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体育祭当日

朝の校門は、いつもより少しだけ世界が明るかった。


 快晴。雲は薄く、空は高い。

 校庭にはすでにテントが並び、白線がくっきりと引かれている。


 スピーカーからは開会式前の音楽が流れ、

 マイクテストの「ワン、ツー」が少し間の抜けた声で響いていた。


 色とりどりのクラスTシャツ。

 頭に巻かれたハチマキ。

 いつもより早い時間なのに、誰も眠そうではない。


「今日暑くなりそうじゃない?」

「焼けるやつだろこれ」

「やっぱうちの学校気合いはいってるよね?」


 そんな声があちこちから飛び交う。


 玲は約束より少し早く校庭に入った。

 まだクラスの大半はテントの準備中で、グラウンドは思ったより静かだ。


 リレーのバトンゾーン。


 白線の上に、すでに立っている人影があった。


「……早いね」


 振り向いた凛が、少し驚いたように笑う。


「約束だからね」


「律儀」


「藍原こそ早すぎるよ」


 凛の声はいつも通り明るい。

 けれど、よく見ると指先がわずかに落ち着かない。


 無意識に、何度もハチマキを触っている。


「緊張してる?」


 玲が聞く。


「してない」


 即答。


 でも一拍置いて、


「……ちょっとだけ」


 と小さく付け足した。


 校庭は広い。

 その中央で、まだ人の少ない時間に二人だけで立っていると、

 音が遠く感じる。


「昨日の位置、ここでいいよね?」


 凛が白線を指す。


「もう半歩前」


「半歩?」


「藍原の加速だと、その方が自然」


 凛は少し目を細める。


「ちゃんと見てるね」


「見てないと渡せない」


 言い方は淡々としているのに、

 その言葉が不思議と落ち着く。


 軽く流して確認する。


 佐藤がいないため、玲が仮に一走目を想定して走り、

 凛へと繋ぐ。


「藍原」


 短く呼ぶ声。


 凛は振り向き、走り出す。


 バトンが触れる。


 ほんの一瞬の接触。


 その瞬間だけ、凛の呼吸が安定する。


 ——大丈夫。


 そう思える。


 止まって、もう一度位置を確認する。


「本番、絶対同じにはならないよね」


 凛がぽつりと呟く。


「多分」


「人もいるし、声もすごいし」


「うん」


 玲は少し考えてから言う。


「だから、凛が落ち着いてれば大丈夫」


「私?」


「受け取る側が焦ると全部崩れる」


 凛は一瞬黙る。


 その言葉はプレッシャーのはずなのに、

 なぜか重くない。


「ねぇ……信頼してる?」


 ジト目で凛が見つめる。


「してる」


 即答だった。


 凛は思わず息を止める。


 胸の奥が、わずかに熱を持つ。


「ずるいなあ」


「何が」


「そうやって普通に言うところ」


 凛は少しだけ視線を逸らす。


 緊張は消えない。

 でも、形が変わる。


 不安から、責任へ。


 そのとき。


「朝から真面目だなー」


 後ろから声がした。


 山下だ。


 すでに軽く体を動かしている。


「気合入ってるじゃん」


「確認だけ」


 凛が答える。


「アンカーは大丈夫そうか?」


 玲が言う。


「もちろん!最後決めるの俺だからな」


 山下は笑う。


 その目が、一瞬だけ二人の距離を測る。


「今日は勝とうぜ」


 山下が言う。


「うん」


 凛は強く頷く。


 その声は、クラス委員としての声。

 みんなを引っ張る凛の声。


 でも。


 山下が準備運動に戻ったあと、

 凛は小さく呟く。


「……本番、ちょっと怖いかも」


 それは、玲にだけ聞こえる声だった。


「怖い?」


「失敗したらどうしようって」


「失敗する前提?」


「しない前提でいきたいけど」


 玲は少しだけ空を見上げる。


 澄んだ青。


「失敗しても、次がある」


