第八話:夜明け
祭壇の裏側、隠された狭い通路を這い進むと、茂の言った通り、道の中央に異様な存在感を放つ黒ずんだ祠が鎮座していた。周囲には無数の赤いこけしが首を並べ、通路を物理的に塞いでいる。
「これか……!」
修は手にしていたパイプレンチを握り直した。祠からは、耳にこびりつくような女の啜り泣きと、数百の赤子が一度に鳴き出したような不協和音が溢れ出している。空間が歪み、視界が真っ赤に染まる。
「う゛! な、なんだ!?」
「修くん、負けないで!」
京子の叫びが修の意識を繋ぎ止めた。
「あ゛ぁああっ!! 消えろぉ!」
修は咆哮と共に、全身の力を込めてパイプレンチを祠の頂部に叩きつけた。
崩れ始める隧道。背後からは炎の熱気と、崩落の轟音が迫る。
パリン、と硝子が砕けるような非現実的な音が響き、祠が粉々に粉砕された瞬間、まとわりついていた重圧が霧散した。
――その刹那。
鼓膜を劈く凄まじい「音」が、二人を襲った。
今までこの世の果てのような静寂に包まれていた山全体から、一斉に虫の鳴き声が、狂ったような音量で降り注いだのだ。堰を切ったように戻ってきた夏の喧騒は、そこが紛れもない現実の世界であることを、あまりにも暴力的な生気をもって告げていた。
気づけばすぐそこに、外界へと続く出口が開けていた。
二人は無我夢中で山道へと躍り出た。
背後では、旅館の本棟が夜空を真っ赤に染め上げる。あの自家発電機が限界を迎え、溜まった燃料に引火したのだろう。かつて上客を迎え、華やかな歴史を刻んだはずの寿楽荘は、小林夫妻の歪んだ愛情もろとも、巨大な火柱となって崩れ落ちていった。
旅館の敷地を抜け、山道の険しい下り坂に差し掛かった頃、ようやく空の端が白み始めた。
京子は、時折振り返りそうになる自分を、前を走る少年の背中が引き止めていることに気づいていた。数時間前まで、自分に従順で少し反抗的だっただけの少年は、今、その広い肩で風を切り、血の滲んだパイプレンチを握り締めて、迷いなく彼女を外界へと導いている。
「京子さん、あと少しだ。……ほら、あそこ!」
修が指差す先、林道の脇に停められた軽トラックのシルエットが見えた。修の声には、もはやかつての幼さはなかった。憧れの女性を守り抜き、凄惨な死線を潜り抜けた経験が、彼を急速に「大人」へと変貌させていた。
二人が軽トラックに辿り着き、運転席と助手席に転がり込むように乗り込んだその時、山の稜線からまばゆい朝日が差し込んできた。
運転席に乗り込んだ京子は、隣の助手席で荒い呼吸を整える修の横顔をまじまじと見つめた。
これまで京子の目に映る修は、亡き夫・誠の幻影を追う少年に過ぎなかった。その純粋な気遣いに付け込み、彼女は無意識に、死んだ夫の面影を彼に求めて甘えていた。
だが、今目の前にいる彼は、誠の代わりでも、誰の身代わりでもない。己の恐怖に打ち勝ち、自分を守り抜いてくれた、一人の頼もしい青年だった。
「修くん、ありがとう。……もう、大丈夫よ」
京子の言葉に、修はふと、自分の肩の重みに気づいた。
誠の形見である革ジャンは、先ほどの死闘で袖が裂け、返り血と煤で無残に汚れ、硬くこわばっていた。それはきっと、修が「誠のような男にならなければならない」と自分に課してきた、憧れという名の呪縛の象徴だったのかもしれない。
修は、誠の形見である革ジャンを脱ぐ。
朝の光に照らされた彼の白いシャツは、汗と埃にまみれている。だが、その背中は誠の影を借りずとも十分に大きく、頼もしかった。修は汚れた革ジャンを座席の後部に放り出す。それは、彼が「修」という一人の男として歩み出した瞬間でもあった。
京子はエンジンの鍵を回した。
力強い駆動音が朝の空気に響き渡る。
「……これ」
不意に、修が少し潰れた銀色の包みを差し出した。あの売店で掠め取ってきた既製品の羊羹だ。京子は驚きながらもそれを受け取り、半分に割って修に返した。二人は無言で、剥き出しの甘みを口に運んだ。狂った女将の手料理ではない、工場で作られた潔いほどに真っ直ぐな砂糖の味が、麻痺していた二人の味覚と「生」の感覚を、力強く呼び覚ましていく。
どちらからともなく、小さく笑みがこぼれた。それは、地獄から生還した者だけが分かち合える、泥臭くも尊い勝利の味だった。
車体が震え、ゆっくりと動き出したその瞬間、開け放たれた窓からしなやかな黒い影が飛び込んできた。
「うわっ、びっくりした……!」
修が声を上げ、膝の上を見下ろす。そこには、あの黒猫が丸まっていた。
だが、その瞳に宿っていた、どこか見透かすような神秘的な光はもうない。京子の首に腕を回したあの女児の温もりも、そこにはなかった。ただの、少し毛並みの荒れた一匹の野良猫。役目を終え、娘の魂が抜けた後の抜け殻のような、ありふれた生き物の重みだけがそこにあった。
それでも、修はその背中を優しく撫でた。猫は眠たげに目を細め、喉をごろごろと鳴らして彼の手に頭を擦りつけてくる。
修は少し照れくさそうに、けれど誇らしげに頷くと、ダッシュボードの古いラジオのスイッチを入れた。
ノイズ混じりのスピーカーから流れてきたのは、夏の朝にふさわしい軽快な流行歌だった。その明るいメロディが、つい先ほどまでの地獄のような一夜が嘘であったかのように、車内を日常へと引き戻していく。
「帰ろう、修くん。私たちの町へ」
二人の背後で、悪夢を焼き尽くした黒煙が、真夏の青い空へと溶けて消えていく。
膝の上の小さな命と共に、過去を灰にした山道を下り、二人は光溢れる街へと、真っ直ぐに軽トラックを走らせた。
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