確かに感じた芽生え
朝の校舎は、いつもより少しざわついていた。高校からの外部入学組である玲は、バスケ部の友達、佐伯陽斗と一緒に昇降口を抜けながら、いつものように教室へ向かっていた。
「なあ、昨日の知ってるか?」
陽斗が小声で耳打ちする。
「何を?」
「藍原に、また外部入学の男子から告白が来たらしいよ」
玲は軽く眉をひそめる。藍原──あの藍原凛が? 外部生から告白されるのは驚くことでもないが、何か妙に引っかかった。
「断ったらしい。相変わらず、女子には優しいけど、男子には一定の距離を保つタイプなんだって」
陽斗は少し笑いながら続ける。
「遊びに誘われたりしても、流すだけ。男子に深く仲良くすることはほとんどないんだって」
玲は「ふーん」と答えつつも、心の奥で興味がふくらむ。旧音楽室で少しだけ話したあの笑顔──人知れず素の顔を見せてくれたあの瞬間が頭をかすめた。
教室に入ると、藍原はやはり注目の的だった。女子グループと談笑しており、笑顔を絶やさず話す内容も軽やかだ。男子が声をかけると、礼儀正しく応じるものの、どこか距離感を保っている。「藍原」と呼ばれるその距離感が、周囲から見ても近寄りにくさを感じさせた。
「さすが藍原だな」
陽斗が小声で呟く。
「中学からずっとこの学校にいるけど、人気は変わらない。女子には特にすごく優しいんだよ。頼れるし、相談もよく聞いてくれる」
玲は教室の端からその様子を見ながら、陽斗の説明と目の前の光景を重ね合わせる。なるほど、外見だけでは分からない部分もあるのだな、と静かに感心した。
昼休み、教室はさらに賑やかになる。藍原は女子グループと談笑し、自然体だった。誰かが笑わせれば自分も笑い返す。誰かが困ればすぐ手を差し伸べる。周囲の男子たちはそれを少し遠巻きに眺め、簡単には近づけない様子だ。男子に対しても嫌な態度は取らないが、深く関わることはほとんどない──その距離感が、逆に凛の完璧さを際立たせていた。
玲は陽斗と一緒に購買のパンを広げ、藍原の姿を横目で追う。
「すごいよな、こうやって自然に振る舞えて、人から好かれるって……」
陽斗は小さく溜息をつき、玲に向かって言った。
「でもさ、外から見てるだけじゃ分からないんだよ。藍原もいろいろ気を使ってるし、完璧に見せてるけど、みんなの期待とかも背負ってるからさ」
玲は静かに頷く。
自分が昨日、旧音楽室でほんの少しだけ見たあの素顔と、教室での藍原は全然違う。学校での藍原は、誰にでも優しく明るく、少し遠くて近寄りにくい存在だ。
午後の授業が終わる頃、教室の空気が少し落ち着いた。藍原は女子グループと談笑しながらも、視線の端で窓の外をちらりと見やる。まるで、誰も気づかないところで息をついているかのようだった。
玲はその様子を遠くから見ながら、自分の胸の奥で何かがざわつくのを感じていた。学校での藍原は完璧で、周囲から羨望の眼差しを向けられている。でも、その裏に小さな孤独や気疲れがあることを、玲は昨日ほんの少しだけ知ったのだ。
午後の授業が終わり、放課後になった。陽斗は部活へ向かい、玲は帰宅部として教室に残った。校舎の廊下は少し静かになり、放課後特有の落ち着いた空気が流れる。
玲は教室や廊下を歩きながら、藍原の姿を探した。女子グループに囲まれ、笑顔で話している。男子は遠巻きに見ているが、深く関わる様子はない。玲は昨日見た、旧音楽室での藍原の素の表情を思い出す。
──ここなら、昨日みたいに、藍原のもう少し自然な顔が見られるかもしれない。
微かに笑みを浮かべ、心の中でそっとつぶやく。
「……次に会うときは、もう少し近くで見てみたいな」
校舎の廊下には、夕暮れの光が長い影を落としていた。藍原の笑顔、周囲の反応、そして自分の心のざわめき。
玲は旧音楽室の静かな空気を思い出しながら、軽く肩をすくめた。
放課後の校舎は、教室の片付けが終わると静けさを取り戻した。陽斗は部活へ向かい、帰宅部の玲は教室を出て、普段通りの帰宅準備を整えていた。今日は旧音楽室に行く予定はなく、凛に会うことはない──そう思うと、少しだけ心が残念な気持ちになった。
藍原凛は、たまたま用事があって旧校舎の音楽室へ足を運んだ。鍵を忘れたわけではなく、ただ一人で落ち着きたくなったからだ。普段は学校で完璧に振る舞い、誰にでも明るく優しい笑顔を見せる凛だが、ここでは少し肩の力を抜き、心のままに過ごせる場所だった。
扉を開けると、薄く埃の香りが混じった静かな空間が広がる。窓から差し込む夕陽が床に長い光の帯を描き、グランドピアノや置かれた楽譜に淡く反射する。凛はそっと椅子に腰かけ、手を鍵盤に置いた。指先を軽く動かすと、部屋に柔らかな音が響く。
指先を休める瞬間、ふと心の片隅で、昨日出会ったあの高校入学したばかりの男子──月城玲──のことを思い出した。旧音楽室での短い会話、ほんの少しだけ見せてくれた自然な笑顔……。
小さく呟く。
「今日は……月城くん、来ないのか……」
声はほとんど自分だけに届くほど小さく、でも少し残念そうだった。昨日は偶然のタイミングで会えたけれど、今日はそんな期待は叶わない。それでも、わずかに心が温かくなるのは、玲に会えた昨日の余韻がまだ残っているからだ。
凛は再び鍵盤に指を置く。軽く音を弾くたび、微かな振動が部屋に広がる。学校の教室で見せる完璧な笑顔とは違い、ここではほんの少し肩の力を抜いた自分を感じられる。誰の目も気にせず、静かに音を楽しむ時間。それが、凛にとっての小さな自由だった。
窓の外を見やると、夕陽が橙色から淡い紫に変わり、木々の影がゆらゆら揺れている。心の奥で、昨日の短い会話を思い返す。──もし、今日は月城が来ていたら、また少し話ができたのに。そんな小さな期待が、自然に心の中に芽生える。
凛は軽く肩をすくめ、唇の端に微かな笑みを浮かべた。誰もいない音楽室、ただ静かに鍵盤の音だけが響く空間。ここでなら、学校では決して見せないほんの少しの自分を感じられる。そして、昨日の玲との出会いが、凛にとってほんのわずかでも特別な存在であることを、心の中でそっと確認する。
指先を動かしながら、凛は再び小さく呟く。
「……次は、月城くん、来てくれるといいな」
夕暮れの光が楽譜やピアノに影を落とす。凛は立ち上がり、鍵盤に手を軽く触れたまま、ほんの少しの期待を胸に秘める。今日の音楽室は、一人で過ごす静かな時間だったが、その中には確かに、昨日出会った少年の影が残っていた。




