泥濘の牙
一
泥の臭いがした。
雨に濡れた土の臭いではない。
人間が腐り、馬が倒れ、それが雨水と混じり合って発酵した、戦場の泥の臭いだ。
俺は、その泥の中にいた。
指先は冷え切り、感覚がない。
握りしめた剣の柄だけが、俺がまだ生きていることを教えていた。
黄巣。
あの男が掲げた「大斉」という夢の、その残骸の中に、俺は突っ立っている。
空は低く、灰色に濁っていた。
唐の軍勢は、すぐそこまで来ている。
俺の背後には、腹を空かせた野良犬のような男たちが数千。
彼らは俺を見ている。俺の中に、何か答えがあると思っている。
笑わせるな。俺の中にあるのは、ただ一つの乾きだけだ。
この腐りきった世界を、一度すべてぶち壊したい。
唐という、名前ばかりが立派で中身の空っぽな皮袋。
それを引き裂き、中にある膿をぶちまけてやりたい。
そのためなら、俺は悪魔にでも、裏切り者にでもなる。
「朱温」
横から声がした。
葛従周だ。
俺が泥の中から拾い上げ、俺の牙とした男だ。
あいつの頬には、深い斬り傷がある。
昔、一緒の初陣でつけられたものだ。
「どうする。黄巣様からは、死守せよとの命だ」
「死守か」 俺は唾を吐いた。
口の中には砂の味がした。
「従周。あの男は、もう終わっている。夢を見すぎた。夢は腹を膨らませてはくれない」
「裏切るか」
「裏切るのではない。俺は、俺自身を選ぶだけだ」
俺は空を見上げた。
雨が、俺の目に入った。
冷たい。
だが、この冷たさが心地よかった。
俺というちっぽけな存在が、この巨大な大地の中で、どこまで食い込めるか。
組織など、ただの盾に過ぎない。
俺は、俺の牙で、天の喉笛を噛み切る。
二
唐への帰順。
世間は俺を「全忠」と呼ぶようになった。笑止千万だ。
忠義など、俺の辞書にはない。
俺が求めているのは、圧倒的な力だ。
誰も俺を泥の中へ押し戻せない、誰にも俺を支配させない力。
そのためには、昨日まで肩を並べていた友の首も跳ねる。
それが、この時代の誠実さというものだ。
汴州に拠点を構え、俺は軍を鍛え上げた。
俺が求めたのは、洗練された兵法ではない。
ただ、一歩も引かない、死を恐れない狂気だ。
俺の軍では、将が戦死すれば、その部下は全員処刑される。
残酷だと奴らは言う。
だが、戦場に情けなど持ち込んで何になる。
情けをかける余裕があるなら、目の前の敵を一人でも多く殺せ。
それが、男が戦場で生き残るための、唯一の法だ。
夜、俺は一人で酒を飲む。
灯火が揺れている。
俺の心の中も、常に揺れている。
天下。
その二文字を口にする奴は多い。
だが、その重さを本当に知っている奴が、この地に何人いる。
李克用。
あの鴉児と呼ばれる男だけは、俺と同じ臭いがした。
砂塵の中に生き、、馬の血を啜って生きてきた男の臭いだ。
あいつとの戦いだけが、俺の血を沸かせる。
他の奴らは、ただの案山子に過ぎない。
「全忠様」
氏叔琮が報告に来る。
俺は返事をしない。
ただ、暗闇を見つめている。
俺は何のために戦っている。
権力か。女か。
違う。
俺は、俺自身の限界を知りたいだけだ。
この躰が、この意志が、どこまで届くのか。
それがわかった瞬間に、俺は死んでもいいと思っている。
だが、まだ、届かない。
天はまだ、俺の手の届かない場所で、嘲笑って来る。
三
唐の帝、昭宗を長安から引きずり出した。
長安。
かつての栄華の象徴。
それを俺は、火の海にした。
古いものが燃える音は、気分がいい。
美しい建物も、貴重な書物も、火の前ではただの燃料だ。
歴史だの伝統だの、そんな重荷を背負っていては、新しい時代は作れない。
俺は、すべてを灰にする。
その灰の中から、俺の国を築く。
昭宗の瞳を見た。
怯えていた。
それが、天子の姿か。
俺を泥の中から這い上がらせ、多くの男たちを死に追いやった世界の頂点が、こんな矮小な男なのか。
怒りが湧いた。
こんな男のために、どれだけの命が消えたのか。
「陛下」 俺は声をかけた。
声が、自分でも驚くほど冷えていた。
「この世は、血と鉄でできているのです。雅びな歌や詩では、腹は膨れません」
皇帝は何も言わなかった。
ただ、震えていた。
俺は、その男の首を絞める自分を想像した。
いや、まだ早い。
こいつは、まだ使える。
俺が、完全に天を掴むその日まで。
洛陽へ。
遷都という名の、死の行進だ。
道中、多くの役人が、多くの宮女が死んでいった。
俺はそれを見なかった。
俺が見ているのは、常に前にある無だ。
俺は、俺自身の空虚を埋めるために、この世界を破壊し続けているのかもしれない。
朱温。
俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。
だが、その声は、かつて泥の中で俺を呼んでいた母親の声でも、戦場で散った部下たちの声でもない。
ただの、風の音だ。
四
李克用との決戦。
