体育祭の準備
体育祭の時期が訪れた。
「今日は6限の時間で体育祭について話し合え〜」
担任の教師が気怠げに告げる。
「時間少ないし早速体育祭の種目の参加者を決めよっか」
藍原凛の声で、教室が自然と静まった。
「クラス対抗だから、人数ちゃんと考えないとね」
そう言って、黒板に大まかな種目を書き出していく。
その横で、すぐに反応したのは、真面目だが人当たりがよい学級委員の三浦だった。
「リレーは男子、女子、混合で十二人必要だよね。リレーと重複できない競技もあるから、先にそこ決めた方がいいと思う」
「そうだね!」
凛は即座に頷く。
意見を切らず、きちんと拾う。その姿勢が、周りを安心させていた。
「綱引きは力ある人からいこうぜ!」
山下が声を上げると、教室のあちこちから笑いが起きる。
「それ毎年言ってるけど、結局人数足りなくなるんだよね」
加藤がすぐにツッコミを入れた。
「じゃあ藍原も入れよう」
「え、私?」
「凛いれば勝てそうじゃん」
「そんな馬鹿力じゃないよ!」
軽い冗談。
凛は苦笑しながらも、「考えとくね」と柔らかく流す。
そのやり取りを、月城玲は少し離れた席から眺めていた。
賑やかだが、うるさすぎない。
誰か一人が突出しすぎることもない。
——バランスのいいクラスだ。
「月城くん、走るのはどう?」
今度は三浦がこちらを向いた。
「50メートル、結構速かったよね」
「……普通だと思うけど」
「普通って言う人ほど速いから」
笑いが起きる。
玲は少しだけ肩をすくめて頷いた。
「じゃあ、リレー候補に入れとくね」
名前が黒板に書き加えられる。
その瞬間、凛の視線がちらりとこちらを向いた。
目が合う。
ほんの一瞬だったが、凛はすぐに微笑んだ。
「ありがとう、月城くん」
ただそれだけ。
でも、その一言は、教室のざわめきの中で不思議と耳に残った。
その後も、
「騎馬戦、怖い人いる?」
「応援係、声出せる人お願い!」
次々に声が飛び交う。
凛は、全体を見ながら必要なところに声をかけていく。
真面目な意見は三浦が支え、
場が重くなれば山下や加藤が笑いを入れる。
そして、凛はときどき、玲の方を見る。
(……一緒にやれたら)
理由ははっきりしない。
ただ、騒がしい中心ではなく、少し外側に立つ彼の位置が、今の自分には心地よく感じられた。
「リレー候補の人で放課後に少し集まれる人、校庭で確認しよう」
凛が言うと、数人が手を挙げる。
そして、ほんの一拍置いてから。
「月城くんも、来られそう?」
教室が一瞬だけ静まる。
「候補だからね」
「ありがとう。楽しみ」
理由は“正しい”。
けれど、凛の中では、それだけじゃなかった。
「ちゃんと行くよ」
玲の短い返事に、凛は少しだけ安心したように頷いた。
体育祭の準備は、まだ始まったばかり。
けれどこの時点で、クラスの空気は、確かに一つになり始めていた。
放課後の校庭は、まだ日中の熱を残していた。
集まったのは、リレー候補に名前が挙がった生徒たちだけ。人数は十数人ほどだ。
「じゃあ、とりあえず軽く走ってみよっか」
凛がそう言うと、自然と円ができる。
男子リレー、女子リレー、混合リレー——この学校では、混合リレーが一番盛り上がる目玉種目だった。
「混合はガチで決めたいよな」
「去年中等部のときは、あれで順位変わったし」
山下と加藤がそんな話をしながら、ちらりと玲を見る。
「月城って、そんなにはやいの?」
「なんか頭良さそうなタイプで運動はしなさそうだけど」
冗談めいた口調。
けれど、完全に善意とも言い切れない。
「確かに勉強できるやつってさ、運動微妙なイメージあるわ」
「ガリ勉って訳じゃないんだから」
はは、と誰かが笑う。
玲は特に表情を変えず、靴ひもを結び直していた。
「ちょっと、そういう言い方しなくてもいいでしょ」
先に声を上げたのは凛だった。
「走るの、得意かどうかは見てからでいいじゃん」
やわらかい口調だが、はっきりした言葉。
一瞬、場の空気が止まる。
「いや、悪気ないって」
「冗談だよ、冗談」
山下が肩をすくめるが、目はあまり笑っていない。
(……庇ってくれた)
玲は、少しだけ驚いた。
同時に思う。
