音楽室と玲の独白
扉を閉めると、外の音がすっと遠のいた。
古い音楽室は、相変わらず静かだった。
窓から入る光が、床に細長く伸びている。
玲は譜面台の近くに鞄を置き、椅子に腰掛けた。
少し遅れて、凛が入ってくる。
「……今日、来てたんだ」
「うん居心地よくてね。ここ」
凛はそう言って、窓際の椅子に座る。
距離は、いつもと同じくらい。
しばらく、言葉はなかった。
音楽室特有の、音を吸い込むような静けさ。
その中で、凛が何か言いかけて、やめた気配がした。
「……あのさ」
「ん?」
凛は少しだけ間を置いてから、玲を見る。
「昨日、クラスの集まり……来なかったよね」
探るようでも、責めるようでもない。
本当に、思い出したから聞いただけ、という声だった。
「うん」
玲はあっさり答える。
「なんで?」
「別に」
それだけ言って、肩をすくめる。
「他にも参加してない人、いたし」
「……そうだけど、やっぱり苦手なの?」
凛は少しだけ眉を下げた。
「佐伯くんが、月城くんも来ればよかったのにって」
「陽斗が?」
「うん」
凛は小さく笑う。
「みんな、結構盛り上がってたから」
「そう」
玲はそれ以上、踏み込まない。
行かなかった理由を説明する気もなかったし、
説明できるほど、はっきりした理由でもなかった。
凛は、少しだけ視線を床に落とす。
「……人と過ごすのは楽しくない?」
「楽しいかどうかは、分からない」
「え」
「今までも行ってないから」
淡々とした言い方だった。
凛は一瞬きょとんとしてから、くすっと笑った。
「月城くんらしい」
「そう?」
「うん」
その言葉に、玲は特に反応しない。
ただ、否定もしなかった。
「私は……」
凛はそこで一度言葉を切る。
「行ってよかったとは思うよ」
「うん」
「でも」
少しだけ、声が小さくなる。
「帰ったあと、ちょっと疲れてた」
玲は、凛を見る。
凛は窓の外を見たまま続けた。
「みんなといるのは嫌いじゃないんだけどね」
「……」
「やっぱり無意識に、気を張るっていうか」
それは、ここだから言える言葉だった。
玲は、短く息を吐く。
「分かる」
凛が、少しだけこちらを見る。
「分かるんだ」
「多分、同じじゃないけど」
「それでも」
凛は小さく頷いた。
再び、静寂が戻る。
けれど、気まずさはない。
凛は、ふと思い出したように言う。
「月城くんって、クラスでもあんまり誰かと一緒にいないよね」
「人と関わりたいとは思うけど、1人が楽ではあるからね」
「そう言い切れるの、すごいと思う」
「すごくはない、簡単な方に行ってるだけ」
「私は……」
凛は、言葉を選ぶ。
「楽な場所があるの、ちょっと羨ましい」
玲は、少しだけ考えてから言った。
「ここも、その一つだと思ってるなら」
「……うん」
「別に、誰にも言わなければいい」
凛は目を瞬かせる。
「秘密ってこと?」
「そう」
「噂とか、気にしてる?」
「少しは」
正直な答えだった。
「でも、だからって来ない理由にはならない」
「……月城くん」
凛は、少し迷ってから微笑む。
「ありがとう」
「別に」
玲は視線を外す。
「俺も誰かと話たいとは思ってるし」
「……強引だね」
「多少は」
凛は、くすっと笑った。
「でも、助かる」
音楽室の時計が、静かに秒を刻む。
ただ、同じ空間にいることが、自然に戻っていく。
凛は思う。
昨日の賑やかな場所よりも、
この静けさの方が、ずっと呼吸がしやすいと。
玲は思う。
守る、なんて大げさなことじゃない。
ただ、ここを壊したくないだけだと。
音楽室の空気が、少し落ち着いた頃だった。
凛は椅子の背にもたれながら、ぽつりと言った。
「月城くんってさ」
「うん?」
「どうして、あんなに平気そうなの?」
問いは曖昧だったけれど、玲には何を指しているのか分かった。
「平気そうに見えるだけ」
「……それ、ずるい答え」
凛は小さく笑う。
玲は少し考えてから、視線を床に落とした。
「昔、ピアノやってた」
「だろうね」
「結構、本気で」
凛は続きを促すように、黙って聞いている。
「両親が音楽家でさ。家にグランドピアノがあって、物心つく前から弾いてた」
「英才教育ってやつ?」
「多分」
玲は苦笑する。
「勉強も、運動も、それなりにできたから。周りも、家族も、期待してた」
