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残照の夏  作者: 麻白由良
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第七話:母性の慟哭

「……修くん、だったか。京子さんは無事か」


 月明かりの下、猟銃を携えた茂が立っていた。昼間の頑固そうな隠居老人の姿はどこにもない。だが、その肩口からは絶え間なく血が滴り、衣服を黒く染めていた。修が切迫した様子で頷くと、茂は顎で庭園の離れを指した。


「ついてこい。……話は後だ」


 案内された「離れ」は、旅館の喧騒から切り離された上客用の豪勢な造りだった。質の高い畳の匂いが漂い、奥からは専用の岩風呂から溢れる源泉の音が絶えず響いている。本棟とは長い渡り廊下で辛うじて繋がっているが、ここはまるで別の結界に守られているかのような静寂に包まれていた。


「明かりは付けるな。……京子さんを布団に」

 修が京子を布団に寝かせると、茂は重い扉を閉め、(かんぬき)を下ろした。

「儀式の最中、この旅館の敷地は外界から完全に隔絶される。出口を探しただろうが、今のここは、現世の理が通じない異界だ」


「一体、何が起こってるんだ。女将さんは、あの化け物はなんなんだよ」

 修の問いに、茂は震える手で煙草に火をつけようとしたが、指が動かず、それを床に落とした。彼は絞り出すように、この地に伝わる呪われた因習について語り始めた。


「……この地には、古くからの教えがある。腹の赤子はまだ魂がなく、山を彷徨っているのだとな。なかなか産まれぬ時、男は赤いこけしを手に、一人で女人禁制の山へ入る」

 茂は窓の外、黒々とそびえる山影に怯えるような視線を向けた。

「山を歩き、手に持ったこけしがズシリと重くなったと感じた場所で引き返す。そこが、彷徨える魂がこけしに『宿った』場所だ。そのこけしを妊婦の枕元に据えることで、魂を胎内へ導き、出産を促す。……だが、あいつはあろうことか、その儀式を『死者』に対して行いおった。死んだ息子の魂を、無理やり現世へ連れ戻すためにな」


「じゃあ、あの化け物は……」

 修は背筋が凍るのを感じた。


「息子の、勝だ」

 茂の顔が苦痛に歪む。

「戦地から戻った私が見たのは、客に勝の魂を憑依させ、『勝』の名を呼ぶ千代の姿だった。だが、儀式は不完全だった。器となった肉体は徐々に変異し、理性を失い、怪物になる。だから定期的に、新しい肉体へ乗り換えさせていたんだ」


 終戦を迎え戻ってきた茂を待っていたのは、従業員も消え失せ、不気味に変貌した千代と、その背後にうごめく「何か」だった。戦場以上の地獄が、帰ってきた後にあったのだ。


 茂は吐き捨てるように言葉を継いだ。


「修くん。私は恐ろしいのだ。私は、あいつが山に『穢れ』を持ち込んでしまったのではないかと、それが恐ろしいのだ。聖域を冒し、死者を呼び戻そうなどという不遜な真似を、山の主が許すはずがない。……あれは、祟りなのだ」

 茂は消え入るような声で囁いた。

「……千代が持ち帰った魂、あれは本当に、勝だったのか? もしかしたら、親の情を餌にする、もっと別の、得体の知れない『何か』なのではないか。……千代に知恵を貸し、力を貸している、目には見えぬナニカがいる。そいつが今の勝を動かし、この宿を異界に変えている。……そいつが、私は何よりも恐ろしい」


 茂は再び煙草を咥えたが、ライターを操る指が小刻みに震え、火を灯すことができない。カチッ、カチッという虚しい音が、静まり返った部屋に響く。

 見かねた修が、黙って茂の手からライターを受け取った。

 小さな火を灯し、茂の咥えた煙草の先に寄せる。赤く光った火種を確認し、修はライターをそっと茂の手元に戻した。茂は深く、肺の奥まで煙を吸い込み、震えを鎮めるようにゆっくりと吐き出した。


 茂の眼奥には、戦地を生き抜いた男ですら抗えない、底知れぬ深淵への恐怖が宿っていた。神域を穢し、人ならざる理を招き入れてしまったことへの、抗いようのない根源的な恐怖であった。


「修くん、君は新しい『器』に選ばれた。千代はお前を器に、京子さんをそのための供物にしようとしている。……本来、勇に来いと言ったのは、あいつと共に『息子だったもの』を殺し、この狂った連鎖を終わらせるためだった。だが、来たのはお前たちだ。……すまない、私がもっと早く決着をつけていれば」