このまま何もせずに終わるのは、違う気がした。
「ちゃんと走るから見てて」
玲がそう言って、前に出る。
「え、マジ?」
「本気で出る気なんだ?」
「確かに月城くんはあんまりやりたがらないかと思ってた」
女子たちも意外そうにする。
「確認なんでしょ」
淡々とした返事だった。
スタート位置に数人が並ぶ。
混合リレー候補として、男子メンバーが走る。
グラウンド1周200m。
「いくよー」
「よーい!どん!!」
凛の合図で、全員が走り出した。
無駄のないフォーム。
大きすぎない歩幅で、確実に前に出る。
「……あれ?」
「月城くん、結構速くない?」
後ろから声が上がる。
直線に入った瞬間、玲はさらに速度を上げ、前を走っていた男子を一人抜いた。
ゴール。
一拍遅れて、ざわっとした空気が広がる。
「え、普通に速いじゃん」
「想像と違うんだけど」
山下と加藤が息を切らせながら顔を見合わせる。
「はぁはぁ……」
「マジか負けた」
加藤が小さく言った。
凛は、思わず息を吐く。
「すごいね、月城くん」
素直な声だった。
「ありがとう」
玲はそれだけ返す。
誰かを見返したかったわけじゃない。
ただ、少し目立つのに庇ってくれたことに、何も返さないのは違うと思った。
陽斗が会話に入ってくる。
「じゃあ、混合リレー候補だな!」
「陽斗はリレー候補じゃないだろ」
「はは!気になるじゃん?」
「まぁ俺はリレーみたいな短距離じゃなくて長距離タイプだけどさ」
「まぁそういうもんか」
「私も混合出るから一緒に頑張ろうよ!」
凛も気持ち普段よりテンション高めに話す。
本人も気づいていない程度の変化ではあった。
ただ、胸の奥に小さな安堵が残ったことは実感していた。
(この人なら、大丈夫)
誰かに押し上げられるのではなく、
本当は自分の足で前に出られる人。
体育祭の準備は、静かに熱を帯び始めていた。
練習が終わるころには、空が少しだけオレンジ色に染まっていた。
「今日は確認だし、ここまでにしよっか」
凛の声に、集まっていた生徒たちがそれぞれ解散していく。
校庭に残っていた熱気が、少しずつ引いていくのが分かった。
「おつかれー」
「頑張りすぎたかも、明日筋肉痛だな」
そんな声が飛び交う中、玲も頃合いを見て水を飲みながら帰ろうとする。
「月城くん」
名前を呼ばれて顔を上げると、凛が少しだけこちらに近づいてくる。
「一緒に帰る?」
問いかけは自然だった。
周囲にもまだ人はいる。
「いいよ」
それだけ答えて、並んで歩き出す。
校庭を出て、校舎の影に入ると、少し静かになった。
風が吹いて、汗が冷える。
「さっき、ありがとう」
凛が先に口を開いた。
「……何が?」
「ちゃんと走ってくれて」
玲は一瞬考えてから言う。
「確認しなきゃだからね」
「でも、本気だったでしょ」
凛の声には、責める響きはなかった。
「少しそういう気分になっただけだよ」
正直な答えだった。
凛は小さく笑う。
「月城くん、思ってたより……いや、想像通りかな」
「どっち?」
「うーんどっちだろうね」
少し間が空く。
「さっき、庇うみたいになってごめんね」
凛は前を見たまま言った。
「嫌だった?」
「嫌じゃない」
即答だった。
「むしろ、助かった」
凛は驚いたように目を瞬かせる。
「そう?」
「ちょっと目立っちゃったかと思って嫌かなって」
「言われっぱなしも、あまり得意じゃないから」
「……私も」
その一言に、凛は自分でも意外そうに笑った。
校門が近づく。
周りにはまだ何人かクラスメイトの姿もある。
「混合リレー、一緒にできるね」
凛が言う。
「そうだね」
「……一緒に練習できるね」
その凛の言葉は、独り言に近かった。
しかし玲にはちゃんと聞こえていた。
「うん」
「少し俺も楽しみかも」
それ以上、特別な会話はない。
でも、沈黙は気まずくなかった。
校門で足を止める。
「じゃあ、また明日」
「また」
短いやり取り。
それだけで十分だった。
凛は背を向けて歩き出しながら、胸の奥に小さな感覚が残るのを感じていた。
——無理をしなくても、隣にいていい人。
でももっと近くに行ってみたいな。
まだ名前のつかない感情だった。




