月曜日の学校と噂
朝の体育館は、まだ少し冷えていた。
バスケ部の朝練が終盤に差し掛かるころ、
陽斗はタオルで汗を拭きながら、
コート脇で話している後輩たちの声に気づいた。
「……マジで?」
「うん、見たって。駅前で」
「藍原だろ?」
その名前が出た瞬間、
陽斗の手が止まる。
「誰と?」
「それが分かんないんすよ」
後輩は少し興奮した様子で続ける。
「同じ学校っぽいけど、
有名な先輩とかじゃなくて、
普通の男って言ってました」
「普通?」
「はい。
だから余計に印象に残ったって」
陽斗は、小さく息を吐いた。
「変な憶測、広めんなよ」
そう言うと、後輩は慌てて頷いた。
「いや、俺は別に……」
だが、
“藍原凛が男といた”
という情報は、すでに朝の体育館に染み込んでいた。
⸻
一方、教室。
ホームルーム前の時間帯は、
一日の中でいちばん雑音が多い。
椅子を引く音。
カバンを開く音。
小さな笑い声。
その中に、
凛の名前が混じり始めるのは、自然な流れだった。
「ねえ凛」
席に着いた凛のもとへ、
同じグループの女子が集まる。
「昨日さ、駅前にいた?」
凛は、一瞬だけ目を瞬かせた。
(……早)
内心でそう思いながら、表情は崩さない。
「なんで?」
「他クラスの子が言ってた」
「男の人と一緒だったって」
「彼氏?」
矢継ぎ早の質問。
凛は少し困ったように笑って、
髪を耳にかけた。
「違うよ」
「じゃあ誰?」
「知り合い」
「それだけ?」
「うん」
それ以上は、何も言わない。
「えー、気になる」
「凛がそういうの珍しいから」
「ほんと」
凛は曖昧に笑ったまま、
それ以上踏み込ませない。
(……言わない)
それは意地でも、
隠したいからでも、嘘をつきたいからでもない。
——巻き込みたくなかった。
「でもさ」
別の女子が声を落として言う。
「変な噂になる前に、
ちゃんと否定しといた方がよくない?」
「……大丈夫」
凛は即答した。
「放っておけば、そのうち消えるから」
その言葉は、
経験から来るものだった。
中学の頃から、
凛の周りでは何度も似たようなことが起きている。
少しの噂。
少しの好奇心。
そして、別の話題に塗り替えられていく日常。
(……いつも、そう)
だから、感情を表に出さない。
必要以上に説明しない。
それが、
藍原凛が“完璧でいる”ためのやり方だった。
教室の後方。
玲は、いつも通り静かに席に着いていた。
周囲の会話は、断片的に耳に入る。
「藍原ってさ……」
「男といたらしいよ」
「この学校のひとかな?」
——自分の名前は、出てこない。
それは、当然のことだった。
玲はクラスの中で、
特別目立つ存在ではない。
それでも、
凛の名前だけが飛び交う空気に、
胸の奥が少しだけざわつく。
(……噂)
自分が、その原因の一端だということを、
玲はまだ知らない。
ホームルーム開始のチャイムが鳴り、
教室が一斉に静まる。
凛は前を向き、
いつもと変わらない姿勢で座る。
完璧な優等生。
誰もがそう見る。
けれどその内側で、
ほんのわずかに、昨日の時間を思い出していた。
——月城くん。
その名前は、
まだ、凛の心の中だけに留められていた。
昼休みの教室は、朝よりもざわついていた。
弁当を広げる音。
席を移動する足音。
窓際で笑う女子の声。
その中に、
確かに混じっている話題がある。
玲は、箸を止めたまま、視線を落としていた。
——まただ。
朝よりも、声が増えている。
けれど、内容は同じ。
「男と一緒だったらしい」
「彼氏?」
「分かんない」
どの会話にも、
“相手の名前”は出てこない。
(……当たり前か)
玲は、内心でそう思う。
自分は、クラスでも学校でも、
噂になるような存在じゃない。
だからこそ。
否定したい気持ちと、
妙に引っかかる感覚が、同時に胸に残る。
土曜日。
駅前。
二人で歩いていた時間。
——見られていても、おかしくはない。
「月城」
隣から声をかけられ、
玲ははっと顔を上げた。
「……何?」
「聞いてる?」
陽斗が、弁当を片手に首を傾げている。
「さっきから、ぼーっとしてるけど」
「……別に」
「疲れてんのか?」
「……まあ」
それ以上、突っ込まれない。
陽斗は、気にする様子もなく話題を変えた。
「今日の体育さ、
体力テストの続きだろ」
「……うん」
「だるいよな」
その会話は、