 茂が言い終えたその時、布団の上で横たわっていた京子がゆっくりと上体を起こした。


「……修くん、あの子は? あの子はどこ?」


 京子は上体を起こすなり、修の肩を掴んで問い詰めた。その瞳はまだ混濁しており、必死に周囲の暗がりを求めて彷徨っている。


「京子さん、落ち着いてくれ。あの子って……」

「女の子よ! あなたに預けた、あの子よ! 一人にしちゃだめ、あんな化け物がいるところに……っ」


 取り乱す京子の姿に、修は胸を抉られるような痛みを感じた。その傍らで茂の顔が、まるで幽霊でも見たかのように青白く強張っている。

 茂は知っている。この宿に女児の客などいないことを。そして何より、目の前の女が叫ぶ「見えない子供」への妄執が、日々見せる千代の姿と、あまりにも残酷に重なって見えたからだ。


 修は震える手で、足元にすり寄ってきた黒猫を抱き上げ、京子の視線の先に差し出した。


「……いないんだ。京子さん、最初から女の子なんて、どこにもいなかったんだよ」


 修は震える手で、足元にすり寄ってきた黒猫を抱き上げると、それを京子の前に差し出した。彼の唇は小刻みに震え、瞳には涙に近い情けないほどの不安が滲んでいる。


「これを見てくれよ! あんたが抱えていたのは、この猫なんだ! 頼むから……お願いだから変なこと言わないでくれ。いつもの京子さんに戻ってくれよ!」


 その声は、もはや説明というよりは悲鳴に近い懇願だった。

 十七歳の少年には、信頼していた大人が、自分の一番近くにいた女性が、理解不能な狂気の淵へ滑り落ちていく様を直視する強さなどなかった。


「……そんな。嘘よ。だって、あんなに温かかった……」


「女の子なんていない! 鈴の音なんてしなかった! あんたまであのおばさんみたいになったら、俺……俺、どうしていいか分かんねえよ!」


 必死に叫ぶ修の言葉が、冷たい水のように京子の脳裏を叩いた。差し出された猫は、暗闇の中で金色に光る瞳を向け、小さく「ニャア」と鳴く。

 京子は凍りついたように動きを止めた。自分の腕に残る、あの小さな手の温もり。柔らかな着物の感触。それらすべてを否定する少年の必死な形相が、彼女をかろうじて「現実」へと引き戻していた。


「……修、くん……」


 絶望に打ちひしがれ、京子が顔を覆う。その悲痛な背中を、茂はいたたまれないような、それでいて何かを祈るような眼差しで見つめていた。


「……京子さん。これは、ひとつの可能性だがな」


 茂は絞り出すような声で、言葉を紡いだ。

「山の主は、時に見る者の最も強い『願望』を形にするのかもしれない。……あんたが抱いていたのは、誰かの願いだったのかもしれん。あるいは、あんたの強い想いが、ただの野良猫に束の間の姿を与えていたのか……」


 茂はそこで言葉を切り、苦しげに顔を背けた。それが慰めなのか、それとも自分に言い聞かせている現実逃避なのか、彼自身にも分からなかった。ただ、京子を千代と同じ暗闇へ行かせてはならない。その一念だけが、彼の声を辛うじて支えていた。


 その茂の震える声に、京子はハッと我に返った。

 自分の妄執に怯える少年と、血を流しながらも必死に自分を繋ぎ止めようとする老人の姿。それが、混濁していた彼女の意識に「今、目の前にある現実」を強く刻みつけたのだ。


「……ごめんなさい、二人とも。私、大丈夫。もう、大丈夫だから」


 京子は自分を抱きしめるように深く息を吐くと、震える膝に力を入れて立ち上がった。そして、茂の肩から絶え間なく滴る赤黒い汚れに気づき、痛ましそうに瞳を揺らした。


「茂さん、その傷……。動かないで、今、止めますから」


 京子は這い寄るようにして彼の側へ寄り、手近な布を裂くと、手際よく止血の処置を始めた。

 夫と子を同時に失い、孤独に喘いできた彼女には、狂気に走った千代も、それを止められず苦悩してきた茂も、もはや他人事とは思えなかった。同じ「欠落」を抱え、闇の淵を歩いてきた者として、彼女は小林夫妻をただの化け物や加害者として否定し去ることができなかったのだ。


