音楽室と秘密
旧校舎の廊下は、相変わらず人気がなかった。
夕方の光が窓から斜めに差し込み、
床に長い影を落としている。
音楽室の扉の前で、
玲は一瞬だけ足を止めた。
(……いる、かな)
ノックをするか迷って、
結局、そのまま扉を開ける。
「……あ」
中にいた凛が、ゆっくり顔を上げた。
「……月城くん」
それだけで、
お互いに少しだけ肩の力が抜ける。
「来てたんだ」
「うん。ちょっとだけ」
凛はグランドピアノの横に立っていた。
いつもの位置。
玲は扉を閉め、
そっと鍵をかける。
「……今日は、来ないかと思った」
凛の言葉は、独り言みたいに小さかった。
「俺も。行かない方がいいかなって思った」
「……一緒」
短い沈黙。
でも、気まずさはない。
二人はピアノを挟むようにして、
それぞれ腰を下ろした。
「……学校、なんかあった?」
凛がそう聞くと、
玲は少し考えてから答えた。
「いつも通り、かな」
嘘ではない。
ただ、全部を言っていないだけ。
凛もそれを分かっている。
「……そう」
凛はそれ以上、踏み込まなかった。
代わりに、視線を窓の外へ向ける。
「ね、月城くん」
「なに?」
「この場所さ」
凛は、音楽室をぐるりと見回した。
「……誰にも、知られない方がいいよね」
玲は、少しだけ驚いた顔をする。
「……同じこと、考えてた」
「やっぱり?」
「うん」
玲は、静かに言葉を続けた。
「ここで会ってるって知られたら、
藍原さんの方が……」
言いかけて、止める。
凛は、ふっと笑った。
「大丈夫だよ。
月城くん、優しいね」
「……事実だと思う」
「でも」
凛は、少しだけ真剣な表情になる。
「私のためだけじゃなくて、
月城くんのためにも、だよね」
玲は、はっきりと頷いた。
「……うん」
二人の間に、
はっきりとした共通認識が生まれる。
「じゃあ」
凛は、軽く手を差し出した。
「ここで会うこと、
誰にも言わない。秘密」
「……約束?」
「約束」
玲は一瞬迷ってから、
そっとその手に触れた。
握手、というほど強くはない。
でも、
確かに“繋がった”感触があった。
「……不思議」
凛が、ぽつりと言う。
「ここに来ると、
外のこと、あんまり気にならなくなる」
「俺も」
玲は、視線をピアノに落とした。
「……ここにいる時の藍原さん、
教室で見るのと、全然違う」
「え、そう?」
「うん。……静か」
凛は、小さく笑う。
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「なら、よかった」
二人の会話は、またゆっくりと日常に戻る。
授業のこと。
最近の天気。
他愛もない話。
でも、
その奥には、確かな変化があった。
——誰にも言わない場所。
——誰にも見せない顔。
それを共有しているという事実が、
二人の距離を、静かに縮めていた。
旧校舎の出口が見えた、その時だった。
「……あれ? 藍原じゃん」
背後からかかる声。
凛の肩が、ほんの少しだけ強張る。
振り返ると、クラスの男子が二人。
好奇心を隠さない視線が、まず凛に向けられ、
それから遅れて玲に向いた。
声をかけてきたのは、山下と加藤だった。
二人とも同じクラスでそれなりに顔が広い。
特に山下は、凛がよく一緒にいる女子グループと知り合いで、凛とも昼休みや行事の時に軽く話す程度の距離感を保っていた。
加藤も同様で、
「藍原は感じいいよな」「話しかけても嫌な顔しないし」
そんなふうに、凛を“好印象な存在”として認識している側の男子だった。
だからこそ。
旧校舎で見かけた瞬間、
二人の視線は自然と凛に向き、
その隣にいた月城玲に、わずかな違和感を覚えた。
——知らない顔。
——特別目立つわけでもない男子。
それが、凛の隣に“当たり前のように”立っている。
山下と加藤が玲を見る目に、
ほんの少しだけ棘が混じったのは、そのせいだった。
敵意というほど露骨ではない。
けれど、
「誰だ、あいつ」
そんな感情が、確かに生まれていた。
凛を気にかけていたからこそ、
月城玲の存在は、二人にとって想定外だった。
「こんなとこで何してんの?」
「旧校舎って、今使ってたっけ?」
凛が口を開きかけた、その瞬間。
「使ってますよ」
玲が、迷いなく言った。
自然に、凛の半歩前へ出る。
「音楽室。
楽器の状態確認で、たまに開放されてるんです」
男子たちは、少し意外そうな顔をする。
「へぇ……そうなんだ」
「先生に言われて来てて。
もう終わったんで、今から帰るところです」
“強引だけど、否定しにくい理由”。
凛は横で、そっと息を飲んだ。
「ふーん……」
男子の一人が、少し探るように凛を見る。
「藍原も?」
玲は、被せるように続けた。
「藍原さんは、たまたまで
鍵の確認手伝ってもらってただけです」
一切、感情を乗せない声。
凛が“特別”だと伝わらない距離感。
それが、逆に壁になる。
「……まあ、そういうことなら」
男子たちは、それ以上踏み込まずに手を振った。
「じゃ、またな。藍原」
「……うん」
二人が去り、足音が消える。
静寂が戻った廊下で、
凛はゆっくりと息を吐いた。
「……月城くん」
「ごめん。
とっさに」
「ううん」
凛は、小さく首を振る。
「助かった。
ちゃんと“理由”だったし」
「……変じゃなかった?」
「ちょっと強引かもだけど確かめようが無いし……」
むしろ、と言いたげに、
凛は少しだけ笑う。
「私が説明するより、
納得されてた」
その言葉に、
玲の胸の奥が、静かに熱くなる。
(……そうか)
守るって、
前に立つことだけじゃない。
“居場所を正当化する”ことも、
守ることなんだ。
「……ああいうの、慣れてる?」
玲が、ぽつりと聞く。
「慣れてる、けど」
凛は、少しだけ言葉を選んで。
「一人で受ける前提、だったから」
玲は、歩き出しながら言った。
「……それ、やめていいと思う」
「え?」
「旧校舎にいた理由、
今日みたいに言えばいい」
凛が、驚いたように見る。
「俺がいる時は、
俺が言うから」
宣言ではない。
約束というほど大げさでもない。
でも。
「……それ、ずるい」
凛は、困ったように笑った。
「なんで?」
「月城くんが前に出ると、
私、何も言えなくなる」
玲は、一瞬黙ってから。
「……それでいい」
凛の足が、止まる。
「……え?」
「藍原さんが“藍原凛”でいる時は、
俺が理由になる」
凛は、何も言えなかった。
ただ、胸の奥が、
ゆっくりと満たされていくのを感じていた。
(……この人)
守られる、じゃない。
“居場所を一緒に作ってくれる”。
そう思った瞬間、
凛の中で、月城玲の存在は
はっきりと「特別」に変わった。




