玲とピアノ
夏休みも数日が経った。
午前の光がやわらかい。
駅前のベンチ。
凛が座っている。
青いワンピース。
風に少し揺れる。
玲が来る。
「早い」
「涼しいうちに出たいって言ったの、玲でしょ」
「言った」
「だから従っただけ」
「素直」
「合理的と言って」
玲が小さく笑う。
昨日より自然。
夏休みの“会う”が、もう当たり前になりつつある。
⸻
商店街。
まだ人は少ない。
パン屋の前で凛が止まる。
「いい匂い」
「買う?」
「課題終わってないのに?」
「糖分は脳に必要」
「都合いい理論」
「事実」
凛がじっと見る。
「自分が食べたいだけでしょ」
「半分」
「正直」
結局、ひとつだけ買う。
半分ずつ。
「大きさ不公平じゃない?」
「目分量」
「絶対大きいほう取った」
「疑うな」
「疑ってない、観察してる」
「怖い」
小さく笑い合う。
たわいない。
でも楽しい。
⸻
昼前。
凛がふと言う。
「今日、玲の家行ってもいい?」
少しだけ間。
玲は一瞬考える。
「散らかってるぞ」
「見ない」
「無理ある」
「視力落とす」
「どうやって」
「目細める」
実際に細める。
「怪しい」
「失礼」
でも玲は頷く。
「いいよ」
凛が少しだけ嬉しそうに笑う。
その顔を見ると、断れない。
⸻
玲の家。
玄関の匂い。
木の床。
リビングに入ると、ピアノ。
凛が止まる。
「大きな家だね」
「その中でもやっぱり存在感すごい」
「でかいからな」
「値段も?」
「聞くな」
「高いんだ」
「聞くな」
凛がにやっとする。
「弾かないの?」
「いきなり?」
「家にあるのに飾り?」
「観葉植物扱いすんな」
「葉っぱないけど」
少し笑う。
玲は観念して、蓋を開ける。
「上手かったら拍手して」
「下手だったら?」
「帰れ」
「ひどい」
鍵盤に触れる。
最初の音は少し硬い。
凛がじっと見ているから。
「そんな見るな」
「目閉じる?」
「極端」
凛が本当に目を閉じる。
「これでいい?」
「いやそれはそれで緊張する」
「めんどくさい人」
「知ってるだろ」
少しずつ音が柔らかくなる。
即興。
軽いメロディ。
途中で凛が目を開ける。
真面目に聴いている。
最後の音が消える。
凛が言う。
「……いい」
「雑」
「語彙が足りないだけ」
「補充しろ」
「玲っぽい」
その一言で、空気が変わる。
「上手い、とかじゃなく?」
「それもあるけど」
「ついで?」
「ついで」
「扱い軽い」
「特別扱いすると調子乗るでしょ」
「もう乗ってる」
「自覚あるんだ」
笑い。
でも。
ちゃんと、肯定。
⸻
凛がピアノの縁に触れる。
「文化祭でやれば?」
「急に公開処刑」
「私が最前列で拍手する」
「一人だけ?」
「多分増える」
「多分かよ」
「大丈夫、私が宣伝する」
「やめろ」
「“天才ピアニスト玲”」
「絶対やめろ」
笑いが続く。
でも。
玲の中に、少しだけ残る。
文化祭。
客席。
凛がいる。
悪くない。
⸻
午後。
並んで課題。
凛が急に言う。
「さっきの曲、もう一回」
「覚えてない」
「嘘」
「即興」
「じゃあまた作って」
「簡単に言うな」
「出来るでしょ」
「凛が横にいると出来る」
一瞬、沈黙。
凛が止まる。
「……それ反則」
「何が」
「急に恥ずかしいこというの」
「いつも真面目な事だよ」
「甘々になってるよ玲は」
耳が少し赤い。
玲は気づくけど、言わない。
家の中。
笑い声。
ピアノが開いたまま。
この空間が、前より重くない。
凛がいるだけで。
音があるだけで。
夏はまだ始まったばかり。
でも。
家が、少し優しくなっている。
午後の光が、少し傾き始めている。
リビング。
ピアノは開いたまま。
凛と玲はダイニングテーブルに並んで座っている。
「ここさ」
凛が数学の問題を指さす。
「この解き方ずるくない?」
「公式を応用してるだけ」
「真正面から行きなさいよ」
「効率重視」
「つまらない」
「勝てばいいんだよ」
「何と戦ってるの?」
「課題」
「大げさ」
小さな笑い。
ペンの音。
紙の擦れる音。
