夏休み開始
終業式の翌日。
朝から蝉が鳴いている。
凛は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
(夏休み)
言葉にすると、少しだけ胸がくすぐったい。
昨日までは毎日会えていた。
でも今日からは、“約束しないと会えない”。
それが少しだけ特別に感じる。
クローゼットを開ける。
制服ではない服。
白のブラウスに、淡い水色のスカート。
図書館だから派手にはしない。
でも、少しだけ丁寧に。
鏡の前で髪を整える。
「……よし」
誰に言うでもなく、小さく呟く。
スマホが震える。
『着いた』
玲から。
短い一文。
凛の口元が自然に緩む。
『今行く』
返信してから、少し深呼吸。
ただ図書館に行くだけ。
なのに、心臓が少し速い。
⸻
駅から少し離れた凛の家の近くの市立図書館。
ガラス越しに夏の日差しが反射している。
入口の影の中に玲が立っている。
Tシャツに薄いシャツを羽織っているだけ。
いつも通り。
でも今日は、制服じゃない。
それだけで少し違う。
目が合う。
ほんの一瞬、互いに言葉が出ない。
「早いね」
凛が先に言う。
「凛も」
それだけ。
それだけなのに、少し照れる。
昨日まで毎日会っていたのに。
“夏休み最初”というだけで空気が変わる。
「……入ろ」
「うん」
並んで歩く。
距離はいつも通り。
でも、少しだけ意識している。
⸻
閲覧席。
窓際の静かなテーブル。
冷房の風が静かに流れる。
凛が課題を広げる。
「英語からやる?」
「任せる」
「じゃあ英語」
凛が問題を指差す。
玲が少し身を乗り出す。
肩が触れそうになる。
(近い)
でも動かない。
玲は普通に解く。
「これじゃない?」
「……正解」
凛が小さく笑う。
「やるじゃん」
「誰に言ってる」
小声で笑い合う。
図書館だから、声を抑える。
その“共有してる感じ”が心地いい。
しばらく無言で集中する。
でも、不思議と気まずくない。
ページをめくる音。
ペンの走る音。
隣にいる気配。
凛はふと思う。
(この感じ、好きかも)
特別なことをしていない。
でも、特別な時間。
一時間ほど経って。
凛がペンを置く。
「集中すると早いね」
「凛、今日ちょっと静か」
「いつも静か」
「違う意味」
凛が視線を逸らす。
「……初日だから」
「何が」
「夏休み」
少し間。
凛が小さく言う。
「最初に会うの、玲がいいなって思った」
言ってから、耳が熱くなる。
玲が止まる。
数秒。
「光栄」
「軽い」
「重く言う?」
「言わなくていい」
でも、嬉しい。
⸻
休憩で自販機へ。
冷たい缶を持つ。
外に出ると、むっとする暑さ。
凛が目を細める。
玲が少し前に出る。
無意識に日差しを遮る位置。
凛は気づく。
何も言わない。
でも、胸があたたかい。
「学校ないの変」
凛が言う。
「毎日会えないから?」
一瞬止まる。
「……会うけど」
即答。
玲が笑う。
「毎日なんだ」
「できるだけね」
目が合う。
一瞬だけ、時間がゆっくりになる。
夏の匂い。
初めての“約束のある夏”。
駅前で別れる前。
「また明日?」
「空いてるなら」
「空いてる」
凛が笑う。
「じゃあ明日も課題」
「図書館以外も行こうね」
「考えとく」
小さな約束。
それだけで、胸が満たされる。
夏が始まった。
まだ何も起きていない。
でも。
“ふたりで過ごす”というだけで、
世界の色が少し違う。
夕方。
凛が帰宅する。
「ただいま」
返事はない。
広くて、整っていて、少し静かすぎる家。
靴を揃えて、リビングに入る。
テーブルの上には、母の置き手紙。
『今日は少し遅くなります。冷蔵庫にサラダあります』
きれいな字。
几帳面な性格がにじむ文字。
凛はそれを見て、小さく息を吐く。
(いつも通り)
自分の部屋に入り、鞄を下ろす。
スマホを見る。
玲からのメッセージ。
『明日どこ行くか良い場所あれば教えて』
凛は少し笑う。
『考えとく』
送信。
ベッドに倒れ込む。
静かな天井。
さっきまで隣にいた気配を思い出す。
胸が少しだけ温かい。
(ちゃんと、始まったんだ)
⸻
夜。
玄関の鍵が開く音。
凛はもう部屋にいる。
リビングの明かりがつく。
母が帰ってきた。
スーツ姿のまま、ソファに腰を下ろす。
バッグからスマホを取り出す。
通知。
“体育祭動画送るね!”
ママ友から送られてきたデータ。
母は少しだけ迷ってから、再生する。
画面の中。
走る凛。
真剣な顔。
少し乱れた髪。
笑っている瞬間。
誰かと並んで話している姿。
その横顔。
母は思わず、微笑む。
「こんな顔するのね」
学校での凛を、全部は知らない。
家ではあまり弱音を吐かない。
何でもきちんとこなす。
でも動画の中の凛は、
少し子どもっぽくて、
少し無防備で、
ちゃんと“楽しんでいる”。
母の指が、画面を止める。
凛が誰かと並んで笑っている場面。
画面の端に、玲の姿が映っている。
名前までは知らない。
でも、距離が近い。
自然な距離。
母は少しだけ目を細める。
「……よく笑ってる」
それだけで、胸が少し軽くなる。
⸻
しばらくして、スマホが震える。
父からのビデオ通話。
「お疲れ」
「そっちはどう?」
仕事の話が少し。
そのあと、父が聞く。
「凛は?」
「もう部屋よ」
「夏休み、だよな」
少し沈黙。
母が言う。
「ちゃんと楽しめてるみたい」
「そうか」
父はほっとしたように笑う。
「無理してないといいけどな」
母も頷く。
「あなたに似て、言わないからね」
父が苦笑する。
「俺はそんなに」
「似てるわよ」
画面越しの静かな笑い。
父がぽつりと言う。
「寂しくさせてないか?」
母は少しだけ考える。
動画の凛を思い出す。
走って、笑って、誰かと並んでいた姿。
「……大丈夫よ」
優しく言う。
「私たちは、あの子が幸せならそれでいい」
父も頷く。
「だな」
通話が終わる。
静かなリビング。
母はもう一度、動画を再生する。
凛が笑う。
その隣にいる誰か。
「もっと子供らしくて良いのに」
凛は知らない。
期待も、心配も、
全部“縛るため”じゃない。
守りたいから、願っているだけ。
⸻
その頃。
凛の部屋。
ベッドの上で天井を見つめている。
母が動画を見ていることも、
父が心配していることも知らない。
ただ、今日の図書館を思い出している。
「最初に会うの、玲がいい」
自分で言って、少し笑う。
スマホが震える。
『明日アイスでも食べない?』
玲から。
凛の胸がまた、少しだけ弾む。
『課題終わったら』
送信。
小さな約束。
静かな家。
でも。
今日は少しだけ、あたたかい。
夏は、始まったばかり。




