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泥濘の牙

作者: 神箭花飛麟
掲載日:2026/02/09

泥の臭いがした。  

雨に濡れた土の臭いではない。

人間が腐り、馬が倒れ、それが雨水と混じり合って発酵した、戦場の泥の臭いだ。  

俺は、その泥の中にいた。  

指先は冷え切り、感覚がない。

握りしめた剣の柄だけが、俺がまだ生きていることを教えていた。  

黄巣。  

あの男が掲げた「大斉」という夢の、その残骸の中に、俺は突っ立っている。 

空は低く、灰色に濁っていた。 

唐の軍勢は、すぐそこまで来ている。 

俺の背後には、腹を空かせた野良犬のような男たちが数千。 

彼らは俺を見ている。俺の中に、何か答えがあると思っている。 

笑わせるな。俺の中にあるのは、ただ一つの乾きだけだ。 

この腐りきった世界を、一度すべてぶち壊したい。 

唐という、名前ばかりが立派で中身の空っぽな皮袋。

それを引き裂き、中にある膿をぶちまけてやりたい。 

そのためなら、俺は悪魔にでも、裏切り者にでもなる。

「朱温」 

横から声がした。 

葛従周だ。

俺が泥の中から拾い上げ、俺の牙とした男だ。 

あいつの頬には、深い斬り傷がある。

昔、一緒の初陣でつけられたものだ。

「どうする。黄巣様からは、死守せよとの命だ」

「死守か」 俺は唾を吐いた。 

口の中には砂の味がした。

「従周。あの男は、もう終わっている。夢を見すぎた。夢は腹を膨らませてはくれない」

「裏切るか」

「裏切るのではない。俺は、俺自身を選ぶだけだ」 

俺は空を見上げた。 

雨が、俺の目に入った。

冷たい。

だが、この冷たさが心地よかった。 

俺というちっぽけな存在が、この巨大な大地の中で、どこまで食い込めるか。 

組織など、ただの盾に過ぎない。 

俺は、俺の牙で、天の喉笛を噛み切る。


二 

唐への帰順。 

世間は俺を「全忠」と呼ぶようになった。笑止千万だ。 

忠義など、俺の辞書にはない。 

俺が求めているのは、圧倒的な力だ。 

誰も俺を泥の中へ押し戻せない、誰にも俺を支配させない力。 

そのためには、昨日まで肩を並べていた友の首も跳ねる。 

それが、この時代の誠実さというものだ。 

汴州に拠点を構え、俺は軍を鍛え上げた。 

俺が求めたのは、洗練された兵法ではない。 

ただ、一歩も引かない、死を恐れない狂気だ。 

俺の軍では、将が戦死すれば、その部下は全員処刑される。 

残酷だと奴らは言う。 

だが、戦場に情けなど持ち込んで何になる。 

情けをかける余裕があるなら、目の前の敵を一人でも多く殺せ。 

それが、男が戦場で生き残るための、唯一の法だ。 

夜、俺は一人で酒を飲む。 

灯火が揺れている。 

俺の心の中も、常に揺れている。 

天下。 

その二文字を口にする奴は多い。 

だが、その重さを本当に知っている奴が、この地に何人いる。 

李克用。 

あの鴉児と呼ばれる男だけは、俺と同じ臭いがした。

砂塵の中に生き、、馬の血を啜って生きてきた男の臭いだ。 

あいつとの戦いだけが、俺の血を沸かせる。 

他の奴らは、ただの案山子に過ぎない。

「全忠様」 

氏叔琮が報告に来る。 

俺は返事をしない。 

ただ、暗闇を見つめている。 

俺は何のために戦っている。 

権力か。女か。 

違う。 

俺は、俺自身の限界を知りたいだけだ。 

この躰が、この意志が、どこまで届くのか。 

それがわかった瞬間に、俺は死んでもいいと思っている。 

だが、まだ、届かない。 

天はまだ、俺の手の届かない場所で、嘲笑って来る。


三 

唐の帝、昭宗を長安から引きずり出した。 

長安。 

かつての栄華の象徴。 

それを俺は、火の海にした。 

古いものが燃える音は、気分がいい。 

美しい建物も、貴重な書物も、火の前ではただの燃料だ。 

歴史だの伝統だの、そんな重荷を背負っていては、新しい時代は作れない。 

俺は、すべてを灰にする。 

その灰の中から、俺の国を築く。 

昭宗の瞳を見た。 

怯えていた。 

それが、天子の姿か。 

俺を泥の中から這い上がらせ、多くの男たちを死に追いやった世界の頂点が、こんな矮小な男なのか。 

怒りが湧いた。 

こんな男のために、どれだけの命が消えたのか。

「陛下」 俺は声をかけた。 

声が、自分でも驚くほど冷えていた。

「この世は、血と鉄でできているのです。雅びな歌や詩では、腹は膨れません」 

皇帝は何も言わなかった。 

ただ、震えていた。 

俺は、その男の首を絞める自分を想像した。 

いや、まだ早い。 

こいつは、まだ使える。 

俺が、完全に天を掴むその日まで。 

洛陽へ。 

遷都という名の、死の行進だ。 

道中、多くの役人が、多くの宮女が死んでいった。 

俺はそれを見なかった。 

俺が見ているのは、常に前にある無だ。 

俺は、俺自身の空虚を埋めるために、この世界を破壊し続けているのかもしれない。 

朱温。 

俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。 

だが、その声は、かつて泥の中で俺を呼んでいた母親の声でも、戦場で散った部下たちの声でもない。 