 茂が苦しげに言葉を紡ぐ。

「聞いてくれ、京子さん。一度失ったものを無理やり繋ぎ止めても、それはもう愛ではない。……道を踏み外さないでくれ」

 茂は自分の震える手を見つめた。

「……千代が山に入り、あの忌まわしい儀式に手を染めたと知ってもなお、私は見て見ぬふりをした」


 茂の眼に、決然とした光が宿る。

「……これは報いなのだ。私があの時、あいつを抱きしめて一緒に泣いてやれば、あんな化け物を生み出すこともなかったはずなんだ」


 茂は立ち上がり、修を側へ手招きした。そして、自分の懐から取り出したズシリと重い鋼鉄の塊を、修の手に押し付けた。

「二六式だ。……持っていけ。私が戦地から持ち帰り、結局、一度も自分に向ける勇気がなかった鉄屑だ」

 手渡されたのは、古い回転式拳銃だった。使い込まれた銃身が月光を鈍く弾いている。

「もしもの時は使え。安全装置はない。相手に向けて、ただ引き金を引くだけでいい」


 修は、手の平に伝わる冷たく非情な感触に息を呑み、恐る恐るその銃を受け取った。少年の手にはあまりに重く、あまりに生々しい死の道具。


 その直後だった。

 渡り廊下の向こうから、床板を激しく踏み鳴らす足音が近づき、離れの戸が乱暴に叩き切られた。


「邪魔をしないでって言っているでしょう、茂さん! その二人は、勝を完成させるための大事な供物なのよ!」


 そこに立っていたのは、返り血を浴び、無残に汚れ乱れた着物を振り乱した千代だった。狂気に目を血走らせた彼女の姿は、もはや幽鬼と化している。

 彼女の背後からは、あの産着を纏った異形が、死臭を撒き散らしながらヌボリと這い出してくる。崩れ始めている異形は千代の怒りに呼応するように、喉の奥から地響きのような唸り声を上げた。


 茂は、痛む肩を押さえながら吐き捨てるように呟いた。

「……やはり、仕留め損ねたか」


 茂は修たちと合流する直前、すべてを終わらせるべく短刀を手に千代の寝所へ向かった。老婆ひとりなら短刀で事足りるはずだった。手傷は負わした。しかし、千代は憑依した異形から生気を得ているのか、人間離れした膂力を発揮し、茂を返り討ちにして逃走したのだ。


「……そんなの、死んだ人が望むわけないじゃない」

 京子が、立ちふさがる千代に向けて静かに、だが毅然と声を上げた。


「お黙りっ! あんたは大人しく供物になりな゛あ゛ぁ!」


 狂乱する千代の叫びと共に、背後の異形が地を這うような速度で突進してきた。

 茂が咄嗟に猟銃を水平に構え、引き金を引き絞る。至近距離で放たれた轟音と火花が異形の胸を叩いた。だが、怪物は怯むどころか、その突進の勢いのまま、負傷している茂の身体を丸太のような腕で撥ね飛ばした。


「茂さん!」


 壁に叩きつけられた茂の姿を見た修が、反射的に二十六年式拳銃を突き出した。


「京子さん、下がって!」


 指先に力を込め、重い引き金を引き絞る。


 ――轟音。


 一発、二発。火花が散り、異形のどろりとした肉体が弾けるが、痛みを感じていないのか、怪物は止まらない。三発目が肩を貫通したところで、異形は丸太のような腕を払い、修を壁際まで弾き飛ばした。


「修くん!」

 京子が駆け寄ろうとした瞬間、異形の巨大な手が彼女を捕らえ、畳の上へと押し潰した。死臭が鼻を突き、怪物の醜悪な顔が眼前に迫る。絶体絶命。しかしその時、足元から黒い影が飛び出した。あの黒猫だ。猫は鋭い爪を立てて異形の顔面に飛びかかり、一瞬の隙を作る。


「この、畜生が……!」

 千代の目が血走る。彼女の意識はもはや勝の復活よりも、自分を拒絶する京子への凄まじい「殺意」へと塗り替えられていた。包丁を振り上げ、自らの手で京子を仕留めようと踏み出す。


 だが、千代が執念を歪ませ、儀式への願いを解いたその瞬間、呪われた因習の鎖に綻びが生まれた。


 猫を振り払った異形が大きく震えた。怪物は咆哮を上げ、京子へと迫る千代を、その剛腕で容赦なく吹き飛ばした。千代は壁に叩きつけられ、悶絶する。


 京子はゆっくりと上体を起こした。目前に立つ異形と目が合う。一瞬、その異様さに身体が竦んだが、彼女は気づいた。その混濁した瞳の奥に宿る、静かで深い光。それは紛れもなく、四年前のあの日に失った夫、誠の眼差しだった。


