エピローグ:夏の終わり、ハンダの煙
九月に入り、風の中にわずかな秋の気配が混じり始めた。
中村工務店の事務所には、以前と変わらぬ蝉の声と、ハンダごてから立ち上る松脂の匂いが漂っている。
京子が向き合う作業台の隅には、小さな一羽の折り鶴が置かれていた。あの日、山を降りる車内で修と分け合って食べた「羊羹」の、少し潰れた銀色の包み紙で折られたものだ。それは、あの凄惨な夜を生き延びた二人の、言葉にできない誓いのように、窓からの光を静かに跳ね返している。
事件の後、二人は警察から執拗な事情聴取を受けた。
焼け跡や崩れた防空壕の奥から、身元不明の夥しい人骨が発見されたからだ。「寿楽荘」の凄惨な実態が明るみに出た直後、世間は「温泉宿の殺人鬼」と書き立て、マスコミは一時狂乱した。だが、当事者である小林茂と千代は行方不明のまま、遺体すら見つかっていない。
追及すべき標的を失った警察の捜査は、やがて行き止まりに突き当たった。修と京子が語った「火災から逃げ出した」という証言を覆す証拠もなく、二人は数日ほどで解放された。刺激的なニュースを求める大衆も、また別の新しいスキャンダルへと移り変わり、あの忌まわしい事件は、深い森の霧に隠されるようにして急速に風化していった。
「京子さん、そのラジオ、直りそうか?」
勇が、冷えた麦茶を抱えて入ってきた。
勇は、二人からあの夜に起きたことのすべてを聞いている。戦友であった茂の末路も、あの宿に巣食っていた闇の正体も。だが、勇はそれについて「そうか」と短く応じただけで、それ以上は何も訊かなかった。ただ、戻ってきた二人の瞳に宿った、以前とは違う「生の光」だけを信じることにしたのだ。
「ええ。……明日には、また音が鳴るわ」
京子が微笑む。その表情からは、長年彼女を縛り付けていた冷たい静謐さが消え、年相応の柔らかな陽だまりのような温かさが戻っていた。
「おい、親父さん! この発動機、組み上がったぜ!」
工場の奥から、油にまみれた修が顔を出した。
作業着の袖を捲り上げた修の腕は、誠の面影を借りずとも、一人の男として十分に頼もしかった。誠の形見の革ジャンは、今も工場の片隅に置かれているが、修がそれを袖に通すことはもうない。彼は高校へ戻り、自分自身の足で未来を歩む決意を固めていた。
「……修、お前、ネジが一本余ってるぞ」
「げっ、マジかよ! どこだ!?」
慌てる修の姿を見て、京子は声を上げて笑った。足元では、あの日連れ帰った黒猫が欠伸をし、その笑い声に合わせて銀色の折り鶴が微かに揺れる。猫は時折、誰もいない空間をじっと見つめたり、存在しない鈴の音を追うように耳を動かしたりする。だが、その瞳に宿るのはただの獣の好奇心に過ぎない。
一九七八年の夏。
凄惨な死線を越えた二人は、今、真っ直ぐな朝の光の中を、それぞれの日常へと歩き始めていた。
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