さっき弾いたピアノの余韻が、まだ空気に残っている。
凛がふと顔を上げる。
「さっきのやつ、ほんとに覚えてないの?」
「だから即興」
「録音しとけばよかった」
「隠し撮り怖い」
「しない」
「“今回は”って言いそう」
「言わない」
視線が合う。
少し近い。
凛が視線を逸らす。
「文化祭ほんとに見てみたいけどね?」
さっきより少し真面目な声。
玲はペンを止める。
「人前で弾くのはな」
「緊張?」
「めんどい」
「逃げ?」
「またそれ」
凛が笑う。
「でもさ」
少しだけ声が柔らぐ。
「私、ちゃんと聴きたいな」
評価じゃない。
義務でもない。
ただ、聴きたい。
玲は少し黙る。
「その時凛がいるなら、考える」
凛が目を丸くする。
「条件付き?」
「うるさい客いると嫌だろ」
「私うるさくない」
「心の中でうるさい」
「否定できない」
また笑う。
でも。
その“考える”は、前より前向きだった。
⸻
階段の途中。
玲の母は足を止めていた。
さっきから聞こえてくる笑い声。
そして、ピアノ。
軽くて、やわらかい音。
しばらく弾いていなかった時間が嘘みたいに。
母はそっと壁に寄りかかる。
(楽しそう)
それだけで、十分だった。
リビングの空気が、明るい。
中学の頃。
玲はあまり家に友達を呼ばなかった。
出かけることも少なかった。
「別に」
と言って、部屋にこもることも多かった。
今は。
笑っている。
音も、軽い。
母はそっと階段を降りる。
わざと足音を立てる。
「あら、お邪魔してる?」
凛がすぐに立ち上がる。
「こんにちは」
少しだけ緊張。
でも、きちんと目を見る。
母は柔らかく微笑む。
「こんにちは。いつもありがとう」
「何もしてません」
「してるわよ」
ちらりと玲を見る。
「最近、この子よく弾くの」
玲がむっとする。
「言うなよ」
「事実でしょう?」
凛が驚く。
「そうなんですか?」
「前はあまり触らなかったのに」
母は少しだけ言葉を選ぶ。
「あなた、コンクールの後くらいからあまり弾かなくなったでしょう」
玲がわずかに眉を動かす。
「……別に」
母はそれ以上聞かない。
「私は好きにしていいって言ったのよ」
軽く言う。
でも本当のこと。
玲が小さくため息。
「報告しなくていい」
母はくすっと笑う。
「楽しそうな音だったから」
その一言で、玲が少し止まる。
凛が静かに言う。
「ほんとに、楽しそうでした」
二人から同じ言葉。
母は胸があたたかくなる。
「良い友達に出会えたのね」
“友達”。
やわらかく。
でも確信を込めて。
凛が少しだけ照れる。
玲は目を逸らす。
⸻
母はキッチンへ向かいながら言う。
「文化祭で弾いたら?」
さらっと。
玲が振り向く。
「なんで知ってる」
「今聞こえた」
凛が小さく笑う。
「やりましょうよ」
「結託するな」
母は紅茶を注ぎながら言う。
「あなたが楽しめるなら、何でもいいのよ」
「プロにならなくても、音楽やめても、あなたはあなた」
さらっと言う。
玲が一瞬だけ止まる。
軽い口調。
でも、本音。
玲は何も言わない。
ただ、少しだけ視線を落とす。
凛が横で小さく呟く。
「聴きたい人、ここに二人」
玲が息を吐く。
「プレッシャー増えた」
「愛情よ」
母が笑う。
玲は小さく肩をすくめる。
でも。
悪くない。
重い“期待”ではない。
ただ、楽しんでほしいという願い。
それが、分かる。
少しだけ。
⸻
夕方。
凛が帰る。
玄関で靴を履きながら言う。
「また弾いてね」
「気が向いたら」
「向かせる」
「どうやって」
「隣に座る」
一瞬、沈黙。
玲が小さく笑う。
「それは効く」
凛も笑う。
「知ってる」
ドアが閉まる。
静かな家。
でも、さっきまでの音が残っている。
母が後ろから声をかける。
「楽しそうね」
玲は振り返らない。
「まあ」
短い返事。
でも。
少しだけ明るい。
母は思う。
(大丈夫)
才能でも、将来でもなく。
まずは、今。
この子が笑っていること。
それが一番。
ピアノの蓋は、まだ開いている。
夏は、少しずつ。
家の空気まで、変えていく。