「混合は一回だけだよ?」


「バトンは一回でも、新しく出来た関係は一回じゃない」


 凛は言葉の意味を考える。


 そして、小さく笑う。


「それ、慰め?」


「事実」

「俺は混合リレーに一緒に出れて良かったと既に思ってる」


 凛は深く息を吸う。


 胸の奥のざわつきが、少しだけ静まる。


 遠くで開会式の整列を促すアナウンスが流れる。


 クラスのテントから、仲間たちの声が聞こえてくる。


 体育祭が始まる。


 騒がしい一日の始まり。


 凛は最後にもう一度、バトンを握る。


「……月城くん」


「ん?」


「本番、ちゃんと受け取るから」


「うん」


「ちゃんと私を見て走ってね」


 玲はわずかに笑う。


「任せて」


 その一言で、凛の緊張は完全には消えないまでも、

 確かな形に変わった。


 戦う準備は、できている。


━━━━━━━━━━━━━━

 

 開会式の整列。


 全校生徒がグラウンドに並ぶと、朝の空気は一気に熱を帯びた。


 校旗が掲げられ、吹奏楽部のファンファーレが鳴る。


 太陽は高く、影はくっきりと地面に落ちる。


「選手宣誓!」


 代表の声が青空に響く。


 その声に合わせて、拍手と歓声が波のように広がる。


 凛はクラスの列の先頭近くに立っていた。

 背筋を伸ばし、表情はいつもの通り落ち着いている。


 けれど、指先はほんの少しだけ冷たい。


 隣に並ぶ玲は、それに気づいているが何も言わない。


 ただ、静かに同じ方向を見ている。


 競技が始まる。


 最初は短距離走。


 スタートのピストルが鳴るたびに、

 歓声が爆発する。


「いけー!」

「抜け抜け!」


 テントの下からクラスメイトが身を乗り出す。


 走り終えた生徒が戻ってくると、

 自然とハイタッチが交わされる。


 勝っても負けても、

 そこには笑顔があった。


 玉入れ。


 笛の音と同時に、無数の赤と白の球が宙に舞う。


「高く投げろ!」

「数えてる!?」


 終わった瞬間、地面に転がる球と一緒に笑い声が転がる。


 凛も一度、玉を投げながら声を張り上げた。


「まだいける!」


 その声に、クラスが応える。


 玲は少し後ろから、その様子を見ていた。


 凛はやはり、中心にいる。


 誰かを引っ張るときの声は、迷いがない。


 綱引き。


 全員が一列に並び、ロープを握る。


「せーの!」


 掛け声と共に、全身が後ろに傾く。


 土が削れ、靴が滑る。


 勝った瞬間、歓声が爆発する。


 負けても、「惜しい!」と笑い合う。


 その輪の中に、玲もいる。


 自然に肩を叩かれ、自然に笑う。


 体育祭という特別な日が、

 クラスの距離を縮めていく。


 昼前。


 応援合戦が始まる。


 太鼓の音。

 揃った振り。

 声が空に突き抜ける。


 凛は前列で声を出していた。


 額に汗が光る。


 でもその目は、どこか遠くを見ている。


 午後一番。


 混合リレー。


 それが頭から離れない。


 歓声の中にいても、

 心の奥で、秒針の音が鳴っている。


 昼休み。


 テントの下で弁当を広げながらも、


「午後勝負だな」

「混合取ればいけるぞ」


 そんな会話が飛び交う。


 山下は箸を持ちながら言う。


「アンカー見とけよ」


 クラスが笑う。


 凛も笑う。


 でもその視線は、無意識に玲を探す。


 玲は少し離れた場所で水を飲んでいる。


 目が合う。


 一瞬だけ。


 凛の胸の奥で、

 不安と高揚が混ざる。


 ——もうすぐ。


 午後の競技開始を告げるアナウンスが流れる。


 空は変わらず青い。


 けれど、空気は朝とは違う。


 熱が溜まり、期待が膨らみ、

 すべてが混合リレーへと向かっていく。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 ピストルの乾いた音が、空を裂いた。