“それなり”と言いながら、その期待がどれほどのものだったかは想像がついた。
「期待されるの、嫌じゃなかった?」
「最初は」
正直な声だった。
「褒められるし、結果出るし。頑張ればいいだけだったから」
でも、と言葉を区切る。
「いつからか、ピアノ弾きたいって思わなくなった」
「……きっかけは?」
「分からない」
はっきりと、そう言った。
「ただ、ある日クラスメイトに言われたんだ」
玲は、少し間を置いて続ける。
「『月城ってさ、なんでもできて家も良くて、ずるいよな』って」
「……」
「笑いながら。軽い感じで」
悪意がなかったことも、冗談だったことも、分かっている。
「でも、その時は」
玲は、ほんの少しだけ言葉に詰まった。
「……なんか、全部持ってる前提で見られてる気がして」
「……」
「持ってるから頑張れって、言われてるみたいで」
凛は、何も言わなかった。
ただ、真剣に聞いている。
「それで、急にどうでもよくなった」
「ピアノが?」
「全部」
言い切る声は、静かだった。
「弾かなきゃいけない理由も、期待に応える理由も」
凛は、ゆっくり息を吸う。
「……それで、今は?」
「今は」
玲は凛を見る。
「期待されない場所が、楽」
その言葉は、凛の胸に静かに落ちた。
「だから」
玲は続ける。
「誰かが期待で苦しくなりそうなら、せめて邪魔はしたくない」
「……守りたい、みたいな?」
「そこまで立派じゃない」
でも、と付け足す。
「放っておくよりは、いい」
凛は、しばらく黙っていた。
そして、小さく笑う。
「月城くんって、優しいよね」
「そうは言われない」
「私は言う」
凛は、はっきりとそう言った。
「……ありがとう」
「何が」
「話してくれて」
玲は、少し照れたように視線を外す。
「別に、秘密でもないし」
「私にとっては」
凛は、音楽室を見回す。
「ここで聞けたの、特別な気がする」
その言葉に、玲は何も返さなかった。
ただ、心のどこかで思う。
期待も、噂も、評価も入ってこないこの音楽室を。
そして、ここで息をつく彼女を。
それで十分だと、今は思えた。
しばらく沈黙が流れたあと、凛が口を開いた。
「……ね、月城くん」
「ん?」
凛は、少しだけ姿勢を正す。
「私ね」
言葉を探すように、視線を宙に漂わせてから続けた。
「理解してくれる人がいるって分かっただけで、すごく救われた」
玲は何も言わず、耳を傾ける。
「私は、期待に応える道を選んでる」
それは、迷いのない言い方だった。
「成績も、立ち振る舞いも、周りとの関係も。
求められてる“藍原凛”でい続けることを、今はやめる気はない」
凛は小さく笑う。
「それが一番、波風立たないから」
「……」
「でも」
声が、少しだけ柔らかくなる。
「月城くんは、違う選択をした人だよね」
玲は否定しなかった。
「期待から降りるって、簡単じゃないのに」
「降りたっていうか」
「距離を取った、でもいい」
凛は続ける。
「そんな人が、私の立場を分かった上で気にかけてくれてるって思ったら」
凛は、胸に手を当てる。
「……逃げ道を示されたみたいだった」
玲は、少しだけ目を伏せた。
「逃げてもいいって、言ってるわけじゃない」
「分かってる」
凛はすぐに答える。
「でも、“逃げてもいい場所がある”って知るだけで、人って楽になる」
その言葉は、どこか実感を伴っていた。
「私は、今は走り続ける方を選ぶ」
「うん」
「でも」
凛は、音楽室をぐるりと見渡す。
「ここに来れば、何者でもない私でいられる」
玲は、静かに頷く。
「それでいい」
凛は、少し照れたように笑った。
「月城くんって、不思議だね」
「どこが」
「励ましてるのに、背中押してこない」
「押すと、余計な期待になる」
「……それ、すごく優しいと思う」
再び、音楽室に静けさが戻る。
でも今度は、さっきよりも温度のある沈黙だった。
凛は思う。
この人は、引き止めもしないし、引き上げもしない。
ただ、ここに“戻れる場所”を作ってくれる。
それが、どれほど心強いことか。
玲は思う。
守るというより、壊させないだけ。
それでも、誰かの支えになるなら、それでいい。
音楽室は、今日も変わらず静かだった。
けれど二人の中には、確かに一つ、逃げ道ができていた。