「……誠、さん?」


 京子が呼びかけた刹那、京子の目には怪物の姿が消え、そこには穏やかに(たたず)む誠の姿が映し出された。

 儀式の崩壊が始まったのか、その姿は陽炎のように朧に揺れている。京子はこみ上げる感情に耐えきれず、両手で鼻と口を覆うようにして、祈るような仕草で夫と対面した。


 京子は魂で理解した。これは、奇跡だ。

 視界が涙で滲む中、彼女は声を振り絞って、最後にして唯一の言葉を伝えた。


「……貴方の妻であれて、幸せでした」


 京子の震える声に応えるように、誠が満足げに微笑んだ。その足元に、どこからかあの黒猫が寄り添う。

 次の瞬間、修は自分の目を疑った。京子の隣で立ち尽くす彼の視界でも、猫の輪郭がゆらりと揺らぎ、朱色の着物を着た愛らしい女児の姿へと変わったのだ。

「……あ」

 修の口から、驚きとも嘆息ともつかない声が漏れる。京子だけが見ていた幻影ではない。今、二人の瞳には、確かに同じ「奇跡」が映っていた。

 この子が、誠と京子の間に生まれてくるはずだった命なのだと、理屈を超えた確信が修の胸を貫く。


 心は、確かに触れ合った。


 しかし、奇跡は長くは続かない。

 誠の魂が離れると同時に、理性を完全に失った肉体だけの異形が、獣のような叫びを上げて再び暴走し始めた。


「……勝、そこまでだ」


 血を流す茂が、這うようにして再び猟銃を構えた。

 轟然たる銃声が離れに響き渡る。

 鉛弾が異形の頭部を粉砕し、今度こそ動かぬ肉の塊となって畳に沈んだ。


「勝……! 私の勝……!」

 変わり果てた「息子」の死体を目の当たりにし、千代は完全に発狂し、髪を振り乱して這い寄ろうとした。茂は背後から彼女を力一杯羽交い締めにし、その暴れる身体を抑え込んだ。


「行け! 修くん、京子さん! 今のうちに山を降りるんだ!」

「でも、茂さん、あんたも……!」

 修が叫んだが、茂は悲しげに、だがこれ以上なく穏やかな顔で首を振った。


「すまない、修くん。私には、こいつを連れて行く責任がある」

 離れの奥から火の手が上がり始めていた。千代が倒した行灯の火か。古い木材が爆ぜる音が響く。茂は暴れ狂う千代を、折れそうなほど強く、かつて愛を誓ったあの日のように優しく抱きしめた。千代の狂った叫びが止まる。彼女が茂の胸に顔を埋めたように見えた。

「……それに、私には、ずっと目を背けてきた疑念がある。山を彷徨う魂を赤子に卸す――学者先生に言わせれば、どこにでもある『ありふれた習俗』だそうだ。だが……あの勝を見て、考えてしまったのだ」

 茂は、抱きしめた千代を見つめ、力なく笑った。

「雛月村の男衆が、安産を願って山から連れ帰ってきた魂。それは、本当に赤子だったのか? 何代も繰り返してきた我々は、はたして人間なのだろうか……」


 茂の問いに、京子と修は答えられなかった。


 二人の窮する様子に茂は微笑む。

「……京子さん、修くん。勇によろしく伝えてくれ」

 離れに火が回る。

 茂は背後の闇――あの防空壕の入り口を指差した。

「道は閉ざされている。……洞窟へ戻れ。祭壇の真裏に、外の山道へと通じる隧道がある」


 茂はその眼に執念を宿らせて厳命した。

「いいか、道中に最後の一つ、忌まわしい『祠』がある。それがある限り、お前たちは永遠にこの敷地から出ることはできん。何があっても、必ずその祠を叩き壊せ。……行け!」


 修は京子の手を取り、再びあの死臭漂う洞窟へと飛び込んだ。


 背後で業火が離れを飲み込んでいく。茂の影は、愛する妻をその腕にしっかりと抱いたまま、紅蓮の炎の中に溶け、消えていった。それは三十年以上にわたる「孤独」という名の呪縛から、二人がようやく解放された瞬間でもあった。

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