 一走目、佐藤が飛び出す。


 砂を蹴る音。

 歓声が一斉に膨らむ。


「いけー!」

「そのまま!」


 玲はゾーンの白線を踏まないように立ち、前方を見つめる。


 佐藤は二番手。


 差は大きくない。


 ——大丈夫。


 佐藤が最後の直線に入る。


「月城くん!」


 クラスの声が重なる。


 玲が静かに走り出す。


 無駄のないフォーム。

 焦りのない加速。


 バトンが触れる。


 一瞬も揺れない。


 受け取った玲は、そのまま外側を回り、前を追う。


 差は、ほとんど変わらない。


 でも。


 コーナーで、一人抜いた。


 歓声が爆発する。


「月城速っ!」

「きた!」


 凛の心拍が一気に上がる。


 玲が直線に入る。


 距離が縮まる。


 ——来る。


「藍原」


 短い声。


 昨日も、朝も、何度も聞いた呼び方。


 凛は走り出す。


 目は合わせない。


 声だけを信じる。


 バトンが手に触れる。


 その瞬間、世界が静かになる。


 ——受け取った。


 足が地面を蹴る。


 加速。


 横から別の選手の気配。


 並ばれる。


 でも、焦らない。


 最初の三歩、焦らない。


 玲の声が頭に残っている。


 リズムを整える。


 中盤で、わずかに前へ出る。


「藍原いけー!」


 クラスの声。


 胸が熱くなる。


 カーブを抜ける。


 アンカーが見える。


 山下が手を伸ばしている。


「藍原!」


 強い声。


 最後の数メートル。


 足が重い。


 でも止まらない。


 ——ちゃんと渡す。


 距離を合わせる。


 タイミングを読む。


 山下の手に、確実に押し込む。


「頼んだ!」


 凛の声が、風に乗る。


 山下が受け取る。


 一瞬の遅れもない。


 そのまま全力で飛び出す。


「山下ー!!」


 アンカー勝負。


 現在、二位。


 前との差はわずか。


 山下の表情が変わる。


 本気だ。


 腕を振り、地面を蹴る。


 観客席が総立ちになる。


 最後の直線。


 横に並ぶ。


 あと数歩。


 凛は息を止める。


 玲は無言で前を見ている。


 ゴールテープ。


 同時。


 一瞬、静寂。


 そして――


「一組、一位!」


 アナウンスが響く。


 遅れて、歓声が爆発した。


 凛の視界が揺れる。


 膝に力が入らない。


「勝った……?」


 佐藤が泣きそうな顔で笑う。


 山下が振り向き、拳を握る。


「っしゃあ!」


 クラスメイトが駆け寄る。


 肩を叩かれ、抱きつかれ、ぐちゃぐちゃになる。


 その中心で、凛は笑っていた。


 でも。


 一歩引いた場所で、玲と目が合う。


 言葉はない。


 ただ、小さく頷く。


 ——渡せた。


 ——受け取った。


 それだけで十分だった。


 山下が近づいてくる。


「藍原!」


 息を切らしながら笑う。


「言ったろ、最後決めるって」


「うん、ナイス」


 凛は真っ直ぐに言う。


 山下の胸が熱くなる。


 今だ、と思う。


 でも。


 その瞬間、凛が玲の方を向く。


「月城くん、あの抜き方すごかった!」


「コーナーで上手く抜けた」


「かっこよかった!」


 その声は、少しだけ興奮気味だった。


 山下はそのやり取りを見ている。


 勝った。

アンカーとして役目は果たした。


 追い風は吹いている。

 それでも胸の奥で、何かが静かに揺れた。


 歓声はまだ止まない。


 体育祭は続いていく。


 

 

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