ただの、風の音だ。


四 

李克用との決戦。 

上源驛の夜を、俺は忘れない。 

酒を酌み交わし、友のように語り合った。 

だが、俺の心の中では、常に剣が研がれていた。 

あいつを殺さなければ、俺の時代は来ない。 

火を放った。 

燃え盛る館。 

李克用が叫びながら闇の中へ消えていくのを見た。 

仕留め損ねた。 

だが、それでいい。 

あいつがいなければ、この世はあまりにも退屈だ。 

好敵手。 

そんな甘い言葉ではない。 

あいつは、俺の鏡だ。 

あいつを殺すことは、俺自身の一部を殺すことと同じだ。 

だからこそ、俺はあいつを、この手で殺さなければならない。 

軍を動かす。 

俺の軍は、もはや人間の集団ではない。 

殺戮のための機械だ。 

俺が命じれば、彼らは親兄弟でも斬る。 

恐怖。 

それが、俺がこの世界に与えた唯一の秩序だ。 

愛だの信頼だの、そんな脆いものに、何が託せる。 

恐怖だけが、裏切らない。 

俺も、俺自身の恐怖と戦っている。 

いつか、俺よりも強い男が現れ、俺を泥の中へ引きずり戻すのではないかという恐怖。 

だから、俺は走り続ける。 立ち止まれば、死が俺を捕まえる。


五 

昭宗を殺した。 

洛陽の夜。 

俺の命を受けた男たちが、皇帝を刺した。 

翌朝、俺は死体の前で泣いた。 

演技ではない。 

俺は、自分が殺した男のために、本当に涙を流した。 

それが、俺の歪んだ誠実さだ。 

一人の男を殺し、その男のために泣く。 

この世界で、これほど滑稽で、これほど真実なことがあるか。

「次は、誰だ」 俺は、血のついた手を洗わずに、酒を飲んだ。 

白馬の禍。 

唐の屋台骨を支えてきた貴族たちを、俺は一箇所に集めた。 

彼らは、俺を見て鼻で笑っていた。 

泥上がりの無頼漢。

それが奴らの俺に対する評価だ。 

いいだろう。 

俺は、その高い鼻を、泥の中に叩きつけてやる。

「清流と自称する奴らは、黄河に投げ込め。濁流に変えてやれ」

三十人以上の高官が、黄河に沈んだ。 

悲鳴は、すぐに水音にかき消された。 

これで、古い時代は終わった。 

残ったのは、血を吸って黒ずんだ大地と、俺だけだ。


六 

禅譲。 

形だけの儀式を経て、俺は皇帝になった。 

後梁。 

それが、俺の国の名だ。 

豪華な椅子に座り、俺は下を見下ろした。 

多くの男たちが、俺に跪いている。 

だが、俺の心は、少しも満たされなかった。 

椅子が冷たすぎるのだ。 

俺が求めていたのは、この椅子だったのか。 

違う。 

俺が求めていたのは、この椅子を奪い取るまでの、あの焦り、あの渇き、あの死の予感だった。 

手に入れた瞬間に、すべては砂のように指の間からこぼれ落ちていく。 

俺は、老いを感じ始めていた。 

肌は乾き、目は霞む。 

かつてのように、戦場を駆けることはもうできない。 

俺の周囲には、俺の椅子を狙う狼たちが集まっている。 

俺が育てた息子たちまでもが、俺の死を待っている。 

皮肉なものだ。 俺が恐怖で支配した世界で、俺が最も恐怖を感じている。

「朱友珪」 長男の名前を呼んでみる。 

あいつの瞳の奥には、俺がかつて持っていたのと同じ、暗い炎がある。

俺を殺しにくるのは、あいつか。 それとも、別の誰かか。 

俺は、それを楽しみにすらしている。 

泥の中で始まった俺の人生が、血の中で終わる。 

それこそが、俺に相応しい。


七 

病の床で、俺は夢を見た。 

黄巣と共に、長安へ入城した時の夢だ。 

あの時、俺たちは未来を信じていたわけではない。 

ただ、世界が壊れていくことが、楽しくて仕方がなかった。 

壊す。 

それが、俺という男の本質だった。 

俺は何も作らなかった。 

帝国さえも、ただの破壊の過程に過ぎなかった。 

夜の闇が深くなる。 

寝所の外で、剣の音がした。 

来たか。 

俺は、枕元にある剣に手を伸ばそうとした。 

だが、腕が動かない。 

俺の躰は、もう俺の意志を裏切っていた。 

扉が開く。 

影が近づいてくる。 

朱友珪だ。 

あいつの顔には、迷いはない。 

俺がそう教えたからだ。

「父上。お疲れ様でした」 

あいつの声が、俺の耳に届いた。 

俺は笑った。 

声にはならなかったが、確かに俺は笑っていた。

「やれ。泥の中へ、俺を帰してくれ」 

腹に熱い衝撃が走った。剣が、俺の身体を貫いている。 

痛みはない。ただ、懐かしい熱さがあった。 

俺の血が、床にこぼれ落ちる。 

その音が、雨の音のように聞こえた。 

ああ、これでいい。 

俺の牙は、最後に俺自身を食い破ったのだ。 

意識が遠のいていく。 

泥の臭いが、また漂ってきた。 

懐かしい、あの戦場の泥の臭いだ。 

俺は、その中に沈んでいく。 

もはや天を掴む必要はない。 

俺は、俺自身になったのだから。 

風が、吹き抜けていった。 

何も残らない、ただの風だ。 

朱温。 

その名前さえ、やがて砂の中に消えていくだろう。 

だが、俺は確かに生きた。 

この泥濘の中で、誰よりも激しく。 

それだけで、十分だ。 

俺の目は、ゆっくりと閉じていった。 

闇は、温かかった。

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