表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
残照の夏  作者: 麻白由良
9/9

エピローグ:夏の終わり、ハンダの煙

 九月に入り、風の中にわずかな秋の気配が混じり始めた。

 中村工務店の事務所には、以前と変わらぬ蝉の声と、ハンダごてから立ち上る松脂の匂いが漂っている。


 京子が向き合う作業台の隅には、小さな一羽の折り鶴が置かれていた。あの日、山を降りる車内で修と分け合って食べた「羊羹」の、少し潰れた銀色の包み紙で折られたものだ。それは、あの凄惨な夜を生き延びた二人の、言葉にできない誓いのように、窓からの光を静かに跳ね返している。


 事件の後、二人は警察から執拗な事情聴取を受けた。

 焼け跡や崩れた防空壕の奥から、身元不明の夥しい人骨が発見されたからだ。「寿楽荘」の凄惨な実態が明るみに出た直後、世間は「温泉宿の殺人鬼」と書き立て、マスコミは一時狂乱した。だが、当事者である小林茂と千代は行方不明のまま、遺体すら見つかっていない。


 追及すべき標的を失った警察の捜査は、やがて行き止まりに突き当たった。修と京子が語った「火災から逃げ出した」という証言を覆す証拠もなく、二人は数日ほどで解放された。刺激的なニュースを求める大衆も、また別の新しいスキャンダルへと移り変わり、あの忌まわしい事件は、深い森の霧に隠されるようにして急速に風化していった。


「京子さん、そのラジオ、直りそうか?」


 勇が、冷えた麦茶を抱えて入ってきた。

 勇は、二人からあの夜に起きたことのすべてを聞いている。戦友であった茂の末路も、あの宿に巣食っていた闇の正体も。だが、勇はそれについて「そうか」と短く応じただけで、それ以上は何も訊かなかった。ただ、戻ってきた二人の瞳に宿った、以前とは違う「生の光」だけを信じることにしたのだ。


「ええ。……明日には、また音が鳴るわ」


 京子が微笑む。その表情からは、長年彼女を縛り付けていた冷たい静謐さが消え、年相応の柔らかな陽だまりのような温かさが戻っていた。


「おい、親父さん! この発動機、組み上がったぜ!」


 工場の奥から、油にまみれた修が顔を出した。

 作業着の袖を捲り上げた修の腕は、誠の面影を借りずとも、一人の男として十分に頼もしかった。誠の形見の革ジャンは、今も工場の片隅に置かれているが、修がそれを袖に通すことはもうない。彼は高校へ戻り、自分自身の足で未来を歩む決意を固めていた。


「……修、お前、ネジが一本余ってるぞ」

「げっ、マジかよ! どこだ!?」


 慌てる修の姿を見て、京子は声を上げて笑った。足元では、あの日連れ帰った黒猫が欠伸をし、その笑い声に合わせて銀色の折り鶴が微かに揺れる。猫は時折、誰もいない空間をじっと見つめたり、存在しない鈴の音を追うように耳を動かしたりする。だが、その瞳に宿るのはただの獣の好奇心に過ぎない。


 一九七八年の夏。

 凄惨な死線を越えた二人は、今、真っ直ぐな朝の光の中を、それぞれの日常へと歩き始めていた。

ブックマークや評価をいただけますと幸いです。

執筆の大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