上源驛の夜を、俺は忘れない。
酒を酌み交わし、友のように語り合った。
だが、俺の心の中では、常に剣が研がれていた。
あいつを殺さなければ、俺の時代は来ない。
火を放った。
燃え盛る館。
李克用が叫びながら闇の中へ消えていくのを見た。
仕留め損ねた。
だが、それでいい。
あいつがいなければ、この世はあまりにも退屈だ。
好敵手。
そんな甘い言葉ではない。
あいつは、俺の鏡だ。
あいつを殺すことは、俺自身の一部を殺すことと同じだ。
だからこそ、俺はあいつを、この手で殺さなければならない。
軍を動かす。
俺の軍は、もはや人間の集団ではない。
殺戮のための機械だ。
俺が命じれば、彼らは親兄弟でも斬る。
恐怖。
それが、俺がこの世界に与えた唯一の秩序だ。
愛だの信頼だの、そんな脆いものに、何が託せる。
恐怖だけが、裏切らない。
俺も、俺自身の恐怖と戦っている。
いつか、俺よりも強い男が現れ、俺を泥の中へ引きずり戻すのではないかという恐怖。
だから、俺は走り続ける。 立ち止まれば、死が俺を捕まえる。
五
昭宗を殺した。
洛陽の夜。
俺の命を受けた男たちが、皇帝を刺した。
翌朝、俺は死体の前で泣いた。
演技ではない。
俺は、自分が殺した男のために、本当に涙を流した。
それが、俺の歪んだ誠実さだ。
一人の男を殺し、その男のために泣く。
この世界で、これほど滑稽で、これほど真実なことがあるか。
「次は、誰だ」 俺は、血のついた手を洗わずに、酒を飲んだ。
白馬の禍。
唐の屋台骨を支えてきた貴族たちを、俺は一箇所に集めた。
彼らは、俺を見て鼻で笑っていた。
泥上がりの無頼漢。
それが奴らの俺に対する評価だ。
いいだろう。
俺は、その高い鼻を、泥の中に叩きつけてやる。
「清流と自称する奴らは、黄河に投げ込め。濁流に変えてやれ」
三十人以上の高官が、黄河に沈んだ。
悲鳴は、すぐに水音にかき消された。
これで、古い時代は終わった。
残ったのは、血を吸って黒ずんだ大地と、俺だけだ。
六
禅譲。
形だけの儀式を経て、俺は皇帝になった。
後梁。
それが、俺の国の名だ。
豪華な椅子に座り、俺は下を見下ろした。
多くの男たちが、俺に跪いている。
だが、俺の心は、少しも満たされなかった。
椅子が冷たすぎるのだ。
俺が求めていたのは、この椅子だったのか。
違う。
俺が求めていたのは、この椅子を奪い取るまでの、あの焦り、あの渇き、あの死の予感だった。
手に入れた瞬間に、すべては砂のように指の間からこぼれ落ちていく。
俺は、老いを感じ始めていた。
肌は乾き、目は霞む。
かつてのように、戦場を駆けることはもうできない。
俺の周囲には、俺の椅子を狙う狼たちが集まっている。
俺が育てた息子たちまでもが、俺の死を待っている。
皮肉なものだ。 俺が恐怖で支配した世界で、俺が最も恐怖を感じている。
「朱友珪」 長男の名前を呼んでみる。
あいつの瞳の奥には、俺がかつて持っていたのと同じ、暗い炎がある。
俺を殺しにくるのは、あいつか。 それとも、別の誰かか。
俺は、それを楽しみにすらしている。
泥の中で始まった俺の人生が、血の中で終わる。
それこそが、俺に相応しい。
七
病の床で、俺は夢を見た。
黄巣と共に、長安へ入城した時の夢だ。
あの時、俺たちは未来を信じていたわけではない。
ただ、世界が壊れていくことが、楽しくて仕方がなかった。
壊す。
それが、俺という男の本質だった。
俺は何も作らなかった。
帝国さえも、ただの破壊の過程に過ぎなかった。
夜の闇が深くなる。
寝所の外で、剣の音がした。
来たか。
俺は、枕元にある剣に手を伸ばそうとした。
だが、腕が動かない。
俺の躰は、もう俺の意志を裏切っていた。
扉が開く。
影が近づいてくる。
朱友珪だ。
あいつの顔には、迷いはない。
俺がそう教えたからだ。
「父上。お疲れ様でした」
あいつの声が、俺の耳に届いた。
俺は笑った。
声にはならなかったが、確かに俺は笑っていた。
「やれ。泥の中へ、俺を帰してくれ」
腹に熱い衝撃が走った。剣が、俺の身体を貫いている。
痛みはない。ただ、懐かしい熱さがあった。
俺の血が、床にこぼれ落ちる。
その音が、雨の音のように聞こえた。
ああ、これでいい。
俺の牙は、最後に俺自身を食い破ったのだ。
意識が遠のいていく。
泥の臭いが、また漂ってきた。
懐かしい、あの戦場の泥の臭いだ。
俺は、その中に沈んでいく。
もはや天を掴む必要はない。
俺は、俺自身になったのだから。
風が、吹き抜けていった。
何も残らない、ただの風だ。
朱温。
その名前さえ、やがて砂の中に消えていくだろう。
だが、俺は確かに生きた。
この泥濘の中で、誰よりも激しく。
それだけで、十分だ。
俺の目は、ゆっくりと閉じていった。
闇は、温かかった。
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