いつも通りの、何でもない日常だった。
——少なくとも、陽斗は何も知らない。
「そういや」
陽斗が何気なく言う。
「藍原の話どう?」
「……どう、って?」
「いや、特に意味ないけど」
本当に、それだけの調子だった。
「相変わらず、だろ」
玲がそう答えると、
陽斗は「だよな」と軽く笑う。
「完璧すぎて、近づけねーし」
その言葉に、
玲は小さく息を吐いた。
(……完璧、か)
音楽室で見た凛は、
そんな言葉とは少し違っていた。
土曜日の時間に知ったことも。
(……俺だけ、知ってる)
そう思った瞬間、
胸の奥に、わずかな熱が生まれる。
同時に、
それを抱いてしまっていいのかという戸惑いも。
午後の授業が始まり、
教室が静まっていく。
凛は前方の席で、
変わらずノートを取っている。
——噂の中心にいるようには、見えない。
玲は黒板へと視線を戻した。
放課後。
部活へ向かう生徒たちが教室を出ていく中、
陽斗はカバンを肩にかける。
「じゃ、俺行くわ」
「……うん」
「月城も、気をつけて帰れよ」
「……お前もな」
陽斗は軽く手を振って、
教室を出ていった。
一人になった教室。
玲は、しばらく席を立たなかった。
噂。
偶然。
土曜日の時間。
それらが、頭の中で静かにつながっていく。
(……もし)
もし、
あの噂の“男”が自分だとしたら。
(……藍原は)
どう思っているんだろう。
それを確かめる勇気は、
まだなかった。
玲は立ち上がり、
いつもより少しだけ、ゆっくりと教室を出た。
――関係ないままでいいのか。
その問いだけが、
胸の奥に残っていた。
放課後のチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に緩んだ。
椅子を引く音。
部活の話題。
スマホを手に取る気配。
その中で、凛は静かに立ち上がった。
「凛、今日一緒に帰る?」
「ごめん、今日はちょっと用事あって」
「そっか。じゃあまた明日ね」
「うん」
いつも通りのやり取り。
けれど、
その会話の裏側で、凛は確信していた。
(……もう、知ってる)
誰も聞いてこない。
誰も探らない。
それが、何より雄弁だった。
ロッカー前ですれ違う視線。
ひそひそ声が、凛の名前を出す前に止まる気配。
(……放課後まで持ち越されるってことは)
相当、回っている。
凛はバッグを肩にかけ、
何事もないように教室を出た。
廊下では、
別クラスの生徒たちの声が混じる。
「……藍原ってさ」
「……らしいよ」
言葉の端だけが耳に届く。
内容を聞く必要はなかった。
(誰かといた)
それだけで、話題になる。
それが、藍原凛という存在だった。
——慣れているはずなのに。
今日は、少しだけ胸が重い。
理由は、分かっていた。
(……月城くん)
名前を思い浮かべただけで、
心がほんのわずかに揺れる。
同じ頃。
玲は昇降口で靴を履き替えながら、
周囲の会話に耳を澄ませていた。
「土曜日さ、俺見たんだけど藍原が男と歩いてたの」
「そんでベンチでなんか話し込んでた」
「その話ガチなんだ」
玲の動きが、ほんの一瞬止まる。
玲は、自分がその「誰か」かもしれないと、
はっきり自覚してしまった。
(……陽斗も、知らないみたいだったけど)
バスケ部に向かう陽斗は、
いつも通りの様子だった。
もし自分の名前が出ていたら、
きっと何か言ってくる。
それがないということは——。
(藍原が誰かといた、って話だけ)
玲は、少しだけ安堵し、
同時に胸の奥がざわついた。
自分は“無名”で、
彼女は“有名”。
その差が、
はっきりと浮かび上がる。
校門を出たところで、
玲は足を止めた。
(……今日は、行かない方がいいか)
そう思ったのに。
気づけば、
旧校舎の方角を見ていた。
一方、凛もまた、
帰り道の途中で立ち止まる。
(……どうしよう)
今日、音楽室に行けば、
きっと会えるかもしれない。
でも。
行った先で、
誰かに見られたら。
“また噂が増える”
その可能性が、頭をよぎる。
凛は、バッグの紐を握りしめた。
(……でも)
静かな場所で、
言葉にしなくても通じる時間を、
思い出してしまう。
結局。
二人とも、
同じ結論に辿り着く。
——それでも、行きたい。
理由は、言葉にしない。
名前も、呼ばない。
ただ、
会えるかもしれないという期待だけが、
足を前に進めさせる。




