかと思ったけど、すごく仲良くしてるのね」
父が頷く。
「だから覚えた」
凛は耳が少し赤くなる。
「そんな……無意識で言ってたのかな……」
母が笑う。
「楽しそうに話してたからね」
凛は小さく息をついて、コップの水を一口飲んだ。
なんだか少し、くすぐったい。
凛は小さく「うん」と答える。
母が少し興味を持った顔をする。
「何やるの?」
凛は言う。
「ピアノ」
父の眉が少し上がる。
「へえ」
母が驚いたように言う。
「そんなにその子弾けるの?」
凛は少し笑う。
「うん」
それから、自然と声が少し柔らかくなる。
「すごいよ」
父がその変化に少し気づく。
「そんなにか」
凛は頷く。
「うん」
思い出す。
玲の家で聞いたピアノ。
あの音。
あの指。
静かな部屋に、やわらかく広がっていく音。
凛はその時のことを思い出して、少しだけ笑った。
母が聞く。
「それで?」
凛は少しだけ躊躇する。
でも、言う。
「一緒に出ないかって言われた」
父と母が同時に凛を見る。
「凛が?」
凛は頷く。
「歌」
父が少し笑う。
「いいじゃないか」
凛はすぐに首を振る。
「いや、簡単に言うけど」
「文化祭だよ?」
「みんなの前」
母が面白そうに言う。
「緊張する?」
凛は少し考える。
「……まあ」
正直に言えば。
少し怖い。
でも、それだけじゃない。
凛はテーブルの上のスマホを見る。
そこには玲の名前がある。
――玲のピアノで歌う。
それを想像すると。
少しだけ胸が高鳴る。
父が言う。
「凛はどうしたいんだ?」
凛は黙る。
窓の外では蝉の声が少し弱くなってきていた。
静かな夜。
凛はゆっくり言う。
「ちょっと」
「やってみたい」
自分でも少し驚くくらい、素直な言葉だった。
母が優しく微笑む。
父は腕を組む。
そして言う。
「なるほどな」
凛は顔を上げる。
父は少しだけ笑っていた。
「それで最近よく出かけてたのか」
凛の動きが止まる。
「……え」
母も笑う。
「そう思ってた」
凛の耳が少し赤くなる。
父は新聞を畳みながら言う。
「月城くんだろ?」
凛は小さく息を止めた。
――やっぱり。
気づいてる。
凛は少しだけ視線を落とした。
そして思う。
――そろそろ言うか。
胸の奥で、小さく覚悟が固まる。
「それでね」
凛はゆっくり口を開いた。
「もう一個、言ってないことがある」
父と母が凛を見る。
凛は少しだけ息を吸う。
そして――
次の言葉を探した。




